忘れ去った記憶③
「……咲?」
少年の顔が曇る。
「え……?」
誰だ、この人……?
咲は困惑した。
見ず知らずの人が、なぜ私の名前を知っているのか?
「だ、誰ですか?」
「おれ、大樹。『だいちゃん』だよ」
「ああ……!」
だいちゃん!
祖母がいつも言っている人。毎日駄菓子屋の手伝いに来てくれている人。
会ったことがなかった、あの人。
今までの謎が、すべて「だいちゃん」に結びつかれたような気がした。
「お手伝いをしてくれてありがとうございます!私のこと、おばあちゃんから聞いたんですよね。小湊咲です」
「……よろしく。俺は今南高校に通う高1です」
大樹は朗らかに笑った。切なさをかすませながら。
「ご近所さんなんですね。私は店番をしていますので、露店の準備頑張ってくださいね。だいちゃんさん!」
咲は歯を見せて、満面の笑みを見せた。
だいちゃんもその笑顔を見て思わず笑う。
「だいちゃん」のその笑顔が、警戒心の強いおばあちゃんの緊張を解いたのだろうな。
そう思えた咲であった。
「ばあちゃん」
駄菓子屋の裏部屋ともいえる、作業部屋では、咲の祖母・千代が夏祭りの準備をしていた。
「あら、おかえり。買ってきてくれたのね」
「ああ。でも、ばあちゃんがソーダなんて飲むの?」
千代はうふふと明るく笑い、手を動かし続ける。
「私は飲まないわよ。渚くんが飲みたがるでしょう?」
振り返ると、隣に渚がちょこんと座っているのである。
「うわっ、いつの間に」
「だいちゃん、世話焼きなのに弟には厳しいのよね」
「それは……」
口を閉ざしてしまう、大樹。
「ついさっき、咲とかき氷を食べている渚くんを見たのよ。おいしそうに」
「ええっ、いつの間に」
渚の行動力は誰にも予測できないものだった。放浪癖がある、と大樹の母からも告げられていた。
「咲、楽しそうにだいちゃんのこと話していてお代もらってないのよね」
千代は苦笑する。
「俺……の話?」
「そう。詳しいことは彼から聞いてみなさい」
そういうと、千代は渚へと目を配った。
渚はおいしそうにソーダを飲んでいる。先ほど咲がのせた大盛りのかき氷を食べたというのに。
「ばあちゃん……俺」
大樹は左手を強く握りしめる。
「……咲の中の俺は『だいちゃん』のままでいいのかな」
千代のねじをまく音とともに、大樹は語勢を失っていく。
「しおだってこのままだったら、咲に心を閉ざしてしまうかもしれない」
「だいちゃんが咲のために毎日手伝いに来てくれるの、私は知っていたわよ」
目もくれずに、ただ露店の柱を組み立てていく。よく見れば、かすかにほほえんでいたような気もした。
「だいちゃん、あんたは偉い子よ。村の子供たちの仲も治めてくれる。だからあきらめちゃだめよ。咲も必死なんだから」
「でも……」
千代は大樹の手を強く握りしめる。
「大丈夫。可能性は皆無ではない。そういわれたでしょう?」
トントントントン
包丁とまな板がぶつかり合う、なじみのあるあの音が響く。
「はい、サラダ。咲のね」
咲の受け取ったサラダには、大好物のきゅうりが大量にのせられていた。東京では「かっぱ」とも呼ばれていたほどだ。
「うわあ!きゅうりじゃん!」
「そうよ。明日から3日間の夏期講習でしょう。少しでも応援しようと思ったのよ」
「……あ」
そう、咲はすっかり忘れていた。
今南中学校では1学期が終わると同時に、翌日から有志の夏期講習が開かれる。
たいていは呼び出された生徒の他、まじめに授業を受ける生徒が集まる夏期講習だが、千代の強い言い聞かせにより、咲も行くことになったのだ。
ーー次のニュースです。昨年起きた無差別殺傷事件から1年が経ち、現場には花を手向ける人々がーー
いつもに増して冷淡に聞こえた、ラジオから流れるアナウンサーの声。
「おばあちゃん、これって何の事件?」
大好きなきゅうりをほおばりながら、咲は無邪気に問う。
「これはね……」
千代はゆっくりと、残ったきゅうりを糠に沈ませる。
「たくさんの人が殺されてしまったのよ。罪も何も犯していない人々がね。多くの人が犠牲になったわ」
ふうん、とサラダをもりもり食べる、咲。
「そのうちに……亡くなってしまったのは2人だけ、だったのよね」
そう語る千代の声が、だんだんと小さくなってゆく。
ーー殺害された夫婦の友人が、手を合わせている様子がうかがえました。なお、犯人はいまだ逃走中でーー
「……だからね、咲もその人たちも分まで生きなさい。今を生きている人間というのは、奇跡であるほんの一部なんだから」
そう語る千代の背を、咲はただ静かに見ていた。
* * *
「いってきまーす!」
目の前の坂道を、私は自転車で一気に駆け下りていく。
「危ない、ちゃんとスピード落としてね!ブレーキも!」
「はいはい、やるから!」
この夏から、私は自転車登校となる。昔、私の母が使っていたという自転車を倉庫から引っ張り出し、私が乗ることになったのだ。
「うおおおおっ、自転車サイコー!」
夏の風を自転車で受ける爽快感、青空の下で駆けるすがすがしさ。
今から向かうのが夏期講習であることを忘れてしまうかのような「晴れ」を、太陽が届けてくれる。
「この新鮮な空気を、今すぐにでも描けたらいいのに」
新たな3日間。
あんなことが起こるなんて、私は夢にも思わなかった。