第11話 無垢
――導入――
量子力学、数学、物理学などの分野で活躍したジョン・フォン・ノイマンは、23歳のとき、ある理論に関する最初の発表を行った。
当時彼は、これを「ゲゼルシャフツシュピール(社交遊戯)の理論」と名付けた。1926年のことである。単数もしくは複数の相手と戦う際、単純な足し算引き算ではなく、頭脳プレイや駆け引きを要するが、これに大いに有効であると言われる理論だ。その適用範囲は「人付き合い」「ビジネス競争」「国際関係」「法廷」など、その場を選ばない。
後に「ゲーム理論」としてその名を世界に轟かせる、行動科学の一種である。
2025年9月25日 ネオンシティ警察署 午前8時43分
署長はまた、新たな任務を警官たちに言い渡した。
「みんな、聞いてくれ。今回、ウルボーグの件で任務を言い渡す。最近ウルボーグは、刑務所狩りに続き、少年院も襲撃し始めた。これに対して、ネオン警察署は人員を配置し、少年院を護衛する。今から、その配属先を読み上げる。これに従って、異動を行うこと」
ウォッシュは、ネオン少女院の護衛のひとりに任命された。
2025年9月26日 ネオン少女院 午前12時30分
ウォッシュは、特にやることもなく、院の中を右往左往していた。ただただ、ウルボーグが来るのを恐れた。もう二度と、彼の襲撃になどあいたくはない。どうかここには来ないでくれと、ヒヤヒヤしていた。何か、本を読むなりゲームをするなりして気を紛らわせたかったが、なにせ勤務中なので、他にやることもない。護衛を任すとて、いったいあの怪人から何をどう守れと言うのか。
もやもやとそんなことを考えていると、向こう側から、院の少女たちが歩いてきた。
「こんにちは」
ウォッシュはとりあえず、挨拶をした。無視する者もいれば、笑顔で返事をする者もいた。すれ違いざま、ウォッシュはポケットの中が軽くなるのを感じた。嫌な予感がしてポケットに手を当てると、あったはずの財布がない。今とられたのか?
「おい!」
ウォッシュは振り向き、声をかけた。すると、黒髪の少女が走り始めた。この子がとったということだろう。
「こら待てや!」
ウォッシュは、走って追いかけた。すぐに、少女に手が届く範囲まで追いついた。だが、少女はそこで、ウォッシュの黒い財布を床に投げつけた。ウォッシュは舌打ちしながら、その財布を拾った。
顔を上げると、少女は早足に遠くへ行っていた。一瞬振り返り、ウォッシュと目が合った。
「べー」
少女はそう言って舌を出し、角を曲がって見えなくなった。ウォッシュは、こんなクソガキのいたずらに本気で怒ったわけではなかったが、なめられるのは嫌いなタチだ。何らかの方法でやり返してやりたいと強く思った。
2025年9月27日 ネオン少女院 午後1時5分
黒髪の少女が院の廊下の中を、大きな袋を抱えて歩いていた。昨日ウォッシュの財布を盗んだこの子は、教官たちに、食べ物を運ぶよう頼まれていたのだ。
「あっ」
少女はつまずき、その拍子に、袋の中にあったパンや缶詰を床に落としてしまった。いったん袋を床に置き、落としたものを拾って袋に戻していく。そこに、ウォッシュが現れた。
ウォッシュは、少女と向かい合って屈んだ。
「大丈夫かい?」
「あ、ありがとう」
少女は戸惑っているようだった。昨日、財布を奪われたことは、ウォッシュも覚えている。それでも落としたものを拾って助けてくれるこの童顔な男は、よっぽど気前がいいやつなのか、とでも考えているのであろう。
やがて二人は、全てを袋の中へ戻した。少女は再び袋を抱え、立ち上がった。ウォッシュも立ち上がる。しかし、少女はある違和感を覚えた。袋が少し、さっきよりも軽くなっていることに気付いたのだ。中をよく見ると、なんとなく、中身が少し減っている。
そして目の前に立つ、ウォッシュの顔を見た。ウォッシュは、にやりとした。
「へへへ」
彼は、上着の裏側やズボンのポケットから、お菓子の箱や飲み物をとり出した。次々と、少女が持つ袋の中へ戻していく。少女は驚いた。
「うっわ、手癖悪い!」
この男は落ちたものを拾う際、どうやったか、いくらか自分の身に潜ませたのである。ウォッシュは最後に、不自然に膨らんだ口の中から円形のパンをとり出した。
「あ、これも返すわ」
少女は、よだれがついたパンを眺めた。すると、ふつふつと笑いが込み上げてきた。
「ふふ、ふふふ」
少女の笑顔を見て、ウォッシュも笑った。
「ははは」
同日 午後1時32分
ウォッシュと少女は、庭のベンチに二人で座っていた。彼はこのとき初めて、少女の名を聞いた。
「サラ。君はなぜここに捕まったんだ?」
「うーん、だいたいは、盗みね」
黒髪の少女、サラは、隠すようなふりも見せず、即答した。
「へえ」
ウォッシュの返事も、そっけないものだった。しかし、話はちゃんと聞いている。少女はそれを察してか、話を続けた。
「お店で盗んだり、人の家から盗んだり。とにかくいろんなとこから盗んだわ」
「何を盗んだの?」
サラは少し、思い出すように首を傾げた。
「うーん……。覚えてないかな、あんまり。欲しいものが特にあったわけじゃないの。でもなぜか、盗みたかった」
「へえ」
「なんかね、私、他にやることなくて。家にいても、親は全然相手してくれないし。学校でも友だちいなくて。楽しいことが何にもなかった。でもね、盗んで、バレて、怒られてるとき、私なぜか、嬉しかったの。おかしいでしょ?」
サラは「ふふ」と笑った。ウォッシュはその顔を見て、にっこり返した。
「寂しかったんだね。誰かに相手をしてほしかったんだ。だけど、その方法が分からなかった」
ウォッシュは、言っている途中に悲しくなって、目を細めた。この少女が、かわいそうに思えてきたのである。サラは、合っているとも間違っているとも答えなかった。
「ダサいよね、私」
「いいや、ダサくないさ。ただ、不器用なだけだ。そして、人間はみんなそうだ」
サラは、まじまじとウォッシュの顔を見た。そのあと、空を仰いだ。
「なんだか、ウォッシュって不思議な人」
「よく言われるよ」
2025年9月28日 ネオン少女院 正門前 午後10時30分
ウォッシュは、院の正門前に立ち、見張り番をしていた。
サラが話したがって、さっきから門の近くをうろちょろしている。だが、夜なだけに外は寒く、肩が上がって震えてしまっている。
ウォッシュが近付いて上着をかけてあげると、サラは重そうなまぶたの下からウォッシュを見つめた。
「どうして優しくするの?」
「気まぐれさ」
「私、見た目ほど軽い女じゃないわよ」
ウォッシュは、口角を上げて、机に片手をついた。
「俺はここに仕事で来てるんだ。恋をしに来てるわけじゃない。安心しろよ」
「そんなこと……分かってるけど」
サラは、横に目を流した。ウォッシュは顔の位置を下げ、彼女に近付いた。
「そうかな? ちょっと残念、って感じに見えるけど?」
「うるさいなあ」
サラは声を少し大きくし、目を泳がせた。ウォッシュは、サラの周りで軽くステップを踏んだ。
「ハハハ! 悪い悪い」
ウォッシュはサラの顔を覗いたが、彼女は突っ伏している。彼は、話題を転換した。
「じゃあ、問題です、デデン!」
「お、なになに?」
サラは顔を上げた。
「君のお腹には、どうしてくびれがあるのでしょうか」
「えー」
サラは、自分のくびれに手をやった。
「分かんないよ」
ウォッシュは、サラに身を寄せ、後ろから手をまわした。彼の顔はすでにサラの横にあり、耳元で囁く。
「俺が手をまわすためさ」
サラは頬を染め、また顔を下に向けた。
「もう、バカ」
サラは、ウォッシュの額にこつんと頭を当てたあと、きびすを返して建物の方へ戻っていった。
「もうすぐ就寝時間だから、うろちょろしてると怒られるの。寝る」
「ああ、おやすみ、サラ」
そうしてサラは、部屋に戻っていった。
第12話 交渉 へつづく