第3話 群衆
――導入――
ある学校の修学旅行にて。ひとりの少年が、観光スポットである塔のてっぺんに立った。そして、その屋上の端に立ち、景色を見た。また、その直下にいる、たくさんの学生仲間を見た。
すると、下にいる学生たちは、彼を見て口々に言った。
「飛ーべ! 飛ーべ!」
少年の耳に、その声が響いた。そして少年は塔のてっぺんから飛び降り、死亡した。
少年は異常者であろうか? 直下から煽った学生たちは、異常者であろうか? むしろこの事件では、個人よりも、群衆の持つ異常性が見受けられる。
人は、多人数のグループをなしたとき、各個人が極めて常識者でまともな判断ができる者であったとしても、個人で思考した場合には考え難い結論を導き出し、あらぬ方向へ行動を起こすことがままある。全員が正気であったとしても、群衆となればいとも簡単に狂気を生成するのである。
集団心理の、驚異の側面である。
※※
2025年7月31日 ネオンシティ時計塔タイムガーディアン周辺 午後9時10分
エレナは勤務終わり、買い物をして家に帰る途中であった。周りには、彼女と同じように買い物をしている人、お祭り帰りと思われる家族、井戸端会議をしている女性たち、ゲームセンターに集まる学生など、皆それぞれの生活を楽しんでいる。ふと、演説でもするかのように、周りに話しかけているおじいさんがいた。両手を大きく振りかざして、何かを訴えかけている。周りには、人だかりができていた。おじいさんの話が、エレナの耳にも入ってくる。
「ウルボーグは、神からの使いなのです。悪人がはびこり、世を汚染する時代は、もはや終わりを告げようとしています。審判の日の到来はもうすぐです。悪人は無限の地獄を彷徨い、我々善人は地上にて永遠の命を授かるのです。ウルボーグは、審判の日の執行に向けて、神が地上に遣わした、大天使のひとりなのです」
このおじいさんは、ウルボーグがネオンシティに現れてからというもの、幾度か演説じみたものをしており、エレナがこの話を聞くのも、これが初めてではない。以前、ウォッシュともここを通りかかり、おじいさんの話を流し流し聞いた。「あんな怖い天使がいるかねえ」ウォッシュはそう言っていた。
エレナはおじいさんの話を流し聞きしながら、そこを通り過ぎた。しばらく歩いていると、なにか熱気のある、怪しい叫び声が聞こえてきた。それも、ひとりやふたりではなく、もっと大勢の声である。エレナはぞわぞわと背筋になにかが這っているかのような気色悪さを覚えながら、その声がする方へ歩いて行った。いくつか角を曲がり、たどり着いた。
そこは、巨大時計塔、タイムガーディアンの真下、ひらけた庭のようなところであった。タイムガーディアンの上には、ウルボーグが立っていた。そして、髪の長い女を一人、動けないようにがっしりと掴んでいる。直下、地上にいる人々は、ウルボーグに捕らわれた女を見上げ、叫び声をあげている。処刑しろ! やってしまえ! など、恐ろしい声が、右から左から聞こえてくる。凝った者は、看板のようなもの作り、両手で持ち上げていた。
『罪人に裁きを』『罪ありきは死すべし』
などと書かれている。いつの間にか、民衆の中に、先ほどの演説していたおじいさんとその聴衆も混ざっていた。
――処刑! 処刑! 処刑!――
狂気。四方八方有無を言わさぬ狂気。エレナは狂気を感じた。皆、拳を振り上げ、頭上の処刑人に夢中になっている。ウルボーグは、遥か上から、民衆に語りかけた。
「民よ! この女は、バローナ・バルセーヌ! 複数回に及ぶ窃盗、強盗を繰り返し逮捕されたゴミだ! 昨年、刑期を終え世に放たれた! 君たち善良な民衆の中に、このような汚物が放り出されたのだ! なぜ君たちがクズと共に生きなければならない! この不条理に耐えられるか! どうだ! 民よ!」
――処刑! 処刑! 処刑!――
バローナは、泣きわめきながらもがき、ウルボーグの腕を掴んだが、彼の太い腕はぴくりとも動かない。その悲痛な泣き声は、狂気の歓声に飲み込まれた。
「処刑! 処刑! ……」
エレナはいつの間にか、その恐ろしい言葉を発していた。つい先ほどまで、狂気に身をたじろがせていた彼女は、今や群衆に加わった。
「処刑! 処刑! 処刑!」
エレナの生き生きとした声が、ほかの群衆と混ざっていく。彼女は、自身でもなぜこの声を発しているのか皆目分からなかった。バローナになんの恨みもないどころか、これまでその顔を見たこともなかった。しかし、ウルボーグの語り口をきき、このがやがやとした、それでいて規則的な群衆の声に飲まれていく中で、ふつふつとバローナに対する怒りが湧いてきたのだ。一刻も早く、バローナ、この愚かな女の命を絶たねばならない。そのような暴力的な気持ちが、エレナの胸をいっぱいにした。
これはなにも、不可思議な現象ではない。集団心理における同調圧力が、エレナの行動を決定したまでのことであった。
ウルボーグは、バローナの頭をゆっくりとひねり始めた。
「そうだ! その通りだ! 罪ありきは死すべし!」
ぐりぐりと頭をひねられていくバローナ。逃れられない死の直前に、バローナはかぼそく声を発した。離れたところにいながら、エレナの鼓膜はそのかすかな音波を、確かにとらえた。
「た……たすけ……」
グシャ!
鈍い音とともに、バローナの頭蓋骨は砕かれた。
2025年7月31日 エレナ宅 午後10時2分
「うっ……ぐっ……」
エレナは家につき、机に突っ伏して泣いた。あろうことか、あのウルボーグの禍々しき処刑を、応援してしまったのである。街の平和を守るはずの警察が、狂気の渦に飲まれたのである。手や机をつたい、小さい水たまりができるほど多量の涙が零れ落ちた。
第4話 牢獄 へつづく