追憶3
「見合いしますよ」
デビュタントを終えれば、夜会への参加権を得る。あの日から、既に三月経過している。アルフレッドは、父であるリオルド・オーウェン公爵に連れられ、目ぼしい貴族の催す夜会に何度か顔を出した。その度、あからさまにも、遠回しに「うちの娘はどうですか」と打診され、付き合いでダンスを踊った。しかし、別れ際も向こうは乗り気であったのに、その後は全く音沙汰がない。何故なら、送られてくる釣書をリオルドが止めているからだ。
アルフレッドは、政略結婚を嫌悪する一方、実際公爵家を継ぐ身としてはそんなことを言ってはいられないという意識もある。ならば、どちらか片方だけが恋慕うなどの惨事がないように、割り切った関係でいられる相手を選びたかった。その為にも、取り敢えずは、会って相手を見極めたい。だが、リオルドは自分の結婚の過ちを悔いているのか、息子には政治的な婚儀をさせる気はないらしい。むしろ勝手に適当に利害関係のみの相手を選んで欲しいくらいなのだが、とアルフレッドはその意志を伝えることにした。
「なんだ。お前、モテないのか? 私の若い頃は寄ってくる女性が列をなして大変だったぞ」
しかし、リオルドからの返答は明日の天気の話をするくらい軽いものだった。我が父ながら、何故こんなにチャラチャラしているのだろう、とアルフレッドは時折真剣にげんなりする。尤もその言葉は事実だ。それどころか謙遜していると言っていい。四十を過ぎているのに、今もって秋波を送ってくる女性は多いのだから。アルフレッドは、幼い頃から、自分を手懐けて父に取り入ろうとする女性達にも辟易してきた。ただ、それより何より一番嫌だったのは、リオルドは誰にでもいい顔をするくせに、誰にも靡かなかったことだ。亡き母に未だに未練たらたらなのが哀れに思えてならなかった。
「好きとかどうとかではなく、仕事として責務を全うできる相手を選びたいと思っています」
アルフレッドがにこりとも笑わず答えると、リオルドはやれやれ、と態とらしく息を吐いた。
「何故、急にそんなことを言い出したんだ?」
「デビュタントが終わったんです。普通のことじゃないですか」
アルフレッドが淡々と答えると、リオルドは座っていた執務椅子から立ち上がり、
「まぁ、一杯付き合え」
とアルフレッドに窓辺に置かれたカウチソファに座るよう促した。
デビュタント後は酒も解禁される。リオルドは酒豪で、自分の執務室の一角にミニバーを設えている。アルフレッドは、小さい頃から「お前が十六になるのが楽しみだ」と繰り返し言われ、酒に関する蘊蓄を延々と聞かされていたので、何となく興味を覚えた。だが、実際に呑んでみると大して美味くなかった。
「この味がわからんとは、まだまだ子供だな」
と笑われたので、以来、勧められれば黙って呑むことにしている。社交場では、そういう嗜みも必要だ。味わえなくても、酒の情報を頭に入れておくに越したことはない。
リオルドが隣に座り、眼前のローテーブルに二つのグラスを並べてワインを注いだ。差し出された片方をアルフレッドが黙って受け取ると、
「これはな、エマが祝いに贈ってくれたんだ。宰相を拝命された時に」
リオルドが言った。リオルドが亡き妻エマの話をすることは少ない。アルフレッドが避けていることもある。
アルフレッドは、テーブルに置かれたボトルに視線を投げた。デビュタントの祝いに最初にもてなされた父のとっておきの逸品。渋い顔をして笑われた件の酒だ。
「……そうですか」
あの時は何も言わなかったくせに、何故今更、とアルフレッドはリオルドの横顔を探った。
「リリーちゃんか?」
「え?」
リリーの父のアマリエ伯爵とは、領地を離れた後も何度か会っている。その場の流れでリリーの話が出ることもあったが、それ以外にリオルドと二人でいる時に話題に上ったことはなかった。
「何故、お前はリリーちゃんと婚約しなかったんだ?」
「アーサーと婚約しているじゃないですか」
「婚約していない時もあった」
父子仲は悪くない。放任主義に見えて何かと気に掛けてくれていることは知っている。ただ、アルフレッドは勉強も運動も人並み以上にこなせたし、対人関係で悩むこともなかった。だから、これまでリオルドに真剣に何かを相談することもなかった。
「何を仰りたいのですか」
「リリーちゃんが、原因なのだろう?」
アルフレッドがぐっと言葉に詰まる。リリーのことは一番話題にされたくないことだし、本当に今更の話だ。しかし、流石に鋭いところを突いてくる。何故分かるのか。惚けても無駄だろう。
「……そうかもしれません」
小さく答えて、手にしているグラスを呷る。喉が焼ける味。やはり美味くないが顔には出さなかった。
「結婚してもそのうち別れるから意味がないと思ったんです」
「何故、そんなことを……」
「母上はダリル卿と駆け落ちする途中で事故死したんだと、聞いたからです」
真新しい自分の傷口を抉られたのだ。こちらも触れずにいた長年の疑問を口にしてもいいんじゃないか。
普段、飄々として掴みどころのないリオルドの動きが止まった。有象無象の貴族社会の中枢にいる狸親父がこんなあからさまな反応を示すのは母のことだからだろう。
アルフレッドは遠い記憶のエマの姿に思いを馳せた。男と駆け落ちして死んだ母。なんの確証もなかった。ただの噂話だ。だが、火のない所に煙は立たない。何故、そんな話が出回ったのか。アルフレッドは、王都へ移ってから知った。
「お前の母親はそんな不埒な人間じゃない」
「……では、母上はダリル卿のことを好きではなかった、ということですか?」
「その話は誰に?」
「いらぬ事を教えてくれる人間は多いです」
アルフレッドが答えると、リオルドはグラスに視線を落として少しだけ笑った。
「そうか。じゃあ、私が婚約者を蔑ろにするクズで、捨てられたくせに泣いて縋って、無理やり結婚したこともバレているんだな」
リオルドが優しい思い出みたいに語るので困惑してしまう。
父と母の結婚の経緯は、叔母のティアラから聞いた。エマの妹だ。リオルドに恋焦がれる未亡人が、エマの悪しき噂話をアルフレッドに告げたことが発端だった。未亡人は、エマを貶めて自分が代わりにアルフレッドの母親役を務めると言いたかったようだ。それに激怒したティアラは、エマの母としての名誉を守るために在りし日の話を語った。ティアラはリオルドを嫌悪しており、父親の名誉はどうでも良かったらしい。
父は好色家のクズだったこと。
母はずっと父を恋慕っていたこと。
父は政略結婚の相手だ、と母に必要最小限の配慮しかしなかったこと。
そんな母に寄り添っていたのが従兄弟のダリル卿だったこと。
リオルドとエマの結婚は、当時の政局を揺るがす結びつきだった。どう足掻いても覆らない、とリオルドは高を括っていた。
しかし、青天の霹靂が起きた。
当時十六になったばかりのティアラが恋に落ちたのだ。相手は二十も歳上のレナード・オーウェン。リオルドの父親の弟だった。
歳の離れた一番末の弟でオーウェン家の異端児。ずっと独り身を貫き、男色を疑われてさえいた男の突然のラブロマンスに周囲は騒然となった。結局二人は思いを成就させ結婚し、今でも仲睦まじい。ティアラは、アルフレッドにとって、母方の叔母であると同時に、父方の大叔母にあたるのだ。
そんなティアラとレナードの婚約がリオルドとエマにどのような影響をもたらしたか。
二人は年齢が近いから選ばれただけで、両家の架け橋となってくれるなら別に他の誰でもよかった。政略結婚とはいえ、愛し合う者同士が結ばれるに越したことはない。つまり、リオルドとエマの結婚は不要。晴れてお役御免となったのだ。
その頃には、エマの気持ちはリオルドから離れていたし、リオルドには幾らでも相手がいる。早く別れた方が二人のため。これで皆が幸せのハッピーエンド。めでたく終わる予定だった。が、実際にはその結末を迎えなかった。リオルドがエマとの婚約解消を頑なに拒絶し、しつこく追いかけ回したから。散々蔑ろにしておいてなんのつもりか。エマ当人よりティアラが怒り狂った。しかし、リオルドの異常な執着と既に正式な婚約を結んでいることから、結局、エマが折れる形で事態は終局した。ティアラがリオルドを毛嫌いする所以だ。
「……泣いて縋ったのは初耳ですね」
アルフレッドが答えるとリオルドは、
「エマが誰にも言わずに、伏せていてくれたのだろうな」
と笑った。
ティアラは現在進行形でリオルドに当たりが強い。知られたらどうなるか。アルフレッドも苦く笑った。
ティアラはダリル卿のことも、
「不遇なお姉様を支え続けた大事な友人よ。結婚したからといって疎遠になる必要もないし、隠れてこそこそ会っていたわけでもないわ。あの日は、私も後から合流する約束だったのよ」
と語った。しかし、実妹の証言など信憑性に欠ける、と噂を払拭できずに辛酸を嘗めたという。叔母は、母に肩入れしている。確かにその約束が嘘か真実かは判断しかねるな、とアルフレッドは客観的に思った。
ただ、まるで昨日のことのように苛々して母の潔白を主張するティアラには、
「噂なんてくだらないものですよ」
とだけ返した。
今から四年前の話だ。
実際、アルフレッドは葬式場で聞いた下賤な話を未だに信じているわけではない。あの時はそう思うことで心を逃しただけだ。母に関する記憶は、正直それほど鮮やかに残っているわけではないが、どういった人物だったかは覚えている。母として多大なる愛情を注いでくれた。自分を捨てて駆け落ちなどしない。だが、母が誰を好きだったかは知らない。父は母を愛しているけれど、母は違ったのかもしれない。家族としての父と母は知っているが、リオルドとエマのことはわからない。
そして、リリーとはそんな風になりたくなかった。あの時、そう思ったのだ。そう思ってしまった。だって、
「好きになってくれない相手を思うのは辛くないんですか?」
自分なら耐えられない。そんな相手に心を砕くくらいなら離れた方がましだ。
「さぁ、私は結婚して幸せだったからな。エマがどう思っていたのかは、わからんが」
リオルドが間断なく答えるので、アルフレッドは閉口した。
「それが婚約しなかった理由か……」
独り言なのか質問なのか。父がぽつりと呟く。アルフレッドはその言葉を反芻したが、考えても答えが出てこなかった。むしろリリーと婚約したいなんて考えたこともなかった。現在まで一度も。ただ家来を取り戻したかっただけだ。
「あいつは馬鹿だし、俺も子供でしたから。ただ、王様と家来ならずっと一緒だと思ったんです。グロルズ王とその騎士みたいに。愚かですね。なんでそんな風に考えたのか。今じゃ分かりません」
「そうか」
リオルドがグラスに視線を下げる。エマはリオルドを恋慕っていたはずなのに、いつの間にか抜け落ちた。その手にずっとあったのに。どれほどの後悔があるのかわからない。そして、それでも幸せだという気持ちも。
アルフレッドの探るような瞳に応じるように、リオルドはグラスを回しながら言った。
「お前が望むなら、アマリエ伯爵に掛け合ってやる」
静かな重い声だった。酔っているわけではない。冗談でも、軽口でもない。昔は強く謝絶したのに。今日は「何故今更」と思う事ばかり起こる。
アルフレッドは、リオルドの仕草を真似て僅かに残るグラスのワインを見つめた。
リリーの婚約を破棄させる。
リオルドに頼らずとも、ほんの三月前までは自分で決行する予定だった。何と言って? どうやって? 具体的な計画は何もない。時間はいくらでもあったのに一つの策も考えていない。そんな愚かなことがあるか。答えは疾うに出ていたのだ。
「そんなことできないでしょう」
「お前は私と違ってクズじゃないものな」
「……父上みたいに泣いて縋り付くほどの思いではないだけです。権力を笠に着て結婚を求めるなんて俺の矜持が許しません」
「馬鹿だな。そんな拙いやり方はしない。私を誰だと思っているんだ」
リオルドが真面目に言い放つ。領地にいる臣下の娘一人くらいきっと本当にどうにでもなる。国の宰相だ。汚れ仕事もある。チャラチャラしてばかりの人間じゃない。だが、父らしくない。清廉潔白で品行方正な為政者ではないが、父としては、そんなことはしないはずだ。何故そんな煽ることを言うのか。何を試しているのか。
「……そんなこと、できないでしょう」
「できるさ」
遠くから込み上げてくる感情。止めなければと思った。アルフレッドは、底に薄く残るワインを呑み干し空になったグラスをテーブルに戻した。不味い。本当はずっと不味かった。不味すぎて視界が滲むほど。
「できないでしょう」
だってリリーはアーサーを、
「できない」
笑っていたのだ。幸せそうに。
重い沈黙が落ちた。父が黙ってこちらを見ている。きっと次の言葉を待っている。「できない」理由を待っている。だが、適切な言葉が見つからなかった。自分と父は違う。父はどんなにクズでも母の傍にずっといた。必要最小限のことしかしなくとも、必要最小限のことはした。デビュタントのエスコートもした。でも、自分はしなかった。リリーとはそんなんじゃなかった。悪魔召喚をするのに人手が必要で、ザリガニを取るのを手伝わせる為で、散乱した菓子を片付けさせねばならなくて、でもリリーは、
「お姫様になりたいって、だから、アーサーを……俺とは、別に、そんなんじゃなかったから……」
父の手が伸びて雑に頭を撫でられる。驚いたアルフレッドの肩が一瞬大きく跳ねた。
やめてくれ。慰められることじゃない。そんなんじゃない。婚約なんかしなくても、リリーが誰と結婚しても、構わなかった。ただずっと傍にいて人生の終わりまで寂しくないように。王様と家来になりたかった。でも、リリーは違った。だから、これは、選ぶ家来を間違えただけ。
「……私の咎だ。気づいてやるべきだったのに。すまない」
「違います。俺はグロルズ王になりたかっただけで、」
感傷的になることじゃない。家来が一人いなくなった。本当にそれだけ。だから、
「折角好きだったのにな」
「――っ」
小さな嗚咽が漏れる。亀裂が生じた心の隙間から感情が流れて涙が溢れ落ちていく。声を殺して蹲るアルフレッドの背中をリオルドが慈しむように撫でた。その手の感触に余計に涙が止まらなくなった。
好きだった。
だから、傍にいて欲しかった。
他の誰でもない。
リリーに。
どれだけ時間が経ったか。
父は根比べみたいに黙ってずっと傍にいた。漸くアルフレッドが顔を上げると、
「お前はまだ若いんだ。いつかまた誰かを好きになれる。慌てなくていい」
と安い言葉を投げてくる。チャラチャラしているな、と思った。自分のことを棚に上げてよく言う、とも。だが、アルフレッドはそれが妙に笑えた。自分は父親の生き写しと言われている。だから、きっとそんな日は来ない。でも、それでいい気がしたのだ。
「ほら、呑め」
父が惜しげもなくワインを注ぐ。どれほど大事にしている代物か知っている。蘊蓄を語らせたら歯止めなく、貴重な酒と聞けば金に糸目を付けず購入するリオルド・オーウェン公爵が、世界で一番大事にしているワインだ。我慢しながら嫌々呑んでいい酒じゃない。
「俺はいいです」
「遠慮するな」
「いえ、不味いので」
「なんだ。親不孝な奴だな」
とリオルドは拗ねた素振りで返した。美丈夫ではあるが、いい歳の男だ。可愛げの欠片もない。アルフレッドは袖口で鼻を啜って、
「すみません。大丈夫です。もう、大丈夫ですから」
と告げた。何に謝っているのかもわからなかった。ただ、靄のかかった曖昧な何かが、鮮明に輪郭を成して自分の真ん中に収まった。リリーはアーサーを好きで、自分は他の誰も好きになれない。けれど、仕方ない。親子二代で何をやっているのだか。だが、父と同じで、父とは違う。誇り高き王様は泣いて縋ったりしない。ルーカスに屈さなかったグロルズ王のように。だからこれでお終いだ。心残りがあるとすれば、解雇通告を突きつけてやれなかったこと。デビュタントで挨拶にも来ない薄情者には、せめて一言、言ってやれば良かった。
お前は家来失格だ。
何処へなりとでも消え失せて、勝手に幸せになれ。