忘れ去った記憶①
「おい!」
耳元ではじけた。その声は、鮮明に、私を呼び止めた。
「これ、落とした」
時空がゆがむように、ゆっくりと振り返る。
その声の主は少年だった。まだ声変わりの最中かと思わせるような、落ち着いた少年の声。
どこかで聞いたような…変な考えが脳裏をよぎる。
いやいや。そんなはずはない。
灰色のズボン、真っ白な半袖のシャツを身に着け、その手には私の生徒手帳が握られていた。
こんな人は見たこともない。
「あ…ありがとうございます。すみません、いつの間にか落としていたみたいで」
ペコッと会釈を交えてよそよそしく、逃げるようにきびすを返した。
「おい」
「なんですか!?」
しつこいな、と急に腹が立ち、思わず口調が強くなってしまった。
見ず知らずの人に、どうしてこんななれなれしい言葉がかけられるのだろうか。
「お前…どこかで」
少年の顔は一層曇る。私があんな言い方をしたからだろう。
何かを訴えているような、純粋な瞳。
誰だ…誰だっけ…
必死に思考回路を働かせるが、一向に思い出せる気配もない。
むしろ恐怖に包まれている感覚だ。
「…すみません。あなたのこと知らなくて。生徒手帳、拾ってくれてありがとうございました。さようなら」
再び私は帰途を駆けていく。少年の声はもう、私の耳には届かなかった。
「ただいまー!」
スパーン、と思い切り家の格子戸を開ける。と言っても駄菓子屋の裏口だが。
「ちょっと、いい加減その癖やめなさい。扉が壊れたらどうするの」
奥からのっそりと登場したのは私の祖母。通称『駄菓子屋のばあちゃん』。
いつものごとく、お決まりの言葉を口にする。
「うちの駄菓子屋はね、代々100年も続いているのよ。その100年の重さが咲にわかる日がいつか…」
「わかった。わかったから、手伝えばいいんでしょ?」
「その通り。よくわかったねえ」
あたりまえよ。何年も聞いてるから。
さすがは私の孫ね、とつぶやく祖母をよそに、そそくさと私は部屋へ戻る。
「こらあ、咲!」
あれ、おばあちゃんの声がしたかな。
…気にしない。
振り返りもせず、私は自分の部屋へと直行した。
部屋に戻ると私はスクールバッグを放り投げ、畳に寝転んだ。
机の上には、いつか撮った家族写真。
私、父、母、祖母、後ろにはなぜか野良猫。
「そうだ。この村に初めて来た夏の写真なんだ」
思わずクスッと笑う。楽しかったな、あの時は。
…と、思いたいのに。
それなのに。なぜ私は思い出せないのだろう。
お母さん、お父さん…なんでいなくなったんだっけ。
なぜだろう。思いを巡らすほど、知りたいという気持ちが強くなっていく。
「なんで…思い出せないのかな」
独り言を言っても何も起きないのに。
思わず笑ってしまう。
「咲、入るわよ」
ガラガラ。いかにも、古びた扉の音。
「手伝いもしないで。ごろごろしていて何か楽しいの?」
「ごろごろしているほうが楽しいの!」
私はごろんと反対を向いてすねる。祖母は優しく私の肩に触れた。
「友達はたくさんいるの?いじめられていない?」
「大丈夫。大丈夫だって」
口癖のように、おばあちゃんが毎日私にかける言葉。
今の悲しみを知るはずもない祖母の声が、心の底までじんと染み渡った。
タイミング…見計らったかのようだ。
「それよりお店は大丈夫なの?」
そう言う私の声が、少し震えた。目の奥がじんわりと熱くなる。
「今はだいちゃんが店番してくれているから。頼りになるわね、だいちゃんは」
だいちゃんというのは、近所に住む高校1年生だ。
直接会ったことはあまりないが、常々うちの店番をしてくれるらしい。
(手伝わない私に対しての嫌味?)
なんて、こんな時は思ってしまう。
鼻がツンとする。視界もぐにゃりと曲がり、ぼやけた。
祖母の手は、優しく慰めるように私の肩をゆっくりとさする。
「…おばあちゃん、私の顔見えてるの?」
震えた声で問いかけたが、祖母は何も答えなかった。
ジージーとアブラゼミがやかましく鳴く、梅雨明けの午後。
豊かな緑の景色に自分も染まってしまいそうな夏の初め。
若者ほど、この夏を楽しみにするものはいない。
潮風かおるこの村は、美しい海に面していて、みずみずしさをまとった海は私たちを招く。遠くからは、パシャパシャとはしゃぐ子供たちの声が聞こえる。
…だったらよかったのに。
七夕も終わり、今日も今南村の夏祭りを壮大に盛り上げようとする村人たちでにぎわっている。
もちろん山の中だ。
「夏といえば幽霊!」
なんて言って通り過ぎた公民館の皆さんは、お化け屋敷を催すらしい。
そこら中にいる子供のように私は遊べない。
夏祭り、この駄菓子屋の露店を毎年出店していて、その手伝いをしなくてはならないのだ。
そのため祖母は大忙し。「だいちゃん」もその手伝いをしており、店番は終業式を先ほど終わらせた私がすることになった。
もちろんエアコンもない。隣には使い古した扇風機のみ。
ガガガガ、といやな音を立てて必死にはたらいているその姿は、まさに滑稽なものだった。
「…さい」
チリリと夏の音が響く。しかし、私はそう優雅に風鈴の音など聞く暇もない。
店の前を駆けていく子供たちをただ、ぼんやりと何の気もなく見ているだけだ。
「ください」
そう。私はあの後、祖母に「手伝いなさい」というように笑顔で諭されたのだ。
おかげでクーラーのきいた祖母の作業場とは別に、この真夏に古びた扇風機一台のこの店で…
「かき氷くださいってば!」
「はい!すみませんでした!?」
あまりに唐突なことだったので、反射的に足と手が動いていた。気づけばもう、手には大盛りのかき氷がのったガラスの器を手にしていた。
「ごめんなさい、ぼうっとしてて…何味がいいですか?」
「イチゴ」
今にもこぼれそうな氷の上に、たっぷりとシロップをかける。かき氷だけはわたしの得意料理と言っても過言ではない。
「お待たせしました、イチゴシロップのかき氷です」
「どうも」
改めてお客さんの顔を見ると、背の低い少年だった。小学生を連想させるような短パン、Tシャツ。定番だ。
「お姉さん遅すぎ」
「えっ…ご、ごめんね!ちょっと疲れていたかも?」
あはは、と作り笑いでごまかす私。何をしているんだ。
初めて「お姉さん」と呼ばれたから嬉しかった、なんて。誰にも言えない。
「それさ…」
少年が氷を口に放り込みながら、指をさす。
指の先には、思いもよらなかった「それ」があった。