羽をたたむ鳥
マイナバードが『黒縁眼鏡』から飛び出したという噂が広まるのは一杯の珈琲が落とされるよりも早かった。
逃げ出した鳥が選んだ場所が、流浪の画家の下であることも。
しかし、そんな噂はマイナバードの耳に届くことはない。
「ちがうよ。イーナ。それじゃないんだ」
画帳を前にしたガルボはポーズを決めるマイナバードにそうじゃないと首を横にふる。
もう何回、何十回踊ったのだろうか。
わからないくらい、マイナバードは踊った。
しかし、何度踊って見せても、あの噴水の前でとった姿ではないと、それではないとガルボは不満な顔をする。
カンの下を飛び出した夜、ガルボに手を引かれて彼の宿につくなり、彼は待ちきれないとばかりにマイナバードを前にすると画帳を開いた。
「さあ、この間の続きを描かせてくれ。あなたの事は頭に焼き付けたはずなのに、何かが足りないと思っていたんだ。やっぱり、本物がいないとね」
「……あたしで、いいのかしら」
「僕は、あなたを書きたいんだよ。あ、ごめん。踊ったばかりで疲れていたね」
まずは湯あみをするかい? それとも夕飯が先? ああ、着替えだろうか。とあたふたと気を使いだす男の姿が面白くて、マイナバードはどれもいらないわと、首を横に振った。
「いいわ。あんたの好きにして」
「ほんとかい!」
ガルボは両手を広げて子供の様に無邪気に喜びを表すと、その手をマイナバードの体を覆う己の草臥れたコートに滑らせた。
「じゃあ、これはいならいね」
安宿の明かりも、ささくれた床板でも構わなかった。
「踊ってマイナバード」
自分だけを見てくれる人(観客)がいれば。
マイナバードは羽を広げた。
それから幾晩が過ぎたのだろうか。
マイナバードに記憶はなかった。
はじめは心のままに、ガルボの為に、マイナバードは羽ばたいていた。
ガルボの筆も止まることはなく、マイナバードの羽ばたきと呼応するように画帳の上を軽快に滑っていた。
しかし、それもすぐに止まった。
ガルボの様子が変わったことに気が付いたマイナバードは踊りを止めた。途端に、ふらりと足がよろけて床に座り込んだ。
丸椅子に腰かけている彼を見上げる形になるが、視線が合うことはない。
こちらをみることをしない彼に、マイナバードは乱れる息を整えながら声をかけた。
「ガルボ? どうしたの?」
「……何か違うんだ」
その言葉はマイナバードの言葉への返答なのか、ただ零れた一人ごとなのか彼女にはわからなかった。
だからもう一度問おうとしたが、彼女が口を開く前に、画家の男は細い目をさらに細めた。
「何が違うか分からないから、もう一度踊ってくれるかい?」
「ご、ごめんなさい。ガルボ……ちょっともう、休ませてくれない……?」
男の願いに答えたかったが、さすがのマイナバードも体が限界だった。
なにせ、あの夜から一睡もしていなければ食事も風呂も取っていない。
それはこの男も同じであったが、とにかくもう、自分の体は休息を要求していた。
ガルボは一瞬だけ不機嫌そうに眉を寄せたが、疲労で顔をゆがめる彼女にそれ以上強要することはしなかった。
「そうだね。今日はもうお休み」
一人用のベッドしかないが自分が使っていいのかと、いつもの彼女なら気を使ったのだろうが、今はそれを聴く気力も気も回すことができない程疲れ切ったマイナバードは、固いベットに倒れ込むやいなや泥のように眠った。