追憶1
「お前を家来にしてやる」
アルフレッドには、かつて、そんなことを言っては連れ回して歩いた女の子がいた。泣き虫で、鈍臭く、使えない奴だと思っていたが、他に手頃な家来が見つからなかったので仕方がなかった。
アルフレッドは毎日のように馬車で家来の屋敷へ赴き、家来の予定など一切構わず、秘密基地に改造した自邸の東屋へ連行し、
「悪魔召喚をする」
「生贄を仕留めてこい」
「呪いの実験だ」
と得体のしれない遊びに付き合わせた。家来は泣いて嫌がったが、頭が弱いのでお菓子を頬張らせると大概泣き止んだ。この家来の良いところは、アルフレッドがどんな仕打ちをしても次の日にはけろっとしていることだった。
その家来が、ある日、いつものように呑気に言った。
「アルフレッド様」
「なんだ」
「リリーね、昨日ね、アーサーと婚約するのは嫌かって、パパに聞かれたの」
家来は自分のことをリリーと呼ぶ。もう九歳になるくせに甘ったれていると思うが、アルフレッドは何故かそれを注意したことはなかった。
「政略結婚か。お前らみたいな脆弱な貴族はそうやって徒党を組まねば生きていけないからな」
アルフレッドは五歳の時から三人の家庭教師について勉強している。リリーにわからない言葉を態とよく使った。
「脆弱?」
「弱いって意味だ」
「徒党って?」
「お前は本当に馬鹿だな。辞書で調べろ」
「うん。あのね、それでね、パパがアーサーはいいって言っているから、リリーもいいなら婚約しなさいって言ったの。リリーはアルフレッド様の家来だから、アルフレッド様に聞いてみるって言った」
「そんなことをいちいちオレに聞くな」
「アーサーと婚約してもいい?」
「好きにしろ。つまらん事を聞くな。それより今日は昨日仕掛けたザリガニの罠を見に行くぞ」
「……うん。わかった」
別にどうでもよかった。強がりでも拗ねて言ったわけでもない。
アルフレッドはよく知っている。政略結婚などつまらないものだ。アルフレッドの両親は家同士の繋がりの為に婚儀を結び、彼が六歳の時、母親は男と駆け落ちした挙句、馬車事故で死んでしまった。家の為に結婚したって、そのうちに別れる。けれど、家来はずっと家来だ。家来は王様に忠義を尽くして命までも差し出すものだから。例え周囲を敵陣に囲まれようとも最期の一瞬まで共にいる。アルフレッドが夢中になって読んだグロルズ王の伝記にそう書いてあった。だから、家来が婚約しようが結婚しようがどうでもよかったのだ。馬鹿のリリーがグロルズ王の伝記など読むはずがないことには気づかなかった。
家来が婚約してその関係は徐々に崩れた。アルフレッドが迎えに行ってもリリーは留守であることが増えた。
「アーサーとお勉強するから、アルフレッド様と遊べないの」
「誰がお前と遊んでやるなんて言った。お前はオレの家来なのだから、オレの言うことに逆らったら駄目なんだ」
「でも、リリーはアーサーの婚約者だから、アーサーと一緒に勉強しないと」
「うるさい。そんなものは断って来い」
「アルフレッド様、ごめんね。リリーはもう行くね」
リリーが背を向けて走り去る。アルフレッドはその後姿が無性に腹立しかった。鈍足でぼてぼて走るのですぐに追いついて腕を掴んだ。
「家来のくせに勝手に帰るな」
「痛い痛い!」
ありったけの力で手首を掴むとリリーはぶんぶん腕を振った。アルフレッドは更にイライラした。
「うるさい! お前みたいな愚鈍を家来にしてやっているんだ! 逆らうな!」
「家来になんかなりたくない! リリーはお姫様になりたい!」
「馬鹿か。姫になんかなれるか! お前はオレの家来なんだ!」
「なれるもん! アーサーはリリーのことお姫様みたいだって言った! リリーはアーサーのところに行く!」
リリーに手を振り払われて、アルフレッドは身体中の血が逆流するのを感じた。同時に渾身の力でリリーの頭を殴った。容赦も加減もなく。拳がじんじん痛む。痛い、痛い、痛い。それが更に憎悪を増長させる。一方、リリーはあまりに驚きすぎたせいでぼんやりしていた。アルフレッドはこれまでどんな横暴を強いてもリリーに手を挙げたことはなかった。時間差でリリーの瞳がじんわり潤んでいく。やがて涙の一粒がぽろりと零れ落ちると、わんわん泣き出した。あまりの絶叫に、屋敷の中からリリーの姉のエリスが飛び出してきて、
「リリー! どうしたの?」
小柄なリリーを抱き上げる。
「アルフッド様何があったのですか?」
リリーは泣くばかりで何も言わず、アルフレッドは唇を噛んでじっとリリーを睨んでいる。リリーは元々よく泣く方なので、エリスはあまり気にしていなかった。それよりもアルフレッドの様子が気に掛かった。その深い緑の瞳が滲んで見えたから。アルフレッドの性分はエリスも重々承知だ。その彼が泣くなんて。そんなエリスの視線を感じたのかアルフレッドは俯いた。身体が震えている。
(お前が悪い)
(お前が悪い)
(お前が悪い)
ただ事でないことを察したエリスが、もう一度声を掛けるより先に、アルフレッドは馬車に向かい走り出した。エリスは流石にリリーを抱えて後を追うことはできなかった。しばらくして漸く泣き止んだリリーに喧嘩の理由を尋ねても、口の軽いはずのリリーは何も答えなかった。
アルフレッドとリリーの喧嘩はしょっちゅうだった。正確に言うとアルフレッドが一方的にリリーを虐げるのだが。しかし、リリーは苛められて内に籠る性格ではなく、何でもかんでもぺらぺらと家族や、オーウェン家の使用人達に話した。当然、そのことはオーウェン公爵の耳にも入る。オーウェン公爵は、政府の要人で月の半分以上を王都で過ごし忙しく働く傍らアルフレッドを放置しているわけではなかった。六歳で母を亡くし、我儘に育っている息子に苦言を呈し、筆頭執事には厳しく注意するよう指示していた。領地に戻るたび、アルフレッドを諭し、アマリエ伯爵家を訪れ夫妻が恐縮するほど頭を下げた。
「嫌なら断っていいんだよ。我慢することなどないからね」
オーウェン公爵はリリーにも直接優しく告げていた。リリーとアルフレッドの関係は周囲の与り知るところだったのだ。それでもなお、二人が毎日一緒に遊んでいたのは、偏にリリーがアルフレッドを拒絶しなかったからだ。
泣かされて帰ってきても翌日アルフレッドが迎えにくれば、リリーはにこにこ出掛けた。アルフレッドが怒り狂ったり拗ねたりして来訪しないときは、リリーが自分から訪ねて行く。
今回のような場合なら、悪くなくても謝りに行くのはリリーになる。
だが、リリーは翌日も、その次の日もアルフレッドのところへ行かなかったし、無言を貫いた。三日経っても一週間過ぎてもずっと。一体何があったのか。
「アルフレッド様、リリー様と何があったのです? 一緒に謝りに行きましょう」
「うるさい。オレは悪くない」
執事がいくら説得してもアルフレッドは繰り返すばかりで、一方、いつもは必ず先に折れるリリーも決して屈さなかった。こんなことは初めてだった。リリーは喋らないがアルフレッドが何かをしたのは明白だろう。リリーに謝れというのも、許してあげなさい、というのも可笑しな話だ。しかし、アルフレッドが謝罪に行くはずもない。子供の喧嘩だ。少しそっとしておこうか。周囲が呑気に構えている間に、時間は経過していった。
この裏切りは許せない。
アルフレッドはそう思っていた。泣いて謝ってきたら許してやらないこともないが、それまでは絶対に許さない。喉が焼けるほど苛立ちながら、毎日秘密基地から窓の外ばかり見ていた。
リリーをちゃんとした家来にしたのは、母が死んだ後、しばらく経ってからだ。
アルフレッドの母親のエマは、代々王家の参謀として仕える侯爵家の娘だった。エマが誕生したばかりの頃、政権は王党派と共和派で揺れ動き、中立だったオーウェン公爵家がどちらの派閥につくかが注視されていた。不安な状勢が続く中、アルフレッドの父であるリオルドが七歳、エマが五歳の時、二人の婚約が決まった。文字通りの政略結婚だった。これによりオーウェン公爵が王家の傘下に入ったことが周知された。王党派の勢力が肥大したのは言うまでもない。
リオルドとエマは、成人してすぐ結婚しアルフレッドが二歳の時、領地に移り住んだ。リオルドは忙しくあまり邸にいなかったが、アルフレッドは両親が不仲だと思ったことはなかった。だが、あの馬車事故が起きた。エマは外出先の王都で、同乗者だった従兄弟のダリル・スカラ伯爵と共に亡くなった。葬儀はそのまま雨の王都にて執り行われた。そしてそこで、アルフレッドは、エマとダリルが恋仲だった、と口さがない人々の噂話を耳にした。当時、六歳のアルフレッドにはよくわからない言葉があった。だから、適当に葬儀場の従者を捕まえて尋ねた。
政略結婚とは何か。
不貞とは何か。
駆け落ちとは何か。
従者は高級着に身を包む貴族の子供に粗相があってはならないとばかりに、聞かれたことを聞かれたままに答えた。
予期せぬ回答にアルフレッドは衝撃を受けた。噂は嘘か本当か。父に詰め寄ろうとしたが、棺の傍で憔悴しきって項を垂れる姿に息を呑んだ。そんな父は知らない。アルフレッドは喜怒哀楽のどれもなく虚無的にじっと見つめた。そして、思った。
あぁ、父は母を好きだったのだ。
では、母は?
正直なところわからなかった。母は自分を慈しんでくれたが、果たして父のことを好きだったか。喧嘩をしているのは見たことがなかった。だから、仲は良いのだろう、と。けれど、父は何処か母に遠慮している節があった。「紳士たるもの女性には優しくしなければ」と父はよく言うが、そういう類のものではない気がした。アルフレッドは幼心に違和感を覚えていた。そして、かちりとピースがはまった。
貴族の結婚。
政略結婚。
とても残酷なものだ。父は母を好きだったが、母は違ったのだろう。だから、母は逃げたのだ。
アルフレッドはそう結論づけた。ただの憶測にすぎない。母が従兄弟と馬車に同乗していただけで何故それが駆け落ちになるのか。だが、六歳のアルフレッドにとって悲しみより憎しみの方が楽だった。愛しい母の死より、自分を捨てた母の死の方が。父にも誰にも真実を確かめることはなく、受け止めきれない喪失感を、歪んだ感情で埋めた。
母が亡くなり、オーウェン公爵は幼い息子を心配して極力仕事を減らし、傍にいようと努めたが、国家中枢にいる男が二日三日の引き継ぎで直様仕事を休めるわけはない。そして何よりアルフレッドが望まなかった。父親といるより友人と遊ぶ方がよいのだ、と平然と言ってのけた。実際、アルフレッドは領民の子供達を屋敷へ招いて遊ぶようになった。尤も、本当の目的は家来となりうる人間を精査するためだ。グロルズ王のような家来を得るため。
グロルズ王は歴史書に必ず載っているが、その記述は数行しかない。勉強嫌いのアルフレッドが興味を示した為、歴史の家庭教師が詳しい伝記を与えた。しかし、表題は「ルーカス王」だ。アルフレッドが勝手に「グロルズ王の伝記」と称しているだけで、実際そんなものはない。グロルズ王は、栄耀栄華を極めるため国民から無茶苦茶な税金を搾取し、悪政を強いた稀代の愚王なのだから。彼の最期は、実弟のルーカス率いる革命軍に追い詰められ、籠城した古城に自ら火を放った焼死だ。その時、傍にいたのはたった七人の家来だけ。玉座に座る王の亡骸を囲い、円陣を組んだ焼死体で見つかっている。何十万の兵士を指揮していた王のあまりに御粗末な最期だ。人望のなさが窺い知れるエピソードとして語られている。だが、逆にいうなら七人は終わりまで見限らなかった。家来達の行いも悪辣極まりなく、捕縛されれば死罪は免れない。自決の道しかなかった、と片付ければそれまでのこと。でも、では、円陣を組んでいた訳合は? 何もかも無くしたグロルズ王が最期の最後まで持っていたもの。彼は何を考え、どんな気持ちで死んでいったのか。弟への嫉妬、恨み辛み、悔恨、憤怒、或いは懺悔だろうか。だけど寂しさだけは感じていなかったはずだ、とアルフレッドは強く思った。
嘘と本音が蠢く貴族の世界。結婚も政治によるものと聞いた。だが、忠誠を誓う真の家来ならば決して裏切ったりしない。そんな家来がいれば、きっと自分も……。アルフレッドは母が死んで以降、そんな考えに囚われて家来を探し始めた。
そして、その時点でリリーを不合格としていた。
アルフレッドとリリーは物心つく前からの付き合いだ。
オーウェン公爵夫妻の慣れない田舎暮らしの手助けをしたのが地元民であったリリーの両親、アマリエ伯爵夫妻だった。領主と臣下の関係ではあるが同じ歳の子供がいることからも懇意にしていた。特にエマとアマリエ伯爵夫人は気が合い、アルフレッドとリリーをよく遊ばせていた。
しかし、アルフレッドはリリーが嫌いだった。とろくさく、甘ったれで、馬鹿なくせに、アルフレッドの真似をしたがり後ろについて回る。鬱陶しいので隠れたり逃げたりすれば泣きじゃくる。それで怒られるのはアルフレッドだ。理不尽この上ないと感じていた。母に言われて仕方なく相手をしてやっていたが、その母がいなくなった。もう面倒を見てやる義理はない。
エマの死を悼みアルフレッドを心配したアマリエ伯爵夫人が、リリーを公爵邸へ向かわせても、アルフレッドはリリーを無視して領民の子供達とばかり遊ぶようになった。それでもリリーはアルフレッドの元へ行くのをやめなかった。
「リリー、エマ様は死んでしまったの。もう会えなくなってしまったの。リリーがママともう二度と会えなくなったらどう思う? ね、リリー。アルフレッド様が寂しくないように一緒に遊んであげてね」
母に言われてリリーはポロポロ泣いた。母に二度と会えなくなるのが悲しかった。だから、リリーは毎日アルフレッドの所へ通って行ったのだ。
一方のアルフレッドは家来選抜に忙しかった。
だが一体どうすれば?
同年代の子供達を屋敷に招いて遊んでみるも、それは全く忠義ではない。子供達の方も最初こそ物珍しい貴族の邸へやって来て、お菓子や玩具に目を輝かせていたが、段々と横柄なアルフレッドの態度に苛立ち始めた。
「なんであんなに偉そうなんだよ」
「貴族だからだろ」
「もう一緒に遊ぶのやめようぜ」
「でも、お菓子貰えなくなるよ?」
陰で自分がどう思われているか気づかないほどアルフレッドは馬鹿ではない。だが、悔い改めて仲良くしようとする気もない。イライラして更に身勝手な言動を繰り返した。
「これはオレの菓子だ。お前達の分はない。自分の分は自分で持って来い」
ある日、アルフレッドは到底一人では食べきれないお菓子を前にそう言って食べ始めた。幼稚な嫌がらせだ。幼稚だが、やる方もやられる方も子供だ。これまで溜まった鬱積を爆発させて領民の子供達はアルフレッドを罵倒した。
「そんなもんいらねぇよ。お前なんか、偉そうにしているのは父親のお陰だろう!」
「お菓子が貰えるから、仕方なく遊んでやっていただけだ。調子に乗るな」
「お前なんかの家来になるわけないだろ。馬鹿じゃねぇの。二度と来るか」
口々に言って走り去る。アルフレッドは反論することなく、一人でお菓子を食べ続けた。別にわかっていたことだ。念のために試しただけ。誰か一人くらい残るんじゃないか。アルフレッドはしんとした東屋で食べたくもない菓子を食べ続けた。幾時経ったか、ふいに開け放たれた戸口を見ると見慣れた顔。リリーが中を覗いている。
「ここは男しか入れない秘密基地だからお前は入るな」
ときつく言って以来入って来なくなった。
「なんだ。お前の分なんてないぞ」
「うん」
リリーはそれから顔を引っ込ませたが、暫くしたら、また、ちらちら中を覗き込む。こっそり見ているつもりらしいが丸見えだ。頭が悪い。鬱陶しい。
「なんだ。見るな」
言うと引っ込み、今度は再び顔を覗かせなかった。だが、何処にも行かず戸口にいることはわかった。
(お前なんか最初から不合格なんだぞ)
胃がムカムカして胸が詰まる。だが、領民の子供達に苛ついているわけではなかった。あんな奴等はどうでもいい。お菓子を食べ過ぎたせいだ。腹が立つ。この食べ散らかしはどうしようか。片付けるのが億劫だ。だから、仕方ない。
「リリー」
呼べば呑気にまたひょっこり顔を出した。
「残りはお前が食べろ」
「入っていい?」
「馬鹿か。そこからどうやって食う気だよ」
リリーはパタパタ走ってきて隣に座り、机の上のぐちゃぐちゃに散乱した多量のお菓子を種類ごとに並べだした。変に几帳面なところがある。綺麗に片付くと、花型の赤いジャムクッキーを頬張った。リリーがいつも好んで食べる。味が好きなのではなく可愛いから好きらしい。まだ母がいた頃に聞いた。口に入れれば形などどれも同じだ。大事なのは味だろう、とアルフレッドは鼻で笑っていた。リリーは何を聞くでも言うでもなく美味しそうにクッキーを食べている。一部始終を見ていたくせに、どういう神経をしているのか。
(だから、お前なんか最初から不合格なんだ)
アルフレッドは繰り返して思った。そして、そう言ってやろうと思った。明日から、また別の家来を選ぶのに忙しい。お前の相手をしている暇はないのだ、と。
「リリー」
「うん」
「……明日も来るか?」
「うん」
「じゃあ、お前を家来にしてやるよ」
「うん!」
だが、アルフレッドはそう言った。一から新しい家来を探すのが面倒くさかった。手頃な奴で我慢してやった。他に優秀な家来ができればすぐに首を切る。アルフレッドは強固に思ったが、いつまでも面倒くさいまま、新しい家来を作ることはしなかった。
それから三年経過したが、アルフレッドの家来はリリーだけだ。
だと言うのに。
(婚約がなんだ。オレの家来だろう)
アルフレッドとリリーの喧嘩が二週間に及んだ頃、オーウェン公爵は急遽王都から戻ってきた。心配した執事が書簡を遣わせたのだ。
「リリーちゃんと喧嘩したのか。何が原因なんだ? リリーちゃんを困らせたら駄目だ。もう前とは違うんだぞ」
リリーとアーサーの婚約はオーウェン公爵も承知している。
リリーには十歳離れた姉がいて、一年前に婿を取った。爵位は姉夫婦が継ぐ。次女のリリーはいずれ家を出ねばならない。心配症のアマリエ伯爵は、友人であるグレイン子爵の甥っ子との婚約を進めた。
「けれど、よいのですか? リリー嬢にはアルフレッド様がいらっしゃるのでは?」
グレイン子爵の懸念に、アマリエ伯爵は笑って答えた。
「いやぁ、リリーとアルフレッド様はそういう仲ではないですから。まぁ、そうですね、本人達の意思を確認してからでも遅くはないでしょう」
そうしてリリーはアルフレッドに尋ね、アルフレッドは勝手にしろと答えた。それを知ったオーウェン公爵は更にしつこいほど、アルフレッドにそれでよいのか問い詰めた。アルフレッドは全く動じることも、不機嫌な様子もなく、関係ないと取り合わなかった。
「本当にいいのか? リリーちゃんと結婚できなくなるぞ」
「結婚なんてするわけがない」
アルフレッドが据わった目をして言うので、オーウェン公爵はそれ以上は質さなかった。先案じする思いはあったが、アルフレッドは聡明な子供だ。家庭教師から逃亡して授業をサボることはあるが、理解が早くカリキュラムが遅れることはない。三人いる教師全てから太鼓判を押されている。本人がそこまで言うならよいのだろう。アルフレッドが結婚に関して歪んだ認識を抱いているなど知らないまま、オーウェン公爵は息子の選択を尊重した。
だが、やはりそれは誤りだったのだ。
「黙っていたらわからないだろう。喧嘩の理由はなんだ?」
「あいつが悪いんです。オレの家来のくせに、アーサーを優先するから」
「当たり前だろう。リリーちゃんは、アーサー卿と婚約したんだ。お前はいいと言ったじゃないか」
「リリーはオレの家来なんです。言うことを聞いて当然でしょう」
「いつまでそんなこと言っているつもりだ。アーサー卿だって自分の婚約者が家来呼ばわりされたら気分が悪いだろう。もう王様ごっこは終わりにしなさい」
「なら、婚約を解消させます」
「無茶苦茶言うな」
「公爵家から言えば逆らえない」
「何を言っているんだ! そんなことは絶対にさせない」
オーウェン公爵は、息子の主張に唖然となった。本気でそんなことを考えているのか。多少、我儘で尊大な態度をとることはあるが、公式な茶会の席に参加させても品良く常識的な対応をしているし、周囲からの評判もいい。公爵家の跡取りとして、貴族の何たるかも学ばせている。こんな愚かしい発言をするとは青天の霹靂だ。リリーにそこまで執心しているなら何故婚約を認めたのか。アルフレッドが最初から反対していたなら、拙いやり方ではあるが、確かに多少強引でも公爵家の力で、リリーをアーサーではなくアルフレッドと婚約させることはできた。でも今更だ。オーウェン公爵は頭を抱えた。もう一層、このまま喧嘩別れさせる方が賢明かもしれない。オーウェン公爵は、アルフレッドに王都で生活することを提案した。元々エマが亡くなった時に、移住させるつもりだったが、アルフレッドが嫌がった。激しく生活環境を変えない方がよいのかもしれないと断念したが、今回は強制的にでも連れて行こう。オーウェン公爵はアルフレッドが拒絶するものと予想して告げた。しかし、アルフレッドは意外なほどすんなりと了承した。それはそれで不気味だったが、気が変わらないうちにと早々に王都行きの準備を進めた。それから、リリーに謝罪と別れの挨拶をするようにも命じたが、それに関してはアルフレッドは断固として応じなかった。やむなくオーウェン公爵は一人でアマリエ伯爵家を訪れ、息子の無礼と不義理を詫びた。甘い処遇ではあるが、アルフレッドのリリーに対する執着を消すにはこれでよいと息を吐いた。アルフレッドの途方もない計画は想像だにしなかった。
リリーを婚約させたのは間違いだった。いや、リリーが女であることが悪いのだ、とアルフレッドは考えていた。もし、リリーが男ならば婚約しようが結婚しようが、家来であることを咎められたりしなかった。何処までも鈍くさい奴だ。仕方がないから婚約は破棄させねばならない。父は公爵家の権威は使わせないと言うが、爵位を譲り受けた後ならばどう使おうがこちらの自由だろう。
この国の成人は十八歳。爵位の承継も結婚も十八の誕生日に可能となる。父は仕事人間だから、息子が成人したからとすぐに隠居はしないだろう。となればその間は、公爵の一つ下、侯爵の一代爵位を拝命することになる。どちらの爵位を得たにしても、田舎の伯爵家に圧制を強いるのは簡単なことだ。アーサーはリリーより二つ年上であるから、二人の結婚は最短でリリーの誕生日。リリーはアルフレッドより一月後に生まれているから、十分可能な計画といえる。廃嫡になるヘマをしない限り上手くいく。そして、そんな下手を打つ間抜けなことはしない。アルフレッドは九年後、リリーを取り戻すことだけを考えて、王都で暮らし始めた。
それからのアルフレッドは絵に描いたような品行方正な少年だった。
家庭教師から逃亡することも、黒魔術を試行することも、誰かを虐げることもなく、次期公爵家を継ぐ者として何処へ出しても恥ずかしくない態度で生活するようになった。
あまりの変貌ぶりにオーウェン公爵は戸惑いを否めなかった。だが、時間の経過と共にその懸念も薄まった。領地でののんびりした生活と違い、周囲には同年代の洗練された令息令嬢が多くいる。負けず嫌いのアルフレッドは感化されたに違いない。オーウェン公爵は若かりし頃、軟派な学生であったからアルフレッドに厳しい教育をする気はなかったが、本人がやる気である分には止めることはない。むしろ喜ばしく思ったし、何よりリリーへの執着が解けたことが一番の安寧だった。