旅の画家ガルボ
夜に力の限り羽ばたいた鳥の朝は遅い。
マイナバードがお腹を空かせて目を覚ましたのは、既に日が昇り切った頃だった。
今日は週に一度の休みの日だ。
マイナバードが本当のマイナバードであることのできる唯一の日。
いつもはふくらはぎが釣るほどの高いヒールを履き、丈の短いボディラインを強調したワンピースを身に着ける。獣のように鋭利な付け爪をつけ、元の顔が分からない程の化粧を施す。
しかし、今日の彼女は違う。
黒いスラックスに、大きめのオフホワイトのシャツを着た。
リップは塗るが、口紅はしない。
ワックスで整える髪も、櫛で梳かし寝ぐせを水で抑えただけだ。
最後に小さな顔のほとんどを占めるほど大きな黒い縁の眼鏡をかける。
くっきりとくるぶしの出た足に纏うのは、踵の低いローファーだ。
鏡に映る自分の姿を確認し、うんと一つ頷いた。
「お早う。あたし」
アパートの階段を下りて、道に出た瞬間に待ってましたとばかりにパン売りの少年がバタークリームを挟んだバケットサンドを突き出してきた。
「お早うっバードっ」
「ちょっと、今日はその呼び方やめて」
「ごめんってば。イーナ姉さん。ほら、朝飯まだだろう? ちゃんとあんたの分を確保しておいた」
「だったらタダでよこしなさいよ」
「それじゃ、おいらがくいっぱぐれちまうよ」
「調子いいんだから」
そういいながら、マイナバードは一枚のコインと引き換えにバケットを受け取った。
「へへ、毎度ありっ」
コインを受け取った少年は、次のお客を取るべく声高にパンを売り歩く。
マイナバードは元気な少年を見送って、手物のパンをかじりながら街を歩いた。
珈琲屋台の女性が声をかけてきたので、丁度良いと一杯もらった。
ありがとうと微笑むと何故が屋台の女性は照れたように頬を染めた。
返される反応にマイナバードは心の中で首をかしげる。
この姿の時に、まれにある不思議な反応。
「……黒縁眼鏡ってやっぱりダサすぎるのかしら」
カンにやっぱり店名変えた方がいいと伝えようかと思案していると、背後でくすりと笑う声がした。
振り向くと、昨日店に来ていた旅の男だった。
大きな荷物と外套は宿において来たのか、身軽な格好をしている。そして昨日より清潔そうだ。
「あなたは、やっぱり誤解している」
「あたしはあんたが胡散臭いと確信しているわ」
「ガルボです」
「なに?」
「僕の名前はガルボといいます」
「あ、そう」
「あなたはマイナバードだよね。なんて呼んだらいいだろう」
くるりと背を向けて歩き出したマイナバードの後を、慌てるでもなく旅の男は追う。
すぐに隣に並んだ。
「ついてこないで」
「そうつれない態度とらないで。マイン」
「その呼び方はだめよ」
その呼び方だけはだめだ。
強く拒否したマイナバードに、ガルボは細い目を心なしか大きく開き、何が楽しいのか笑みを浮かべた。
「ふふ。あなたは実に面白い。わかった。じゃあなんて呼べばいい? 何て呼ばれているの?」
「マイナバード」
「それは知ってる。あだ名とか、愛称は?」
「……バード」
「それは、仕事用でしょう?」
「……この街は初めてなんじゃないの? 実に詳しいわね」
「店いた周りの人たちが実にいろいろ教えてくれたよ」
(あたし以上におしゃべりが多いわ。店主はあんなに不愛想なのにっ)
マイナバードはぐっと唇をかむ。
「で、なんて呼べばいい?」
「イーナ。今日はイーナよ」
ぶすっと答えた彼女に、ガルボは満足そうにその名を口にした。
「いいね。イーナ。素敵な響きだ。ね、イーナ。僕はこの街に来たばかりなんだ。良いところを教えてくれないかい?」
「く」
「『黒縁眼鏡』以外で。それに今日は定休日でしょう?」
「食えないやつね」
黒縁眼鏡の奥からにらみつけても、男は楽し気に細い目を緩めるだけだ。
「あたしはあたしの行きたいところに行く。ついてきてきもいいわよ。でも、そこが『いいところ』かどうかは知らないわ」
「ふふ。いいよ。あなたの事が僕は知りたい」
「調子のよい男だこと」
マイナバードは無言でパンを食べながら、横目でちらりと男の様子をうかがった。
ガルボは本当に街が初めてらしく、興味深々で歩いていた。
マイナバードからしたら、ここはどこにでもある普通の街だと思う。
しかし、ガルボは時々紙に筆を走らせているから、画家にしかわからない魅力があるのだろう。
ほどなくして、二人は街外れの広場にたどり着き、中央に設置された噴水に腰を下ろした。
周りに民家もなく、忘れられた小さな広場は、マイナバードがダンスの練習に使う場所だった。
誰も訪れない、誰にも見られない、誰にも悟られない、さびれた広場。
そのような場所の噴水が稼働しているわけもなく、水はとうに枯れ、中には落ち葉がたまっている。もはや丸いただの椅子と化したそれをも、ガルボは面白そうに素描する。
手元のパンも食べ終えて手持ち無沙汰のマイナバードは、なんとなく聞いてみた。
「ねえガルボ。画帳みせてよ」
「イーナを描いた物は宿に置いてきてしまったよ」
「じゃなくて、なんでもいいのよ。あんたが描いたものを見せて」
噴水はもう書き終わったのか、ガルボは彼女の横に腰を下ろし、画帳を差し出した。
「どうぞ。好きなだけみて」
「ありがと」
彼の紙の中には彼女が見たことのない景色が広がっていた。
太陽の光が山裾をベールのように被う瞬間や、雪が宝石のようにきらめく様子。見たこともない形の草木や、異国の服を着た人々。
鉛筆画の為に色こそないが、マイナバードは確かにそこに色鮮やかな景色と色と匂い、そして音を聞いた。
「素晴らしいわ。本当に素晴らしい」
食い入るように画帳を見詰める彼女に、ガルボは満足そうに、でも恥ずかしに頬を染めた。
「ありがとう。そこまで手放しでほめてもらえるとは思わなかった」
「何でよ。これは貴方が命を吹き込んできたものよ。誉めて当然でしょう。素晴らしいわ。まるでそこに自然があるかの様」
マイナバードは、ふとパラキートの舞を思いだした。
彼女の踊りは粗削りだ。けれど、確かに煌めきと自然の香りと、命を感じる。
では、自分の踊りには何を感じる?
マイナバードはいても立ってもいられず、立ち上がると、思うがままにステップを踏んだ。
ガルボの絵の中に見た異国の人々に思いをはせた。
自分に足りないものは、ここ(街の外)にあるのではないかと。
彼女はいつも考えていた。
どうして、自分は一番になれないのだろうか。
自分に足りないものは、パラキートにあって自分にないものは何なのか。
彼女が「可愛い」のならあたしは「妖艶」に。
彼女が「天の光」ならばあたしは「地の影」に。
彼女が「無垢」ならばあたしは「不純」に。
そうして毎日毎日踊ってきたが、向上する技術と裏腹に、見えない闇に足を取られていく感覚が日々抜けない。
もしかすると、自分の探してきた答えは初めから己の内になく、外にあるのではないだろうか。
彼女が最後の一足を踏み終え、荒れた息を整え、空に向かい伸ばしていた手を下ろそうとすると、鋭い静止の声が響いた。
「降ろさないでっ」
あまりに強い口調に、マイナバードの意識は完全に戻ってきたのだが、体制を崩すことができなかった。
視線だけ向けた先にいるのは、細い目を大きく見開き、一心不乱に画帳に筆を走らせるガルボの姿だった。
「動かないで。お願いだから、そのままでいてほしい」
踊った後もこんなにも熱い視線を向けられることは、初めてだった。
客の視線はすぐにパラキートに向かう。
でも、ガルボは違う。
絵画の対象だとしても、彼の視線は自分にだけ向けられている。
ガルボの筆は、太陽が沈み再び上るまで動き続けたが、その間マイナバードが姿勢を崩すことは一度もなかった。
無自覚美人がすきです。