使徒、来訪
なんでこうなった
外れものたちのためにつくられた宿舎の一階、共用のロビーにあるクッションが埋め込まれた椅子に透明な石を生やしたハリネズミがうずくまっていた。
今日のトゥーラの授業の中で感じた違和感が喉の奥で絡まっているような気がして落ち着かない。
言語の統一という偉業についても驚いたし感心したが、正直なところそれはすでに何となくそうではないかと察していたことでもあった。だからあくまでも事実の確認であり、驚愕の事実を目の当たりにしたという衝撃があったわけではない。
本当に聞きたかったことを口にすることはどうにもはばかられて、けれどいつかは知らなければならないことだろうとも思う。秩序の世に今さら自分が起きて何を為せるというのか。きっと、それを知ることが一番大切なのだ。
と、ドアの開く音がしてロビーに狼頭がのっそりと入ってくる。ローボの顔を見た瞬間、ハリネズミはパッと顔を明るくして椅子から飛び降りた。
「ローボさんお帰りなさい」
「ただいま ウル。今日はトゥーラたちと何をしてたんだ?」
トゥーラとも仲良くしているようだが、やはり初めに顔を合わせて世話をしてくれたローボがそばにいる方が安心するらしい。
ほおを緩ませて引っ付いてくるウルにローボも自然と相好を崩す。角や石が当たらないように配慮した触れ方が浮き立つ心をさらに温かくした。
「はい。今日はトゥーラさんに使徒や地理について教わりました。やっぱり、私の知識や常識では考えられないようなことが多くて困惑してしまいます」
「俺にいわせりゃ、あんたの知識とか常識がよくわからんけどな。あ、そうそう。ルサルカのやつ海水に浸かりだしてから調子がいいみたいだぞ。学者先生たちは理屈がさっぱりわからんって首をひねってたけどな」
ルサルカのことを思い出すとまだザワザワとした感じが肌を這い上がってくるが、それは別として病の症状が緩和されたという話は喜ぶべきことだ。
シータを探す途中で聞こえてきた話だと、ルサルカが故郷の海水に浸かりたいと言い出し、ニュサがわざわざてずから運んできたらしい。
翼を持つ使徒であれば確かに南北の端にある天文台と海を数日で往復できるだろう。
「……? ルサルカさんは海に愛されているだけですよ? 普通なら海に愛された人はその海の近くから離れられないので魚になるまで呪われることはないんですけど……。ルサルカさん、よっぽど海に冷たくしたんでしょうか?」
「いや、俺に聞かれても。海はそんな風に感じたりしないだろ」
「そう、ですよね。……あ、そういえばトゥーラさんに習って地図を描いてみたんですけど、ローボさんはどのあたりの出身なんですか?」
「俺はえっと、たしか―――」
そこからはその日一日あったことについて語り合った。
トゥーラの授業が分かりやすかったこと、研究棟にはいろんな設備がそろっていること、使徒というものにあったことがあるのか、学者たちが今まで頼んできた中で飛び切り面白かったもの。
話は尽きることがなく、二人の口は止まることなく回り続けた。結局、トゥーラが乱入してくるまで二人は何かに取りつかれたようにして会話を続けていたのだった。
天文地区の奥にある展望台中央にニュサが立っている。金の髪が星の光と背中の光翼に照らされて静かに輝いている。
空を見上げてはいるものの、彼自身は星から何かを読み解く術を持っていない。ただ不変のままに輝く星々を仰ぎながら起こり始めている変化の気配を感じていた。
ふとニュサは顔を曇らせて目を鋭く細める。楽しそうな様子から一変、今にも舌打ちしそうな様子になったことにそばに控えていたケジャンは腰を浮かせた。
星に動きがあったのかと空を見上げるも、星読みの長である彼の目には切羽詰まったものは何も見えない。
「ケジャン、シータ・カイリとクナーレ・コシカを呼び戻せ」
「はっ、ただちに」
空を駆ける雷のごとく鋭い空気は、すぐにまた愉し気な空気へ変わった。
風に乗って流れてきた同胞の気配にニュサはくつりと笑う。
空に浮かぶ不変の輝きこそ世界のすべて、と彼らの父である秩序が定めてからどれほどの時がすぎたのか。やっと秩序の手足である使徒が自ら定めを超えて動き始めた。
目を閉じて耳をすませば、多くの嫌悪と興味、混乱に拒絶と様々な声が聞こえてくる。彼は自身が治める学問都市の一部で上がり始めた産声と、同胞たちの無意識の破壊にただうっそりと笑うだけだった。
「ニュサ様、シータたちはこちらにこさせますか」
「いいや。好きにさせろ」
無事に戻れたならばその強運に祝福を。
うっそりと笑ったままニュサは賭け事のように二人の学者の今後を考えていた。
「……仰せのままに。それから、例の占い師と用心棒が中央都市でリタ様に足止めされているとの情報が」
「またか。私のやることに異議があるならば正面から言えばいいものを。自分も他人も殻のうちに閉じ込めようとするのはあれの悪いところだ。……いいだろう。シータにあれを会わせる以上、今来られても迷惑だ。丁重に扱うようにだけ伝えておけ」
「はっ」
うやうやしく頭をたれた星読みの長のはげ始めたつむじを見下ろしながら、ニュサはこれから起こるだろう更なる変化の日々に思いをはせて胸を躍らせた。
遺跡群調査隊の隊員であるガナイは、隊長であるシータがまた勝手に一人で遺跡群に調査に行ってしまったことを知って頭を抱えていた。
基本的に学徒も学者も好き勝手している天文台であるが、唯一出入りに関してはひどく厳しい制限が課せられていた。
外出するにはニュサに申請書を提出し許可されなければならない。しかし、ニュサに書類が渡り許可が下されるまでには短くない時間が流れる。その時間を惜しんでごくたまに研究熱心な学者が天文台を抜け出すことがあった。
もちろん、見つかれば厳罰は逃れられない。研究の形に仕上げれば好き勝手に好きなことをできる学問都市ではあるが、その分少しでも不備が見つかれば手ひどい仕打ちが待っている。
幸い、今回の調査はきちんと申請を出して許可を取っているらしい。それを確認したときのナガイの安堵の仕方といったら、世界滅亡が回避されたかのごときだった。
それでも、もしかしたらと肝を冷やす羽目になるのはどうにも不条理に思えて仕方がない。
「あぁ、なんでわたしがこんな目に」
各地に残っている遺跡にはどういう意味があるのだろうかと興味があったことは認める。それを調べたいとも思っていた。
けれど、ナガイが求めたのはこんないつ上司の身勝手な行動や不手際で罰則が与えられるのかとびくびくしながら行う研究ではない。
ゆったりと、のんびりと遺跡に行って眺めていられればそれでよかったのだ。なのに一緒にされてしまったシータというはた迷惑な学者のせいでそんな夢はついに叶うことはなかった。
こんなことなら兄と一緒に医学の研究をしておくのだった。ヤニと薬草の濃いにおいさえ我慢すれば下手にこっちに干渉してくることもない兄のそばがいかにえがたい場所だったのかを再確認しながら、ナガイは再び頭を抱えた。
一方、〈トゥーラの研究所〉跡地。ようやく小屋の基礎組が終わった空き地にて今日も青空授業が開催されていた。
「トゥーラさんってもっと問題ばかりおこす人なんだと思ってました」
手のひらを貫く石を日の光に透かしながらウルは思わず、といったようにつぶやいた。その発言に肩眉を器用に持ち上げたトゥーラは腰に手を当てる。
「んー? 誰かな、そんなこと言ってたのは。……まぁ今は資料を保存しとく場所も、研究経過を観察できる施設もないからこれしかやることないんだよねぇ」
ナギが組み立てた黒板を立てかける用の足を設置しながらつまらなさそうにつぶやく。
実のところ、トゥーラは退屈しているわけではない。
ウルとの授業は今までの常識が覆されたり、当然だと思っていたことも本当にそうなのか? という疑問が生じるいいきっかけになっている。むしろこれは楽しいものだ。
しかし、実際に自分が思いついた事柄を立証するための実験などを行う事ができないということもまた非常に歯がゆかった。
今までの功績のせいでトゥーラは研鑽地区の研究棟や検査棟に出禁になっているため、この空き地に研究所となる小屋が建たなければ何もできないのだ。
「食べたいものはまだまだあるし、レシピや材料もある程度そろってるのに厨房や食器とかを使うなって言われてる感じだねぇ。そうしている間にも食べたいこととかレシピ、材料とかはどんどん増えていって料理したい事柄だけ増えていく感じだ。いや、これはこれで有意義で楽しい時間だけどね」
いい加減欲求不満でウル君を直接食べちゃいそうだよ。
ふざけた様子でうそぶくトゥーラが、実は半分以上本気なのをナギはよく知っている。早く小屋の再建を終わらせてもらおう、と改めて強く思ったのだった。
黒板の前に仁王立ちしたトゥーラの前に大人しく膝を抱えて腰を下ろしたウルは、今日の授業はいったいどのようなことをするのか不安と好奇心がないまぜになった心境で思考をめぐらせた。
使徒と地理は昨日たいていやったので、次は生活に関することだろうか。それとも植生に関することだろうか。
「ふふーん、今日はアタシたち外れものの紹介をしまーす!」
「皆さんの、ですか? 自己紹介は初めて会った時に済ませていると思いますが」
「いやいや、名前を名乗ってよろしくねって握手しただけじゃん。それじゃあ相手のことは何にもわかっていないのと一緒。味を感じる以前に口に何を入れたのかすらわからない状態なんだから」
なぜそこで食べるという行為に例えるのかが謎だが、言いたいことは何となく理解できる。ようは挨拶をしただけで相手のことを理解できるわけがないので、この授業は無駄じゃないという事らしい。
トゥーラたち異常なものを当たり前のように受け入れているウルに何かを期待しているようでもあった。
一応納得したような顔をしたウルに満足げに笑って早速授業を始めようとした瞬間、アストラル天文台に大きな鐘の音が響き渡った。
はじかれたように顔上げたトゥーラはそばにいたナギとアイコンタクトを取ると、すぐさまウルの腕をつかんで引き起こした。
あわただしく立ち上がったウルは、耳のすぐそばにまだ残っている鐘の音に顔をしかめながら導かれるままにトゥーラの弾力のある体にしがみつく。
「ウル君、しっかりしがみついててね。あれだったらナギ君の角を掴んでてもいいよ。折れても怒らないから」
「勝手なことを言うな」
こんな時でもいつもの調子を崩さないトゥーラに呆れつつナギはその白衣に覆われたふくよかな体を抱き上げる。
横抱きにされたトゥーラの上に乗っかる形になったウルは、やはり突然のことに身を硬くするしかなかった。
「あ、あの。さっきの鐘は」
「あぁ、あれ? あれは緊急集会の鐘の音だよ。ウル君にわかりやすく言うと、なにか重大なことが起きたから全員集まれって知らせる音」
「……いったい何があったんでしょうか」
「さぁねぇ。アタシが研究所を爆発させたり、被検体を改造しすぎたりしたときも鳴ったりするから何が起こったのかは予想しにくいよ」
「おしゃべりはそこまで。ウル殿、口は閉じていた方がいいぞ。舌を噛んでしまう」
さらりと放たれた問題発言について聞くよりも早く、ナギがぐっと足に力を込める。ウルがとっさに口を閉じた瞬間、体に横殴りの突風が襲い掛かった。
霊峰アストラルに唯一いたる道、獣谷の終わりにつくられた厳めしいつくりの門の前に1柱の使徒が仁王立ちしていた。
背中に光翼の輝きを背負いながら、逆立てた髪を風に揺らして秩序の守護者は門の向こうにそびえる巨大な山を見上げた。
「霊峰、ねぇ。収監山脈の間違いだろ。なぁ?」
鼻で笑いながら自分の数歩後ろに立っている星読みのクナーレに首だけ向ける。
成人男性一人分はあるだろう布袋を背負いながら肩で息をしている星読みの天才は、血がにじむほどきつく唇をかみしめているようだった。
激しい感情も焼き焦がす心も生きているが、それを目の前の秩序の執行者にぶつける意気までは持ち上げられずにもろともに沈んでいく。
だからこそ理性を保っていることができているようだが、同時に狂ってしまった方がいっそ楽なほどの地獄も味わっていた。
「お前のオトモダチもバカだよな、ガクシャってのはもっと頭いいんじゃねぇのかよ。やるなつってんのに古代遺跡の研究だ、知識の研鑽の邪魔すんなってのぁどういう意味だ。やっちゃダメって言われたことはやっちゃダメなんだってママに教わらなかったのかよ」
「きょ、許可ならニュサ様にきちんと……!」
「あぁ? 俺の許可はとってねぇだろうが。山にこもりっきりのナマケモノの許可がなんだってんだ、あそこは俺のナワバリだぞ。許可も罰も俺が決めるし俺がやる。当然だろうが」
押しつぶされそうな圧がクナーレの両肩にのしかかってくる。
睨みつけられただけで自分とは根本的な部分が違うと叩き込まれるこの理不尽さ、暴力的なまでの圧力。
クナーレは口元を歪めて顔を伏せることしかできなかった。
「そこまでだ。私の財に危害を加えることがどういうことか、脳のないお前でもわかるだろう?」
厳めしく誰をも退ける門が錆びついた音をたてながら開く。その先にいたのは金の髪を風になびかせる天文台の長、学問都市の支配者であるニュサだった。
ギギギ、と音を立てて閉まる門を背景に楽し気に笑っている彼は、弟でもある荒々しい使徒を前にして大仰に腕を広げて見せる。
「久方の再会だ。この兄の胸に飛び込むことを許そうぞ」
「うるせぇよ引きこもり野郎。テメェを兄貴だと思った事なんざ一度もねぇ」
「相変わらずだな、ユサ。お前はお前のやるべきことを為したのだろう? ならばなぜ笑わんのだ。そう怒りに燃えることもあるまいよ。誇り胸を張ってこの兄に報告するのがお前のあるべき姿なのでは」
「うるせぇってんだよ!!」
轟音がとどろいて門の片方の扉が吹き飛ばされる。熱くなった拳を砕けそうなほど握りしめながら自分を睨みつけるユサの目に、ニュサは歓喜した。
あぁ、あぁ、もう少しだ。
もう少しでこれは壊れるだろう。
「……すまない。口がすぎたようだ」
けれど、まだ。まだだ。
これを壊すのはまだ。やるべきことはまだまだ残っているのだから。
舌打ちをしてユサも拳をひく。吹き飛ばされた巨大な門の片扉をまたぎながら2柱の使徒と、秩序の支配者の恐ろしさを身をもって知った星読みは天文台へむかった。
学舎地区にそなえつけられた立派な講堂の中に詰め込まれた学者や学徒、天文台に関わる全ての者たちは突如鳴り響いた緊急事態を知らす鐘の音について各々好き勝手に憶測をめぐらせているようだった。
ここに来て長い者たちはまたトゥーラが何かしでかしたのではないか、と勘繰っている。
なにせこの間の哀れなカエルはまだかわいいもので、毒霧をまき散らすウシや空を泳ぐ肉食魚など常識から外れた怪生物を生み出す、もはや原型が何だったのかわからない溶けた肉塊が研鑽地区のあちこちに流れ込む、一瞬で研鑽地区が崩壊するような天を衝く巨木を生やす、などあげたらきりがない常習犯だ。
最近は遺跡から持ち出された遺物の観察を行っているようだが、いつまた何かしでかすとも限らないとは誰もが持つ共通の認識だ。
「って、考えてるんだろうけど残念でしたー。アタシは今回なんにもしてないから」
ナギに抱きかかえられながら現れたトゥーラがそう高らかに宣言しても、大半の者たちは不審げに睨みつけるだけ。
針のような視線にさらされて、実はトゥーラという学者は本当にやばい人なのではないかとウルはひっそり思った。
疑わしげにしている学者や学徒と、生き生きとしているトゥーラの口論を止めるべくナギが仲介に入る様子をぼんやりと見守りながら、ウルはなにかがここに近づいている予感に気を取られていた。なにか、大きな力の一端がすぐそばまで来ている。
自分とは正反対な存在のなにかが。
「ウル!」
「ローボさん!」
人ごみの中から突然ひょっこり現れたローボに思わず駆け寄る。ローボの後ろにはこれまたいつの間にかルサルカと人魚姫の座っている車椅子を押しているラックがいた。
とりあえず知っている存在が近くにいることに安堵したのもつかの間、講堂の檀上に誰かが現れた。その場にいるだけで目を引き付ける異次元の存在に、自然と皆が口を閉ざし視線を向ける。
ウルもついさっきまで感じていた気配と同じそれに目を向ける。
「親愛なる我が財よ。急な招集に関わらずよく集まってくれた。今日はトゥーラ・ミエティの起こした事件による避難ではなく、我が弟たっての願いで行われる集会だ。なにぶん頭の足りぬ愚弟ではあるが根気よく話を聞いてやってくれ」
楽しげに笑い金の髪をなびかせているニュサの隣では、金の髪を逆立てて目を刃物のように光らせている使徒が立っている。どう見ても怒っていることは明白で今にもニュサの首をへし折りそうな気配を漂わせている。
秩序の支配者という言葉から受ける印象とはかけ離れているようにも思える2柱の使徒にウルは首をかしげる。
もっと厳格かつ整然とした清廉な人物像をイメージしていたのだが。というよりも、ウルの知っている使徒という存在に該当するであろうものは実際にそういうあり方をしていたのだが。
やはり、これもウルの知っていることとは違うということなのだろうか。
「ユサ、お前が話すといい。お前のやったこと、お前が見たこと、お前の感じたことすべて。自由にお前の思うがままに」
「うるせぇよ。感情に左右されて本能のままに動くなんざしねぇ。理性的に、あくまでも事実だけを言えばそれで十分だろうが」
小さく2柱が会話を交わすのを講堂に集まった者たちはかたずをのんで見守った。
使徒に会うこと自体は珍しいことでもないのだが、2柱以上そろっている場面に出くわすことはあまりないだろう。そういう意味では彼らは今貴重な体験をしているに違いなかった。
「今日の明け方、俺のナワバリにある古代遺跡に侵入し調査だ研究だとほざいたアホを厳罰に処した。テメェら、ここでどんなことしてんのかは知らねぇが『するな』と言われたことぐらい覚えてんだろうな? 古代遺跡に足を踏み入れることも、調査することも、研究することも、絶対にやるなって教わったよなぁ? 約束も守れねぇやつらが知識だのなんだのとほざくな」
くいっと横に控えていたクナーレにユサがあごで指示を出す。クナーレは奥歯が軋むほどきつく歯を食いしばりながら抱えていた布袋を差し出す。
「これは見せしめだ。ルールを守れねぇやつはこうなるってな」
布袋から取り出されたのは赤く染まったぼろ布をまとった死体だった。誰もがそれがどういった状態であるのかを理解できなかった。理解できるわけがないのだ。
彼らは老衰以外の死を見たことが一度もない。誰一人としてベッドの上で穏やかに迎える死しか知らなかったのだ。だからそれが死体であることも、死の状態であることも理解できなかった。
とうとうクナーレが泣き崩れた。彼の交流関係を知っている者たちは、人目もはばからずにむせび泣く星読みの天才の姿にそれが誰であるのかを理解できてしまった。
「シータ、たいちょう?」
古代遺跡調査隊の隊員であるナガイは呆然とつぶやく。
確かに厄介な上司だとは思っていた、いなくなってくれればせいせいすると思ったこともある。けれど、決してこんなことを望んでいたわけではない。
結局、今回も好きなように行動して勝手にいろいろやって、ケロッと帰ってきてお土産といって面白いものや話をしてくれるのだと。当たり前のようにそうであるだろうと思っていたのに。
こんなのはあんまりだ。
それがどういう状態なのかは理解できないが、それでももう二度と当たり前の日常は戻ってこないことだけは理解できてガナイは絶叫した。
クナーレの慟哭、ガナイの絶叫を皮切りにざわめきが一気に講堂中に感染する。
目の前にさらされた理解不能なもの、理解したくない物から逃げるように次々と講堂から人々がかけ出ていく。
一人が出て行ったあとはもうまとまりも何もあったものではなかった。
我先に逃げだそうとする者が続出し、止めるものがいないことも相まってあっという間に講堂内には苦労せずに数えられるほどの人数しか残っていなかった。
ニュサは舞台のそででため息をついた。
(頭を勝ち割った時点で死は確定しているというのに、さらに心臓をつぶし、その上四肢を叩き潰したのか。過剰な暴力は禁則事項を破ったことに対する罰則と脅しだと能無しは主張するが、それでは古代遺跡に触れられるのが怖かったから滅多打ちにしたと告白しているようなものだ。あぁ、あれが身内とは恥でしかない)
己の掲げる暴力と死の象徴に天文台の者たちが怯え、逃げ惑うように見えているのだろう。満足げにしている己の同胞を冷酷に見下しながらニュサは顔を覆った。
怯え、恐怖に硬直する者たちであふれている講堂内を見回す。二度と古代遺跡に関わろうと思わぬように、という見せしめは上手くいったらしいとユサは安堵していた。
と、講堂内にめぐらせていた視線が一つの異物を見つける。それが目に入った瞬間、暗闇から突如伸びてきた生白い腕に喉元を掴まれたような寒気が全身を駆け巡った。
とっさに掴み上げていたシータの死体を投げ捨てて飛び上がる。後ろで悲痛な悲鳴が上がったが、そんなことに気を取られている余裕はなかった。
目を見開いて自分を見上げてくる赤金の瞳を今すぐ抉り出して、激痛を与えたい。透明な角も、体の各所に生えている透明な石も抜き取って踏み砕きたくなる。
自分でも制御しきれない暴力的な衝動に導かれるようにしてユサは固く握った拳を生きた人形にたたきつけた。
「ウル!!」
そばにいたローボがとっさにウルの体が吹き飛ぶ方向へ身を滑り込ませる。
しかし、使徒が放った力任せの暴力の勢いに耐えられるわけもなく体が後ろに飛ばされそうになる。体を丸めて少しでも衝撃を和らげようとしたローボの背中に誰かの手が添えられる。
ラックはピタっと止まったローボの体から手を離して重々しくため息を吐いた。
「悪い、助かった」
「……別に」
「愛想がないわね。それよりその子は大丈夫? ちゃんと生きている?」
ルサルカの落ち着いた声に慌ててローボは慌ててウルの体をゆする。
呻きながらうっすらと赤金の瞳がのぞいたことに安堵の息を吐いたのもつかの間、怒りの形相でユサがまた迫ってくる。
「テメェがなぜここにいる?!! セバン・ペンカン!!」
聞いたことのない名前に各々が首をかしげるなか、ウルは目を見開いていた。
もやがかかっていた頭の中が急激にはっきりと晴れていく感覚に顔をしかめながらも、何かに納得がいった様子で立ち上がる。
赤金の瞳の中に極彩色の光が浮かび、透明な角や石も同じく極彩色の光を放ち始める。
「……戦争はタリの勝利で終わったのですね」
「テメェらは残らず破壊したはずだ。おい、ニュサ! これはどういうことだ!!」
壇上からユサの隣まで移動してきていたニュサは緩やかに笑ったままウルの顔の前に手のひらをかざす。
「これについては後でまたきちんと説明してやろう。とりあえずはお前が解いてしまった縛りをかけなおさなければな」
「あぁ?」
「支配者の名のもとにお前に名を与える。お前はウル。ウル・カーティオモスだ。わかったら復唱しろ」
「……うる・かーてぃおもす。わたしは、うる・かーてぃおもす」
赤金の瞳に浮かんでいた極彩色の光が消え失せる。角も、石もただの透明なそれに戻ってしまう。
人形のように大人しくなってしまったウルをそばにいたローボに投げるようにして渡した後、ニュサはユサをほぼ無理矢理引きずって講堂から姿を消した。
講堂に残っていた者たちも触らぬ神に祟りなし、というように誰も何も言わず何もせずに講堂から逃げるように出ていく。
「いやなものを思い出してしまったよ。まったく」
「あら、珍しく同感だわ。あなたと同じものを味わったという事実は認めたくもないけれど」
「いやぁ、相変わらず辛辣だねぇ。大丈夫だってアタシはキミを切り刻んだりしないから」
「……やっぱり、あなたは嫌いよ」
二人がにらみ合う隣ではラックが無言で座り込んでいる。それとわかる程度には顔がゆがんでいることから、ウルが名づけを受けた光景はそれなりに嫌な出来事を想起させられたらしい。
「ウル殿の様子は?」
「今は眠ってるよ。……ユサ様が言ったのがウルの名前だったのかな」
「おそらくは。ウル殿は本当に不思議な御仁だ」
使徒にあれだけの憎悪を向けられる存在はそれこそ秩序の破壊者ぐらいなものだろう。
目の前で眠っている人形のようなヒトがそうであるとはとても思えないが、これまでの言動からしてもしかしたらと思わずにはいられない。
もう思い出せない使徒が口にした名前に思いをはせながら、ローボはウルの体を抱き上げた。
殴られて青くなっている部位にそっと手をのせる。どうか、早くこの痣が消えますように。
ローボが切実に願うのはそれだけだった。




