7
酔うから馬車は好きじゃない。
家族と乗車するときは大体横になったり、だらしなくしている。リラックスして鼻歌でも歌っていれば耐えられる。先日も、一人で気ままに乗車していたから酔わずに済んだ。だが、今夜はアルフレッドと向かい合い、ドレスを着用している為、姿勢を正しているから辛い。
「まだ大分掛かるのですか」
「もう直だ」
「五分前にも言いましたよ」
「……」
「後何分くらいですか?」
「いくら聞いても着く時間は変わらん」
アルフレッドは呆れて言うが、リリーにとっては死活問題だ。一旦酔いが回るとしばらく治らない。だから、完全に気持ちが悪くなる前に馬車を降りたい。ブラッデル伯爵邸へは一時間も掛からないと言っていたくせに既に時間は過ぎている。
「馬車に酔うんですよ」
「……お前、いつからそんな属性発動したんだ」
昔はアルフレッドが毎日リリーを馬車で迎えに来ていた。互いの屋敷は近いので平気だっただけで、恐らくあの頃から長時間乗るのは厳しかったはずだ。
「ドレスが苦しいんです」
「なら緩めろ」
そんな馬鹿な。言っても仕方のないことを言ったと思ったが、返しが酷い。リリーの本日のドレスもアルフレッド仕様だ。淡いレモンイエローで後ろを締め上げるタイプ。コレットが美しく見えるよう着付けてくれた結果、座ると若干苦しい。
「もういいです。黙って外の景色見ときますから」
リリーはアルフレッドから身体ごとそっぽを向き窓に額をつけた。ガラスが冷たくて心地よい。景観は市内とは随分異なり、ポツンポツンと大きな屋敷が点在している。出発時はまだ明るかったが、今はかなり日が陰ってきている。情緒的な良い眺めではあるが、車窓風景を見過ぎても酔うので瞳を閉じた。アルフレッドが席を移動して隣に座るのを感じたが、無視していると、
「ちょっと!」
無言で頸を掴んできたのでしゃくり上げた。髪をアップに纏めているため露になっている。振り向くと不機嫌に「なんだ」と返される。
「こっちの台詞でしょ!」
「冷やしてやったんだ」
「は?」
「首元を冷やすと酔いにくい」
それは確かにそうなのだが、やりようがある。しかし、アルフレッドは強引にリリーを窓に押しつけて再び頸を掴んだ。動くと余計に気持ちが悪くなるので、無駄に抵抗することはやめた。密室で男に首を掴まれているのはどういう状況なのか。そう言えば昔から手先の冷たい男だったことを思い出した。夏場でも常にひんやりしていた。一方、リリーは子供らしく年中高体温で、その為、冬場にはよく手を繋がされ、夏は蛇蝎の如く邪険にされていた。割に合わない仕打ちだ。だと言うのに、日頃のアルフレッドの素行が悪すぎる為、手を取られていると「あらあら、仲良しね」と皆に微笑まれた。夏の有様を見てくれよ、とリリーはずっと思っていた。あの時のことを鑑みれば、今日少しばかり冷却剤代りにアルフレッドを使ってもお釣りがくるんじゃないか。
リリーが取り留めないことを考えているとアルフレッドが無言で手を差し替えた。多分温くなってきたからだ。濡れタオルを代えるみたいで笑える。
「なんだ」
アルフレッドから低い声が放たれる。
「いえ、昔のことを思い出しました。よくわたしを暖房具代わりに連れ回してましたよね。今日は逆だな、と思って」
「お前は体温だけは高かったからな。特に眠い時なんかは。子供だな」
体温だけとは引っ掻かる言い方だが、突っ込む気力はない。
「子供でしたから」
「……そうだな」
微妙な間を空けてアルフレッドが返した。不思議な沈黙が落ちる。なんだろうか。わからないが、そのまま目を瞑り静かにしていると、アルフレッドの手が再び熱を伝染するより先に馬車は停まった。
ブラッデル邸は大きな屋敷だった。
伯爵は夫人の実家の爵位で、由緒正しい血統だったが、放蕩者だった先先代当主の散財が原因で没落しかけていた。それを貿易で財を成した商家出身の現当主が婿入りして立て直した。爵位を金で買ったと嘲弄する者もいるが、実際の夫妻は仲睦まじいことで有名だ。
「オーウェン卿。お越し頂けるとは」
「お招き頂き光栄です。今日は僕の古くからの友人を連れて来ました。アマリエ伯爵家のリリーです。リリー、こちらはブラッデル伯爵とアンネ夫人だ」
そこはちゃんと友人として紹介するのだな、とリリーは丁寧にカーテシーをしながら思った。
公式な場で婚約していない恋人は「友人」と紹介するのが暗黙の了解だ。体裁を気にする貴族のこと。実際どんな付き合いだろうとも「友人」と紹介すれば「友人」になる。政略的な婚儀の前に刹那の恋愛を楽しむ為の因習が一般化した。わざと「恋人」と称し女心を擽る好色家もいるが、大体そんな輩ほど別れる。破局後、どんな悪評がつくかはお察しだ。
「まぁ、お可愛らしい方ね」
アンネ夫人が柔らかに微笑む。三十代と聞いたが二十歳そこそこに見える。汚れを知らない箱入り娘といったところか。リリーは特別可愛くはないが、褒められて「心にもないことを」と腹を立てるほど可愛くないこともない。アンネ夫人は嫌味を言うタイプにも思えないので、リリーは少しはにかんだ笑顔で返した。
ブラッデル夫妻とアルフレッドは随分懇意にしているらしく、リリーについてかなり好意的な受け入れ方をしてくれた。アンネ夫人は、リリーが王都に来たのはデビュタント以来二年ぶりで、今回は少しゆっくりできることを知ると、流行りの店や観光スポットなどを詳しく教えてくれ、
「オーウェン卿がお忙しいようなら、私が案内しますわよ?」
と建前ではなく本心からの言葉として告げた。「オレは仕事だが、お前は自由にすればいい」とアルフレッドは言うが、リリーは昨日も昼食後、直ぐに邸に帰り、ずっと引き篭もっていた。ロマンス小説を三冊持ってきていたので退屈はしなかった。欲しいものも行きたい場所もない。でも、案内してくれると言うなら誘いに乗るのもいいかもしれない。
「いえ、大丈夫です。彼女の面倒は僕が見ますので」
しかし、リリーが答えるより先にアルフレッドが返した。あまり余計な関わりを持つなと言うことだろうか。感じが悪い。リリーがむっとして目を合わせるとアルフレッドは優しく笑い掛けてくる。不気味だ。更にそれを見たブラッデル夫妻が、察したような温かい眼差しで微笑んでくるので居心地が悪かった。
「カジュアルな夜会ですので、楽しんでください」
夫妻が言い残して去って行くと、リリーは会場内を見渡した。ダンスホールは広く、天井から複雑な形のシャンデリアが吊るされている。明々と煌めき角度により違う光を反射する。クリスタルだろうか。豪商の息子であるブラッデル伯爵の羽振りの良さを象徴している。「カジュアルな夜会」の言葉通り来賓客は若手貴族が多い。
「これからどうすればいいですか?」
「夜会を楽しめばいいんじゃないか」
「夜会、好きなんですか?」
「嫌いだ」
「ダンスは?」
「嫌いだ」
「そうですか。わたしは好きです」
リリーが返すと、興味がないのか、どうでもいいのか、アルフレッドは何も言わないまま歩き始めた。必要であろう相手と敬遠すべき相手を絶妙に精査して挨拶に回った。爵位が関係性の基盤である貴族社会だが、親族関係、派閥によって同爵位でも権威に差はでる。いかに細かい内情を把握できているか。その上で更に人心掌握術に長けていなければならない。特に社交場では。貴族らしい振舞い、相手に合わせた話題選び、年長者には敬意を払うが、決して謙りすぎない態度。アルフレッドは打てば響くと言った風に軽妙に会話を進める。リリーへの好奇の眼差しも全て盾になり、リリーが答えられる簡単な会話には参加させて、癖のある相手からの皮肉な問い掛けには距離を取らせて関わらせなかった。大切にされている感が色濃く伝わる扱い。周りも温かい目を向けてくる。夜会でいちゃつくとはこういう方法だったのか、と感心してしまう。
一通りの挨拶が済んだらしく、アルフレッドに声を掛けてくる人が途絶えた。リリーはほっと息を吐き、なんとはなしに人の流れを見た。ダンスが始まるらしくフロアの人口密度が増していく。ふと一組のカップルが目についた。向い合っているが他のペアと違い微妙に距離がある。顔を見るのが照れ臭いのか女性が俯き加減で、男性が優しく話しかけている。初々しさが伝わる。昔の自分を見ているようだ。曲の始まる直前の瞬間が好きだったな、とリリーは思った。アーサーと最後に踊ったのは二月前の卒業パーティーだ。アーサーも基本ダンスを好まなかったけれど、リリーとだけは踊ってくれた。リリーが望む分好きなだけ。リリーが嫌がることをしたことは一度もない。もし喧嘩の一つでもあれば、関係はまた違ったのかもしれない。
「踊るか?」
「え」
アルフレッドを囲んでいた貴族達も続々フロアへ向かっている。不意をついた申し出にリリーが一瞬戸惑う様子を見せるとアルフレッドは、
「踊りたくないなら別にいい」
と加えた。
「そんなことはないです」
「……」
リリーがじっと見るとアルフレッドが無言で不服そうに掌を差し出す。こんなに感じの悪い誘いがあっていいものか。それでも嫌な気分にならないのは、こちらの頭が麻痺しているからだろう。リリーが黙って掌を重ねると、アルフレッドが壊れ物を扱うようにふんわり包む。フロアにエスコートされるのも、ずるずる引き摺られなかった。全てが違和感だ。
空いているスペースに納まるとリリーはアルフレッドを見上げるが、よくわからない方向を向いていて視線が合わない。
華やかに音楽が鳴り響いた。
アルフレッドにリードされて足を踏み出す。四重奏のワルツ。好きな曲だ。アーサーと何度も踊った。緊張して、ドキドキして、いつも嬉しかった。でも、はしゃぎすぎないように気をつけていた。アーサーの丁寧で正確なステップは安心できた。それに比べて、アルフレッドのリードはラフな印象を受ける。リリーが踊ったことのある男性は数少ないが、多分、巧い。
「嫌いな割に上手なんですね」
社交にダンスは必須。嫌いなことと踊れないことは別問題。嫌味で返されるかと思ったが、
「ダンスが嫌いなわけじゃない」
とアルフレッドは憎たらしげに言った。
「さっき嫌いって言ったじゃないですか」
「嫌な思い出があるから嫌いなんだ」
「……そうなんですね」
それは知らないな、とリリーは思った。
そんな思い出は知らない。いや、今日のアルフレッドの全てを初めて見る。貴族達への挨拶をスマートにこなしたのは猫を被っているのではなく、現在のアルフレッドの側面だ。リリーが知らなかっただけ。例えば家でだらしない父が、職場では几帳面な仕事をする男と評されているのと同じ。
昔のままの横暴を強いられて、ずるずる王都まで連れられてきたが、リリーは離れている間、アルフレッドが自分とは無関係に生きていたことを実感した。
アルフレッドのいないリリーの九年間は幸せだった。リリーは伯爵令嬢でオーウェン公爵領の一部を統治している当主の娘だ。領地内ではお嬢様として甘やかされて育っている。学校も、貴族だけではなく、豪商や豪農の金銭的に豊かな平民の子供達が生徒の半分近い数を占めていた為、伯爵位は高位貴族として扱われていた。裕福な家庭、温かな家族、優しい婚約者、仲の良い友人に囲まれて、順風満帆な人生を歩んできたつもりだ。
では、アルフレッドはどうだったか。
リリーとアルフレッドの関係が途絶えたのは、喧嘩をしたまま謝罪もなくアルフレッドが王都へ引っ越したからだ。アルフレッドがどんなに悪くとも、先に謝るのはリリーだったが、あの時の喧嘩だけは折れなかった。そしてそれきりになった。
――そういえば、まだ謝られてないんだけど。
リリーが顔を上げてアルフレッドを見つめると自然に目が合った。アルフレッドが皮肉気に笑う。
「普通、どんな思い出か聞かないか?」
「どんな思い出なんですか」
「言いたくない」
殴っていいだろうか。
「リリー」
背中に回された腕の力が僅かに強くなり、すぐまた緩まった。ドキドキするから止めてほしい。でも、これはアルフレッドが無駄に男前だから感じる類のものだ。顔とステイタスを無くして見ればただの屑なのに、不公平だ。納得できないな、とリリーは思った。
「俺は、お前が男だったら良かったのにとずっと思っていたんだ。昔みたいに」
「なんですか。わたしはずっと女の子ですけど」
「そういう意味じゃない。……馬鹿だな」
そんなことはわかっている。あまり見縊るな。態と惚けただけだ。しかし、そう言うわけにもいかずリリーはダンスに集中した。引っ付いたり離れたり動きのあるステップ。アルフレッドは長身だが、リリーも女性にしては高い。七センチのヒールを履いているため、引き寄せられるとアルフレッドの肩口に鼻先がつく。
「香水つけていないんですね」
「急になんだ」
会話なんて何かが頭に浮かんだ時、急に始まるものではないか。リリーは今、丁度、ダンスの際に必ず薫っていたサンダルウッドの匂いを思い出した。ロマンス小説のヒーローは結構な確率でいい匂いがするから、感化されて何時ぞやの誕生日にアーサーへプレゼントしたのだ。アーサーはお洒落な男ではないが「リリーが贈ってくれたから」と照れた素振りで夜会には必ずつけてくるようになった。逆に言うとそれ以外は使用しないので、何年も前に贈った物を延々使い続けていた。当たり前だが、アルフレッドからはサンダルウッドの匂いはしない。そもそも香水をつけていない。だから、何となく聞いてしまっただけ。悪いことではないだろう。
「別につけてないから、つけてないんだな、と思っただけです」
「俺が香水をつけていたことがあるか?」
「普段はつけなくても夜会にはつけてくる人もいるでしょう」
「……アーサーか? 香水なんてつけているのか。あの本にしか興味ないもやしみたいな奴が随分色気づいたものだな」
何故そこでアーサーに到達したのか。アルフレッドは昔からアーサー絡みに鋭い。そして、一方的に敵視している。アーサーは大人しく大らかな性格で、アルフレッドの我儘をスポンジみたいに吸収してしまう。虐げたいが許容されたくない歪んだ性格のアルフレッドは、それが気に食わなかった。「じゃあ、それはリリーの代わりに僕がするよ」とリリーとの間に割って入ってくることにも「兄貴風吹かしやがって」とイライラした。だから、対抗してアーサーのいる前ではリリーを虐げず、品行方正に振る舞った。「アーサーがいれば虐められない」とリリーがアーサーを尊敬してやまない所以だ。尤も、リリーは後できっちり理不尽な報復を受けるのだが。
「アーサーはもやしじゃないですし、色気づいてもいません。嫌な言い方しないでください」
「振られたのにお優しいことだな。色気づいて他に女を作ったのだろ」
だからそれは違うと言うのを何回繰り返せばよいのか。アーサーを好きだったと知っているくせに、知らない人間でも言わないようなことを平気で口にすることに、神経を疑う。
「わたしがアーサーにプレゼントしたんです」
「なんだ。俺はお前に香水なんてもらっていない」
何だ、とは何だ。突然、何のアピールなのか。
「……そうですね」
掘り下げると面倒くさいことを言い出しそうなので、澄まして返した。アルフレッドの機嫌は急下降している。ちょっとのことで、すぐこうなる。この男との会話がお互い気分良く終了するのは稀だ。幼い記憶を引っ張り出しても探し出せない。日に何回も不愉快な気持ちにさせられたし、帰り際になるとアルフレッドがごねて険悪になるのがパターンだった。
「リリー、家来は王に忠義の品を捧げるべきじゃないか」
「は?」
「献上品だよ」
「次期侯爵のくせに、しがない伯爵家の次女から搾取する気ですか。そんな悪政強いた王様いましたね。最期は火炙りにされて死にましたけれども」
リリーが皮肉たっぷりに笑うと、アルフレッドも笑った。ギョッとするが、怒りを通り越しての笑顔というわけではなさそうだ。無邪気な少年みたいに見えるが、アルフレッドが無邪気な少年だったことなどない。つまり錯覚だ。
「リリー、来週は俺の誕生日だ」
「知ってます」
「期待しているぞ」
「香水つけないですよね。つけてないですねって話だったでしょう」
「お前が寄越さないから」
どういう理屈なのか。好きなだけ自分で買え、と言いたい。誕生日プレゼントを強請る人間なんて、小説内の我儘お嬢様以外で初めて見た。普段なら適当に聞き流すが、今は三食ドレス付きで世話になっている身分だ。誕生日に香水を贈るくらいはしてやるべきか。
「わかりました。じゃあプレゼントしますね。その代わり、ちゃんと使ってくださいね」
甘ったるい匂いのやつを選んでやれば面白いかもしれない。悪巧みが顔に出ないよう態と面倒くさげに答えると、アルフレッドは訝しげに眉を上げた。何か勘づいたことに気づいたが、お互い何も言わなかった。
いつまで踊る気なのか。
「疲れたし喉が渇いたので、もう踊りたくない」とありのまま告げたら、アルフレッドに刺すように睨まれた。ダンスは嫌な思い出があるから嫌いなんじゃないのか、とリリーが口にする前に、
「ダンスは好きなんじゃないのか」
と先手を取られた。好きでも三曲続けて踊らないだろう。
「足が痛いんですよ」
踊り疲れたのもあるが、アルフレッドがドレスに合わせて用意してくれたヒールが馴染んでいないせいもある。そういう配慮はしてくれないので、嫌なことは嫌だと自分で言う。アルフレッドは仕方ないな、と泣く子を宥める態度でリリーをフロアから連れ出した。我儘扱いされるのが納得いかないが、リリーは諦念を極める思いで黙って従った。
隣接する休憩室は歓談する為の部屋だ。幾つも設置された丸テーブルの合間を縫って使用人が飲み物や軽食を給仕に回っている。基本立食形式だが、壁際のテーブルには椅子も用意されている。
入室するとすぐ、アルフレッドに向けて手を上げる男の姿が目についた。年配の男性だ。
「ちょっと話をしてくる。お前は適当に座っていろ」
取り残されたリリーは、給仕人から林檎の果実水を貰い隅の方の空いている席に座った。
領地での夜会なら、ダンスの合間にはメアリや他の友達と延々とおしゃべりに花を咲かす。友人を意中の相手と踊らせるために画策したり賑やかに過ごしてきた。
メアリとは婚約解消の手続きの翌日に会ったきりだ。放っておいたら誰も幸せにならないので、自分の気持ちを捻じ曲げて行動したが、やったことに後悔はない。だから、
「婚約解消はわたしが決めてアーサーが了承したことよ。わたしとアーサーの問題。だから、その後、メアリとアーサーが婚約することは、貴方達の問題。わたしには関係ないことだから、謝罪されても困るわ」
と屁理屈であるが真実を言った。突き放す強い言葉で告げたのは、いつまでもダラダラ謝られ続けたくなかったから。メアリと友達を止める気もなかった。ただ、言った後、メアリがアーサーと自分の意志で別れるよう促しているようにも取れるな、と焦りを感じた。
「メアリ、わたしね、ロマンス小説みたいに恋愛して結婚したいのよ。兄弟みたいに夫婦じゃなくてね。だから、メアリも幸せになって」
取り繕って続けると、メアリは泣き笑いみたいな表情で何度も頷いたが「わたしは何を言っているのだろう」とリリーは俯瞰的に思って羞恥に見舞われた。
――ロマンス小説みたいな恋愛……夢見過ぎでしょ。
リリーは額に手を当てて悶えた。今でも思い出すたびに赤面する。何故あんなことを言ってしまったのか。ロマンス小説みたいな恋愛って何だ。自分はそんなキャラじゃない。率直に恥ずかしい。その場の雰囲気だったし、メアリはあの発言をピンポイントで抜き出して馬鹿にする性格じゃない。それに、もっと他に意識を取られることがあったはずだ。きっと覚えてないだろう。いや、でもな……と、いろいろ考えて行き着く先は、言ってしまったものは仕方ない、という現実だ。
――あのことを思い出すのはやめよう。
リリーは深く息を吐いて室内を見渡した。王都の夜会で一人ぽつんと座っていることが不思議だ。人生、先はどうなるかなんてわからない。アーサーとメアリとは今度一緒に夜会に出て「円満に別れましたアピールをしよう」と約束している。その時は、義兄にエスコートしてもらう予定だ。できれば自分に誰かパートナーがいればなおのことよいのだが、そんな相手はいない。
「こんばんは、いい夜ですね。ここよろしいですか?」
丸テーブルを挟んで向かいの席。部屋の中央を見ていたリリーが視線を向けると、男性の姿があった。ダンスが始まる前、アルフレッドと挨拶を交わしていた一人だ。美男子というわけではないが、人好きする顔をしている。短い時間に沢山挨拶を交わした中で、彼についてリリーは特別印象に残っていた。アルフレッドが頑なに自分と関わらせないようガードしていたからだ。
――変な人なんだろうか。
年齢は近いように思う。温和そうだ。しかし、外見に惑わされてはいけない。内心の隠し方が上手いほど質が悪い。
「どうぞ。先程、お会いしましたね」
「アルフレッドに邪魔されてちゃんと挨拶できませんでしたが、覚えていてくれて光栄です。改めましてベーカー男爵家のランスと言います。アルフレッドとは学生時分からの友人です」
アルフレッド、と敬称なく呼ぶのでリリーは目を開いた。余程仲が良いか、或いは、相手にしない方が良い要注意人物か。学生時代の友人。敵か味方か判断しかねる。迂闊なことは言えない。
「アマリエ伯爵家のリリーです。アルフレッド様とは父の仕事の関係で幼い頃から懇意にして頂いていました」
「あいつの子供の頃ってどんな風か想像できないな」
今とほぼ変わらず天上天下唯我独尊でしたよ、と言いたかったが、
「よく外で遊んでいました。川とか森とか。変な虫取ったりして」
と無難に答えておく。悪魔召喚していたことも黙っておいてやった。感謝してもらいたい。
「へぇ、それも意外だな」
「ベーカー卿の知っているアルフレッド様はどんな感じですか?」
ランスはちょっと考えるような仕草て口元に手を当てた。
「面白い男だと思います」
「面白いですか?」
人を不愉快にさせる天才の間違いじゃないか。皮肉を言っているのだろうか。
「自分以外は全て等しく馬鹿だと思っているでしょう。貴族も平民も関係なく。ある意味平等主義ですよね」
ランスは笑っているが嫌な感じはしない。本当に友人なんだろうな、と感じた。なんだ。ちゃんと友達がいたのか。嫌われ者の寂しい王様でいるかと思った。喜ばしいことだが、喜んでやる義理もない。もちろん不快になる必要もないが。
「どうかされましたか?」
「いえ、仲が良いのだな、と思っただけです。わたしは随分長い間、音信不通状態でしたから、今の彼について何も知らないんです。昔はわたしが一番の理解者のつもりだったんですけど。まぁ、向こうがどう思っていたかは知りませんが」
なんだか感傷的な気分になった。釈然としない浮遊感に喉の奥が痒い。視線を彷徨わせながら、チラッと盗み見るようにランスの顔を確認する。目が合って、余計に息が詰まった。
「今も変わらず思っているんじゃないですかね」
「……」
ランスがどういうつもりで近づいて来たのかわからず、リリーは何も答えられなかった。
「何かお困りでしたら、お力になりますよ。僕は貴女の味方ですから。ラリオット通りにあるベーカー商会というのが僕の職場です。午後には大概店にいます。魔王が降臨しそうなのでもう行きますね。お会いできてよかったです」
ランスが席を立つ。笑っている目線の先を追えば確かに魔王が見えた。遠目からでも明らかに睨みを飛ばしているのがわかる。ランスは全く慌てた様子はないが、アルフレッドを待つ素振りもなく、
「では、またお会いできるのを楽しみにしていますね」
と残して消えていった。
割りを食ったな、とリリーは感じた。話しかけて来たのはランスで、常識的に応じただけなのに、アルフレッドは自分を詰問するだろうから。アルフレッドは、昔から何でもかんでもリリーのせいにする。こまししゃくれた言葉で無茶苦茶なことを言うから、幼いリリーには理解できないことが多々あった。質問すると怒るし、面倒なので、聞いているふりをして、ぼーっとしていた。
「あいつと何の話をしていた?」
案の定、戻るなりアルフレッドは不機嫌に言った。
「挨拶です」
「挨拶する必要などないだろ」
「あるでしょ、常識的に」
「ない」
ランスのいた席にどかっと腰を下ろしたアルフレッドはリリーを睨んでいる。
「挨拶以外に何を言った?」
「どういう関係か聞かれたので、幼馴染と答えました。それから、お店に遊びに来てくださいって。良い人ですね。類は友を呼んでいない感じ」
リリーが感心して言うとアルフレッドは舌打ちして忌々しげに眉を寄せた。
「余計なことを……」
「いや、だから何も言っていませんって」
ランスを褒めるのに乗じてアルフレッドを貶める発言をしたことにイラついたのかと解釈したが、違うらしい。幼馴染で初恋の人設定のはず。あっちとこっちで変更なんてできないだろうに、何が不服なのか。アルフレッドが訝しげにじろじろ見てくる。が、
「じゃあ、何を言われた?」
「忘れました」
答えると、右眉を上げて笑った。喜怒哀楽を独特に表現するのはやめてもらいたい。
「何がおかしいのですか?」
「お前は嘘をつくとき、馬鹿の一つ覚えみたいに、忘れたと言うんだ。昔を思い出すよ」
「……」
返事に困って黙ると、
「何を飲んでいるんだ?」
ランスのことはもういいらしく、アルフレッドは話題を変えた。
「林檎の果実水です」
「一口くれ」
「自分で取ってきたらいいでしょ」
リリーの抵抗虚しく、アルフレッドは勝手にグラスを取り上げた。
「全部飲まないで」
アルフレッドは一息に飲み干し、空のグラスをテーブルに置くと、にやついた。信じられない。没落すればいいのに。だが、アルフレッドに関するリリーの願いは大体叶わない。
「リリー、ブラッセル伯爵の領地は葡萄が名産だ。次は葡萄の果実水を飲んだらいいぞ」
「あっそう」
不貞腐れた態度のリリーに、アルフレッドは、
「取ってきてやるよ」
「いらない」
とリリーの答えにも構わず席を立ち、数分も掛けずグラスを持って戻った。それからアルフレッドは、また立ち上がると、オードブルが配膳されているテーブルから、適当に選んで盛り付けてきた皿をリリーの前に置いた。
「なんか、全般的に茶色ですね」
「茶色い食べ物は美味いと相場が決まっている」
「……初めて聞きましたが」
「なんだ。何色を取ってきて欲しいんだ」
色? リボンを選ぶのじゃないんだから、とリリーは思ったが口には出さなかった。
「いえ、これを食べます」
「だったら初めから黙って食べろ」
何故急に世話を焼き始めたのか。
そして、自分の分も取ってくればよいのに、アルフレッドはリリーの皿から横取りしていく。周囲からちらちら視線を感じる。仲睦まじく見えているだろうから、そういう作戦に出たのか、とリリーは思った。
「足は?」
「え、あぁ、座っていれば平気です」
リリーの答えには反応せずアルフレッドは黙って窓の外を見た。ガス灯が庭の所々を照らしているが他は暗くて見えない。足のことを気遣って、給仕人紛いのことをやり始めたのだろうか。そんなわけはないか。基本的に本物の屑だからな、とリリーは思い直した。
「例の女性は来ているんですか?」
リリーはアルフレッドと逆方向の室内を眺めながら言った。
「来ている」
「え! 何処?」
まさか、とリリーが勢いよくアルフレッドの方へ頭を振ると、アルフレッドは声を立て笑った。
「何? 嘘ついたの?」
アルフレッドは無言のままにやけている。
「あのね、復讐に付き合ってあげているのはわたしなんだから! 失敗したってわたしに当たり散らさないでよ」
リリーがイライラして告げるが、アルフレッドは笑ったまま。結局、その夜会でリリーが噂のクソ女に会うことはなかった。