追憶2
王都へ移り七年。
その間、リリーは手紙の一通も寄越さないし、自分から出したこともない。父はしばしば領地に帰るがアルフレッドは同行しなかったし、行ってもアマリエ伯爵家には来訪しなかった。
アルフレッドは変わった。というより成長した。いつまでも子供のままでいられないことは世の理だ。否応なく自分の歪んだ考えを理解していた。リリーを婚約破棄させて一体どうするつもりなのか。家来にして侍女にするのか。伯爵令嬢を? そんな無茶苦茶罷り通るわけがない。非道徳だと罵倒されてもまだ真面な方法なら……と考えて、アルフレッドの思考は止まる。それ以上進むとあってはならない結論に達してしまう。根底が覆り手の中の全てが崩れ落ちる。だから、どんなに愚かだとわかっていても気づかぬふりをしてやり過ごしてきた。
だが、とうとう逃げきれぬ真実に足を掴まれてしまった。
「アルフレッド、パートナーは決まったか?」
「パートナー?」
アルフレッドは品行方正な公爵令息ではあったが、本来愛想がいいわけでも、温和で優しいわけでもない。高位貴族であるため、気難しい顔で本でも読んでいれば、不必要に声を掛けて来る者はいない。陰口を言われない程度に要領よく人付き合いを続け、上手い具合に快適な学園生活を送っていた。
それでも世の中、空気の読めない変人はいる。
ランス・ベーカー。
男爵家の次男であるが、試験組として学園に入学した男だ。
アルフレッドの通うグラバー学園は出自を問わず才能ある人材を育成する為、特別枠が設けられている。厳しい試験に合格すれば学費免除で入学が可能だ。在学中成績が常に一定の水準であらねばならない厳しい制度で、利用するのは主に平民。食費を削ってでも高級な服を買え、という見栄と面子を気にする貴族が、無闇に試験組となれば後ろ指を指されるのは必至。金がなく背に腹を代えられぬ状況ならばやむを得ない選択だが、ランスは違った。彼の生家は男爵家であるが幾つもの商店を経営している資産家だ。
「無料で通わしてもらえるのに、金なんか払う馬鹿がいるんだな」
「お前のせいで一人の平民が溢れたとは思わないのか」
アルフレッドが言うとランスは笑った。後に知ったことだが、ランスはあまり優秀でも裕福でもない従兄弟の為に自分の学費を充てがっていた。全く嫌な奴だとアルフレッドは思ったが、ランスはアルフレッドを気に入ったらしい。爵位の壁もまるで関係なく矢鱈に付き纏われるようになった。入学して以来二年が経った今では、アルフレッドが明け透けな態度をとる数少ない友人となった。
「惚けるなよ。デビュタントのパートナーさ。お前から声を掛けられたいと願っている令嬢達の熱い視線を感じないか?」
「感じるが関係ない」
アルフレッドが答えれば、あはは、とランスは痛快に声を上げた。
この国では十六歳が社交界デビューの年だ。毎年王宮で祝いの舞踏会が開かれる。王都に住む貴族だけではなく、領地の貴族たちもこぞって訪れる盛大な宴だ。
「お前って女嫌いだよな」
「しなくていい苦労をさせられているからな」
リリーが女じゃなかったら、とアルフレッドは常々思って生きている。
「なんだよそれ、モテ自慢? それともアルフレッド様に苦労させている女がいるのか? 面白いな、誰だよ」
「さぁ」
気のない返事にランスは肩を竦めた。
アルフレッドは美しい男だ。指定された制服を着用しているのに長身で身のこなしが冴えているため人目を引く。暗めの金髪に濃い緑の瞳が印象的で、基本的に不機嫌で物憂げな表情をしているが、話しかけられれば存外丁寧に答える。領地にいた頃の粗野で乱暴な振る舞いはすっかり鳴りを潜めていた。爵位も容姿も完璧で、そっけないが紳士的な態度をとる将来有望な男を女生徒が放っておくはずはない。しかし、アルフレッドに積極的に言い寄る令嬢はいなかった。何故なら、
「女性の好みですか? そうですね。控えめで一歩引いて僕の後をついてきてくれるような方がよいですね。積極的な女性はどうも苦手で」
と折に触れて公言していたからだ。気を衒って「面白い女」を演じ強引に近づいてくる強者も中はいるが、アルフレッドが微苦笑で応じ、
「彼女は申し分のない人だけれど、性格の不一致はどうにもね。もっと僕の感性に合う女性ならばよかったのに」
と残念がる噂を立てれば自ずと大人しくなった。
そんなアルフレッドがデビュタントのパートナーに誰を選ぶのか。周囲の関心を一身に集めていたが、アルフレッドにとっては微塵も興味のないことだった。ただ、相手を選ぶ気がないことに対して父が苦言を呈さないことには引っ掛かった。社交界デビュー前にして、既に幾つもの釣書が送られてきているが、それもアルフレッドの元には届かない。父は政治的な婚儀を結ばせる気はないらしい。自らの過ちを悔いているから? 理由を考えると心が冷えた。かと言ってわざわざ進んでパートナーを選ぶ気は毛頭ない。アルフレッドは結局、単身で舞踏会に参加することとなった。
デビュタントは、夕方から真夜中まで行われる。国中から十六歳の若き貴族が集うお披露目会だ。デビュタントが済めば恋愛も解禁となる。出会いに胸を躍らせて参加する者は多い。
アルフレッドはオーウェン公爵と共に来場し、王族への挨拶を済ませてからも、次々に祝辞を述べにくる人の渦に呑まれていた。公爵家の嫡男との縁を求める者は多いし、アルフレッドにとっても大事な顔合わせだった。爵位に胡座を掻いているだけではこれからの時代に取り残される。かといって謙るのも問題がある。堂々と悠然に、だが、柔軟に感じよく、存在を知らしめねばならない。七年まごまご生きてきたわけではない。アルフレッドは卒なく完璧に全ての挨拶に応じた。
「そろそろ時間だろう」
漸く解放されたのは、デビューダンスの開始時刻になってからだった。オーウェン公爵に促されてアルフレッドはダンスホールに向かった。
舞踏会のメインイベント。
その年十六歳になる令息令嬢が列になって踊っていく。爵位順に今年は三列に分けられた。
燕尾服に身を包み、いつもはラフに下ろしている髪をオールバックに整えて澄ました顔で立っているアルフレッドは否が応でも注目を集めていた。同列の令嬢達がうっとりした眼差しで、今か今かと音楽の始まりを待ち望んでいる。そんな令嬢達を他所にアルフレッドは一つ隣の列を見ていた。その辺くらいにいるだろうと当たりを付けて。
余程の何かがない限り、リリー・アマリエがこの会場に来ている。
アルフレッドはリリーが自分の元に挨拶に来なかったことについて、遅刻しているのか、見つけられないのか、或いは他の貴族達に囲まれている為遠慮したのか、ぐるぐる思った。が、何故自分が言い訳を見繕っているのか、と猛然と気づき馬鹿馬鹿しくなって思考を止めた。それでも普段は考えないようにしているリリーの顔が脳裏に浮かんで離れなかった。大体、泣いているか、食べているか、ぼーっとしていて、名前を呼べばへらへら笑った。あの日、殴ったりしなければ今でも傍にいただろうか。いや、手放した覚えはない。その為にこれまで真面目にやってきたのじゃないか。七年間。十六のアルフレッドにとって人生の半分近い年月。爵位を継ぐことに心血を注いできた。だが、その間、リリーとの関わりはなかった。リリーの傍にはずっと婚約者のアーサーがいたはずだ。
(関係ない)
アルフレッドは頑として思い、隣列に視線を注ぎ続けた。華やかなドレスの群れ。在りし日のリリーはやたらに可愛い物や色を好んでアルフレッドを辟易させていた。だから、自ずと淡いピンクや黄色のドレスに目をやっていた。
「あ」
突如、漏れ出た声に向かいの令嬢が反応したが、アルフレッドの視界には入らなかった。
(リリー)
晴れ渡る夏空のようなドレス。
隣の列ばかり捜していたが、更に一つ向こうの列だった。伯爵家の並ぶ場所ではないはずだ。鈍臭いからきっと溢れて追いやられたのだ。人が動くたび姿が隠れてしまうので、若干苛々しながら目を離せないでいた。頭の中とは異なる姿。小柄で丸っこく、とろ臭いイメージしかなかった。だから、きっとそのままにのほほんと育っているだろう。あの長閑な田舎町で、無欲で貴族らしかぬ両親と、兄のようなお優しいアーサーに囲まれて変わらぬまま暮らしている、と。
アルフレッドは粗探しでもするようにリリーを観察し、拳を固く握りしめていた。
割と長身の方かもしれない。
おかっぱ頭は健在だが、へんてこな寝癖はついておらず綺麗な内巻きにセットされている。こちらに気づく様子はなく、何かを諳んじるような仕草。ダンスのステップを反芻しているのだろう。垂れ目で低い鼻は昔のまま面影はある。しかし、はち切れそうだった頬はシャープになり馬鹿みたいに口も開けていない。ドレスから伸びた両腕は白くほっそりしているし、腰のあたりを絞ったデザインのドレスは女性らしいシルエットだ。
(女性らしい?)
脳内の言葉を繰り返して背中に嫌な汗が流れるのを感じた。だが、頭を振って無視した。九歳と十六歳が同じ姿であるはずはない。外見が変わったから一体なんだ。自分も昔より身長が三十センチ伸びたが何も変わっていない。
(そうだ。何も変わらない。関係ない)
アルフレッドの気持ちを後押しするように華やかな音楽が鳴り響いた。
ダンスが始まる。
貴族ならば誰もが最初に習うような簡単なステップを繰り返し相手を代えて進んで行く。手を重ねる令嬢からの熱視線に柔らかに微笑みながら、意識は内心深くにあった。
アルフレッドはこれまで一度もリリーの気持ちなど聞いたことはないし、聞く気もなかった。だから、会う必要もなかったし、会わなくていいと思ってきた。爵位を継いだら有無も言わせず婚約破棄をしろと突きつける。九歳のアルフレッドが一人で決めたことだ。例えば「大きくなったら勇者になってドラゴンを倒すんだ!」という夢と同じに。だけど、この世にドラゴンなどいないし、勇者という職業はない。成長すれば誰もが気づき、誰しも別の道を模索する。皆、大人になっていく。ならば、アルフレッドはどうか。
「アレフレッド様、よろしければこの曲の後、私と一曲踊って頂けませんか?」
手を取る令嬢が優美に微笑み耳打ちする。現実に引き戻されアルフレッドは令嬢と視線を合わせた。普段なら誘いを受ける前にやんわりと拒絶の意を示し、声すら掛けさせず上手い具合にやり過ごす。失敗した。見覚えのある顔だ。名前は思い出そうとすれば、思い出せるがそんな暇はない。曲が終わったらリリーの元へ行く。行って、お前はオレの家来のくせに手紙も寄越さず、挨拶にも来ず、どういうつもりでいるのか、と問い詰めてやる。七年前ならきっとそうした。だから、今日だって同じだ。
「申し訳ないが先約があるもので」
アルフレッドは丁寧に返した。令嬢が縋るような表情で言葉を継ごうとするが、曲が鳴り止んだ。アルフレッドは、何の感慨もなくさっさとその場を離れた。人並みを掻き分けてリリーのいた列まで来たが、姿が見つけられなかった。
デビューダンスが終われば、次はパートナーとのファーストダンスが始まる。夜会に来場している誰もが参加できるため、ダンスホールには人が集まってきている。国中の貴族が集まる最大級の舞踏会だ。一旦ダンスが始まればリリーを見つけるのは困難になる。このまま会わずに終わるのか。だが、アルフレッドに不思議と焦りはなかった。寧ろ、落ち着きを取り戻してさえいた。会えないならば、それはそれで仕方のないことだ。特に構わない。計画実行は叙爵する二年後なのだから。弱気に言い訳めいて思った。アルフレッドらしくない。何かが崩れるのは、多分、こういう時だ。
ふいに視界の端、ホールの隅に青いドレスの女が見えた。傍には男が立っている。相手が誰か。否応なくわかる。何の憂いもなく堂々とファーストダンスを申し込める男。手が差し伸べられていく。ありきたりな光景。今、まさしくこの会場内の至る所で見られる。だけど、
(リリー?)
強張った表情のぎこちない笑顔。嫌悪感や困惑ではない。緊張している。でも目は柔らかい。そういう表情を知っている。そんな風に見つめられたことがある。熱っぽく潤んだ瞳。ついさっきも。鬱陶しくて切り捨ててきた。……でも、何故リリーが? そんなのは可笑しい。そんな顔は知らない。いつも呑気に締まりなくへらへら笑っていたじゃないか。
その男は、やがて屋敷を出なければならないリリーの為にアマリエ伯爵が選んだ友人の子で、兄のような存在だったはず。ただの政略結婚だろう。
(やめろ)
強い感情はあるのに身体は全く動かなかった。
男の申し出にリリーが応じる。丁寧にエスコートされてダンスホールへ誘われていく。ドレスの裾を気にして俯き加減のリリーは、
――笑っていた。
後のことはあまり覚えていない。
踵を返してダンスホールを出た。
体内から熱量が抜け落ちて、何処か遠くがとても寒かった。もし、追いかけていって手首を掴んだらどうなっただろうか。何と言って?
「悪魔召喚をするから今すぐ来い」
笑ってしまう。できるはずがない。とっくにわかっていた。必死で目を逸らしてきただけ。取り返しがつかない凡ミス。間違っていたのだ、何もかも。それでも、ただの政略結婚なら構わないのではないか、と、リリーが家来でいるならいいんじゃないか、と。
どうしたらよいのか。どうしようもできない。七年守った砂上の楼閣が決壊した。あんな顔で笑うところを見なければよかった。そしたら、後二年、夢を見ていられた。哀れすぎてぞっとする。幼いリリーの言った最後の言葉が胸に軋む。忘れたふりをして、ずっと不安を感じていたこと。
―― アーサーはリリーのことお姫様みたいだって言った! リリーはアーサーのところに行く!
そうだ。家来なんてとっくにいない。リリーは、お姫様になったのだ。