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不変の輝き、流れゆく彩  作者: 宇多出 都六里
不変の輝き満ちる世界
3/12

外れものたち

 目が釘付けになった。


 硬そうなのに柔らかそうで、尖っているのに丸っこい。

 輝いているのに透明で空虚。


 鮮烈なまでに強い気配が確かにそこにあるのに、目を離した瞬間消えてしまいそうなほど希薄に感じてしまう。


 それはどう考えたって成立するはずがない概念。どうやったって、どんな存在だってつくりだすこともできない究極。


 頭に透明な角をはやし、喉を、両手を、両足を、透明な角に貫かれてなお穏やかに眠りこけているそれ。

 俺はなぜかそれがそこにいることがうれしくて、なのにどうしようもなく喜べなくて。


 気づいたら泣いていた。大声をあげて、みっともなく。

 

「なぜ、叫んでいるのですか」


 風がささやきながら問いかけてくる。

 答えられない。


「どうして、涙を流しているのですか」


 花が優しく揺れて慰めてくれる。

 わからない。


「悲しいことがあったのですか?」


 星が瞬いて不思議そうに覗き込んでくる。

 悲しいんじゃない。


「ならば、どこか痛いのですか?」


 光が優しく降り注ぐ。

 あぁ、そうだ。


「痛いんだ。なんでかわからないけど、ものすごく痛いんだ」


 鋭利な形の透明な石が貫通した手がそっと伸びてくる。胸のあたりをやわやわとなでて、涙をぬぐってくれる。


「うれしいんだ。うれしいのに、痛いんだ」


 歪んだ視界の中に金色の光が入ってくる。赤が混ざった大きな金色。


「私も、あなたに会えてうれしいです。そして、できることならば会いたくありませんでした。遠い、遠い、時のかなたに生まれた同胞よ」


 穏やかなヒトの声が聞こえて、赤い金が冬の寒さのようにひきつった。


 そこでようやく、俺は自分と目を合わせているそれを認識した。確かに目の前にいたそれは、ある時は風だったし、花だった。星になっていたし光そのものだった。

 ヒトの形をしたそれが、それ以外の何かになるはずもないのに。俺は、確かにそれを見て感じたのだ。


「初めまして。はるか遠く過ぎ去った時の狭間よりまいりました。どうか、この出会いがよきものであることを共に祈ってください」


 やわらかく緩んだ瞳にうつる自分の顔は、何とも間抜けに見えた。





 空を見上げて星を読み、世界の真理を求めんとする星読みたちの総本山。最先端の学術的研究がおこなわれている知識の蔵でもある場所。それがここ、アストラル天文台。


 ローボは世にも珍しい研究対象としてここに連れてこられた。


 オオカミの姿をしながらもヒトと似通った体を持ち、ヒトと同じように生きる生物がいればそれを調べたいと思われるのは当然のことだろう。


 まだ幼かった彼は正直なところ、天文台がどういう場所なのかはよく知らなかった。妙に険しくて面倒な道を歩かなければたどり着けない辺鄙な場所、というのが彼にとってのすべてだったのかもしれない。


 数年にかけて調べつくした結果、学者たちはローボについての結論を出すことはやめたらしい。

 この世には解明できない真実がある、といういい教訓になったとかなんとか。ローボは観察されるのも、つつきまわされることもなくなったが家には帰れなかった。


 それからここで働くようになってもう十数年、天文台に足を踏み入れてからもうすぐで二十年たつ。研究対象だった経験をいかして、似たような境遇の子どもたちの相手を任されることが多かった。


 生まれゆえか、性格ゆえか。彼は人に頼られ、何かを任されることが大層うれしいようだった。


「おーい、ローボ。ケジャン様がお呼びだぞ」


 だからその日、急に面識もほとんどない星読みの長から呼び出されたことも特に不思議に思うことはなかった。自分が必要とされて、役に立つと思われている。それだけで十分だったからだ。

 だから


「どうか、この出会いがよきものであることを共に祈ってください」


 夢がヒトの形をしたような何かにそう言われて微笑まれたときも、心底うれしかったはずなのに。

 実際涙を流すほどの喜んでいたはずなのに。


「今日からお前に世話を任せる古代遺跡の遺物だ。ニュサ様よりウルという名を賜っている。以後、この遺物のことはそう呼ぶように」


「……」


 しわがれながらも力強い賢者の声に返答しないどころか、折れ曲がって垂れ下がった耳もピクリとも動かない。どこか遠くを見ているような目をして、まさに心ここにあらずといった感じだった。


 大賢者と呼ばれる星読みの長は片眉を器用につり上げてローボを見やる。普段であれば話を上の空で聞く、などということはしないことは面識の浅いケジャンでも知っている。


「ローボ、聞いておるのか。……ローボ!」


 あまりにも上の空が続く様子に天文台をまとめる長の一喝がとんだ。ビクリ、とローボの体が揺れてふさふさの毛がついた尻尾がピンと逆立った。

 現実に引き戻された今度は焦りと混乱で硬直してしまった様子にケジャンは嘆息しながら、改めて話を進めることにした。


「とりあえずはお前や他の外れものと同じ扱いだ。いつも通り、明日から博士たちとの顔合わせや検査計画書などの打ち合わせを行うように」


「は、はい!」


「それから、ヒトの話はきちんと聞くものだ。大切なことを聞き逃し困るのはお前だけではないのだぞ」


「……申し訳ございません。以後、こんなことがないように努めます」


 身を縮めて謝罪を述べるローボがきちんと反省していると判断したケジャンはそれ以上は何も言わずに部屋から出ていった。

 静かな部屋に重々しいため息の音が響く。蝶がローボの鼻先に止まってそっと翅を開閉する。


「詳しい事情は分かりませんが、私はどうやらここに所属しなければならないようですね」


 蝶は淡々と事実を飲み込むようにつぶやく。よく見るとその蝶の頭と翅に小さく透明な突起物がついているようだ。


「そうだな。あんたは〈始まりの神殿〉から見つかったらしいし、古代文明について知るにはこれとない重要資料だから、な……?」


 ローボはふと何かがおかしいことに気づいて自分の鼻先に止まっている蝶をまじまじと見つめる。ゆっくりと翅を動かしていた蝶はふいっと飛び立つ。

 と、今度はいつの間にか部屋の中にできていた水たまりがローボを見上げながら問いかけてくる。水たまりには透明な石が浮かんでいた。


「ここの長はさっきのおじさまなのでしょうか。それともニュサというお方なのでしょうか?」


「え、あ、えっとだな。ここはアストラル天文台といって、いろんな学問の学者とか生徒とかが集まる場所なんだ。んで、ケジャン・ダイ様はそのいろんな学問の中の星読みっていう学問の長で、天文台を治めているのは使徒の1柱であるニュサ・レウス様だ」


 謎の遺跡で眠りこけていたもとい封印されていたという話だったが、その割には普通に話しかけてくることに戸惑う。古代文明の遺物というにはもっとこう神秘的というか、近寄りがたさとかがあると思っていたのに。


 ローボは強い違和感と奇妙さに振り回されながらも問いに答える。またしてもいつの間にか水たまりが消えていて、それがあった場所には透明な角を頭や手足にはやしたヒトが立っていた。


「星読み、ですか。不確定かつ曖昧な学問であるとして人気はあまりなかったと記憶していますが……今はそうでもないんですか?」

「使徒、というものは聞いたことがありませんが偉い方なのはわかりました。私の名前をなぜか新しくその使徒様というものがつけたという話でしたが、正直助かりました。ありがたく頂戴します」

「あ、ところであなたのお名前は何というのですか?」


 ヒトの形をした何か、白い鳥、炎。形が変わるたびに話が別の方向へ向いてしまう。


 小動物が駆ける回し車のごとく、次から次へと話し続けられてローボは今度こそ面食らった。目まぐるしく世界が回転している気がして、自分が今まっすぐに立てているのか急に不安になる。

 もしかしなくとも、この遺物はおしゃべりなのかもしれない。

 

「ローボだ。ローボ・リベルタ―」


 勢いに押されて何とか名前を口にするのが精いっぱいだった。ヒトの姿に戻った夢は、ローボが名乗った途端に大人しくなって静かに狼頭を見上げる。


「私は、えっと……。どうか私の名前を呼んでくれませんか、ローボ・リベルタ―さん」


 困ったように懇願されてローボは上の空で聞いていたケジャンの言葉を思い起こす。たしか、ニュサが直々につけたというこの遺物の名前は。


「……ようこそ、アストラル天文台へ。歓迎するぜ。ウル」


 瞬間、不確かにうつろい揺らめいていた夢の形が一つに定められた。


 初めてはっきりとウルの姿を見た気がしてローボは目を瞬く。


 頭と手足、喉を貫く透明な角。赤が混ざった金の瞳は夜闇に浮かぶ満月のようだ。肩口がバックリと開いてゆったりとした衣服をまとい、露出した手足は白く細い。

 関節は人形のような球体がはめ込まれたような形のものなのに、肝心の体は無機物ではなくちゃんとした肉体だった。


 と、突然ウルの体がふらふらと揺れだす。ローボが慌てて支えてやるとヒシッとしがみついてきた。足元へ視線を移すと、足の甲から裏側まで貫通している大きく鋭利な石のせいでうまく立っていられないようだ。


「とりあえず靴の調達からだな」


「お、お手数をおかけします」


 嘆息しながらとりあえず背中におぶる。古代の人々は何を思ってこんなつくりにしたのだか。

 今からでもこの足で歩けるように靴を作ってくれそうな相手の心当たりを思い浮かべながら、ローボは部屋を後にした。






 研鑽地区の外れにぽつりとボロ小屋が建っている。ドアに〈トゥーラの研究所〉と書かれた札を下げたそこは、天文台の学者たちの中でもかなりの際物がいる場所だ。どうしても必要な時以外、誰も好き好んで近づこうとはしない。


 突然、ボロ小屋の中が光ったかと思うと屋根が吹っ飛んだ。


 文字通り天井がない空間からモクモクと怪しい色の煙が立ち昇る。近くを歩いていた学者や学徒たちが慌ててその場から逃げ出す。誰かがまただ、と叫んだ。


「ゲホッ、ゲホッ! あっれー、おかしいな。爆発しちゃったよ」


 小屋から這うようにして誰かが出てくる。あちこち変な色がついた白衣を身にまとった金髪の耳長は実験の失敗が心底不思議なようだ。おそらく、このふくよかな体つきをした学者が小屋の主であるトゥーラなのだろう。


 と、ただの囲いと化した小屋が大きく震えて倒壊し始めた。ギョッと目を見張る周囲のことなどお構いなしに小屋は跡形もなく崩れて、中から成人男性二人分の大きさはありそうなピンク色をした何かが出てきた。

 あえて言うならば体がぐずぐずに溶けかけている皮膚をはいだカエルだろうか。


 あちこちで悲鳴が上がる。運悪くそれを直視してしまった者は発狂したかのように叫ぶか意識を飛ばし、直視しなくともまた気味の悪い怪奇物が誕生してしまったことを察した者は悲鳴をあげながら逃げ惑う。


「んー。やっぱり血の量が適切じゃなかったのかなぁ? それとも食べさせたナギ君の角が合わなかったとか? いや、でも普通生き物は爆発しないし」


 周囲が世界の終りのような騒ぎになっているというのにぼさぼさになった頭をかいているトゥーラは気づいた様子もない。

 それどころか己の実験に対する考察を延々を述べ続けている。そのすぐ後ろにはピンクの怪生物が迫っているというのに。


 おそらく口なのだろう部位がバカリと空いて、真っ青で伸縮性がありそうな肉の塊が伸びてくる。


「お腹の中にガスがたまってて、それがナギ君の角と反応しちゃった? いやいや、ナギ君の角はあくまで髪の毛の集合体みたいなもの。つまり爪と同じようなものなのに爆発物になるはずもない。となると、やっぱり血をあげたのがまずかった? それとも爆発草をあげたのがまずかった? ……おりょ?」


 青い肉塊が腰に巻き付いた。今さら自分の後ろにいるモノに気づいてトゥーラは気の抜けた声を出した。


「うーん、これは舌だね。私を食べたいのかな?」


 その予想は果たして正解だったのか、哀れな姿になってしまったカエルが舌を口の中に引き込む。当然それに巻き取られているトゥーラも口の中にダイブすることになるのだが、不思議なことに慌てる様子もなければ絶望に染まった様子もない。


 むしろ目を輝かせて自ら飛び込むような勢いを見せている。あと指一本分進めば口の中にゴールインとなった時、ふいに赤い液体が飛び散ってカエルの舌が微塵に切り刻まれる。


「あ、ナギ君。来たんだ」


 自分を抱えるようにして落下している青年の顔を見上げてトゥーラは残念そうにつぶやいた。

 ナギと呼ばれた額から二本の黒い角をはやした青年はひくり、と口元を歪める。こめかみの血管が浮いているようだった。


「ほぉ、命の恩人に向かって言うことがそれか。今からでもあれの口に突っ込んでやろうか」


「え?! いいの?!」


 あからさまに目を輝かせるトゥーラ。舌の先にまで出かかった万の言葉を何とか飲み込んでナギは乱雑に変態学者を放り捨てた。情けない声をあげて顔から落ちたようだが気にしない。

 手に持っていた独特な反りを持つ片刃の剣を鞘に入れたまま構える。


「まったく、なぜ毎度毎度こうもわけの分からぬものを生み出すのか」


 苛立たし気に低くつぶやくと、一気にカエルの頭まで跳躍する。生物が発揮できる運動性能をはるかに超えた動きに怪生物もついて行けずナギの姿を見失った。

 ぶよぶよとした気色の悪い肉塊の上に立ったナギは抜き取った剣をかざしながら一瞬だけ顔を歪めた。


「すまぬな。我が同胞よ」


 次の瞬間、怪生物となったカエルの頭が二つに割れ、肉体が粉々に切り刻まれた。


 怪生物爆誕の騒動がひとまず落ちついたころ、ナギはトゥーラにひたすら泣きつかれていた。


「えーん、ひどいよナギ君! あの子のことをもっと知りたかったのに全部焼いちゃうなんて! 鬼、悪魔、人でなし! ナギ君には良心ってものがないんだ!」


「……」


 罪のないカエルをあんなものにしておいて良心だなどとよくもまぁ言えるものだ、とあきれる。ナギの思考など露知らずトゥーラはただひたすら叫びまくる。


「死んじゃったものは仕方ないからせめて命をありがたくいただこうね、て言っただけなのにそれを必要ないってみじん切りにして油かけて火を突っ込むなんて。あんまりだ! あの子が何をしたっていうんだよぉ!」


「……」


 むしろお前が何をするんだ、と言いたいがここはぐっとこらえる。あと少し黙って聞いていればけろっと元に戻るのは経験で理解している。


 その証拠に、さっきまで散々わめいて子どものように駄々をこねていたことが嘘のようにおとなしくなり始めている。あともう少し、このツッコミどころ満載の変人学者の話を聞いていれば終わる。


「あ、そういえばあの子ナギ君の角を食べたとたん爆発しちゃったんだよねぇ。なんでだろ?」


「……拙の、角……だと? おい待て、そなたあのカエルに何を食わせた?!」


「何って、ナギ君の角とー、爆発草とー、私の血」


「……」


 へらへらとしながら言われた材料に目をむく。なぜそれをカエルに与えようと思ったのか。というか、なぜよりにもよって自分の角と魔女の血を一緒に与えたのか。それ以前になぜ自分の角を持っているんだ。


 額を抑えて深々とため息をつくナギを不思議そうに見上げながら、トゥーラは今思い出したと言わんばかりに手のひらを拳でうつ。

 嫌な予感がひしひしと忍び寄ってくるのを感じながらナギはとりあえず言わんとしている言葉を待つ。


「ナギ君に渡した薬も希釈してあげた!」


 あまりにも自然に、あっけらかんと言われた言葉に頭の中が真っ白になる。


 なぜ、よりにもよって劇物に劇物を重ねて与えたのか。というか、ナギ以外があの薬を飲めばそれは間違いなく生物が異様な変化を遂げるだろうことは想像に難くないというのに。

 その上魔女の血をそのまま直接与えたというのだからもう、ふさわしい罵倒が思い浮かばない。


「おかしいよねー、計算上ではちゃんと耐えられる量だったんだよ? あのカエル君根性足りなかったのかなぁ」


「こ、の……たわけが!!!」


 何とか絞り出された罵倒が空しく響いた。






 研鑽地区の奥まった建物の中央になみなみと塩水がたたえられた浴槽がある。その中に浸かったまま、ルサルカは聞こえてくる阿鼻叫喚に耳を傾けていた。


 大方、またあの下品な女が命をもてあそんだに違いない。あぁ反吐が出る。罪なき命をもてあそび、無残な姿へ帰ることの何が知識の研鑽なのか。


「ねぇ、あなたもそう思わない?」


「……なにが」


 部屋の隅、日もあたらない暗い場所に一人の少年が膝を抱えてうずくまっている。


 体のところどころにあるうろこがルサルカとおそろいな爬虫類の目を持つラックは、気だるげにしながらも何に同意を求めているのかを問う。

 浴槽のふちに腕を組みながらルサルカは陰鬱に笑った。


「あの下品なマッドは呪い殺されればいいなって話よ」


「……それは、喜ぶだけなんじゃないか」


 無気力そのものな声は心底どうでもよさげだったが、言っていること自体はおそらく間違いではない。

 確かにそうかもしれない、とルサルカもうなずく。呪い殺される程度ではあの変態が悔しがったり苦しんだりする姿は思い浮かばない。


「ナギが可哀想だわ。あんな変態で品性のかけらもない猪のお目付け役だなんて。本当に、可哀そう」


 足に絡まる水草のように絡みつくような声。ラックはそれを肯定も否定もせずに黙って聞いていた。


「ローボも可哀想。醜く生まれただけで親に捨てられて、学者たちに弄り回されて。今も好き勝手に働かされて。何より自分が可哀想だと気づいていないことが本当に可哀そう」


 それからも誰が可哀想、何が可哀想と続けられていく。

 憐れみのこもった言葉のはずなのに、そこに心底相手を案じるような気配はない。あるのは薄暗い水底に引き込むかのような絡みつく情念だけ。


 己自身にもその情念を絡みつかせながらひたすら相手を憐れむ姿にこそ、憐れみを覚えてラックは陰鬱な気分になった。

 どうでもいいと思いたいが、どうでもいいと思わせてくれない。心底面倒だ。


「あなたも可哀想ね、ラック。厄災ノ種(ケヲ・メカ)だなんて呼ばれて、欲しくもない幸運に恵まれて。好きで生まれたわけじゃないのにね」


 水音が大きく跳ねて、濡れた肌の音が静寂を破る。


 体が徐々に魚へ変じていくという〈人魚症候群〉を患っている少女のむき出しの肢体は鱗に覆われ、皮膚はぬめっているように見える。

 特に進行がひどい足はかろうじてヒトの形を保っているものの、おそらく歩くたびに激痛が走っているはずだ。


 ルサルカが一糸まとわぬ裸体をてらいもなくさらけ出しているというのに、ラックは反応らしき反応もしない。

 近づいてくるなりかけの人魚をただぼんやりと見上げているだけ。


 長い髪が海藻のように肌にまとわりついてきわどいところを隠しているが、一歩踏み出すたびにきわどいところが見えそうになっている。

 健康的な男であればだれであれ少なからず興奮を覚えるだろう光景だ。


 実際、彼女はそうしてこの部屋に入ってくるものを誘惑する趣味があった。

 が、ラックには通じない。


 裸体だからどうした。自分だって服を脱げば裸になる。水浴びをしていたルサルカが裸なのは当然だし、それを見たところで特に何も言うこともなければすることもない。

 それが彼の考えであり、何より彼は女に誘われて快楽を味わうという幸せを受け入れたくはなかった。


「女が恥を忍んで誘惑してるのに、つれないんじゃない?」


 ラックの上に馬乗りになったルサルカが蠱惑的に笑う。重力に従って垂れ下がった髪が二人の顔を覆った。

 手を取って己の胸元に引き寄せる。まだうろこに覆われていない柔らかな肌の感触に、初めてラックの表情がはっきりとした嫌悪を示す。


「……襲ってほしいのか?」


「あら、可哀そうな子を慰めたいだけよ」


 冷たい凍った目が初めて自分の目を見たことに震えながらルサルカは甘い声を流し込む。


「何もかも忘れて、私という女におぼれればいい。幸運も、厄災ノ種(ケヲ・メカ)も、男女の交わりには関係ないわ。大丈夫、私はあなたを愛してあげる」


「魚に欲情する趣味はない」


「まぁ、ひどい」


 するり、と身を引き離しながらルサルカは笑った。ラックはただ痴態をさらしている少女を見上げるだけだった。


 体についた塩水を洗い流し、衣服を身にまとったルサルカは椅子に腰かけて一息ついていた。

 この〈人魚症候群〉の厄介な点は、体が魚になることだけではなく塩水に一定時間浸かり続けなければならないことだ。


 これを怠ると全身が激痛にさいなまれることになり、乾燥した肌がひび割れて出血することもある。

 塩水では余計にひび割れが広がるのではないか、乾燥するのではないかということで真水に浸かっていた時期もあったのだが、塩水の方が効果があることが分かってからは常に塩水に浸かるようにしている。


 このことについて学者たちの意見はかなり分かれているらしく、真相の究明はまだまだ先になりそうだ。


 車輪のついた変わった椅子に腰かけながら浴槽の水が抜けていくのをぼんやりと見やる。


 魚になりかけの足では長距離を移動することもできない。せいぜいが浴槽からラックのいた場所、つまり部屋の端までの一直線の距離が限界だ。

 また、浴槽を掃除するだけの時間たっていることもできないため、使った浴槽の掃除は別の誰かにしてもらうのが常だった。

 

「ねぇ、ラック。私を部屋まで送って」


 車椅子の車輪を軽くつつきながらねだってみる。別に自分で車輪を回して移動することもできるのだが、つかれるのでやりたくない。


 浴槽の掃除をしていたラックは泡に塗れた手を掲げる。

 待て、ということなのか拒否するということなのかいまいち判断が付けられない返しだったが、ルサルカは上機嫌で待つことにしたようだった。


 掃除を終えたラックはにこにこと笑って自分を待っている少女にため息をついた。なぜこんなわけの分からない少女に気に入られてしまったのか。

 幸運によってもたらされたとは思えないからこそ付き合っているが、そうでなければわざわざ言うことを聞く義理もない。


「部屋まで送ってくださいな、トカゲ王子」


「……仰せのままに。魚姫」


 嬉しくもないだろう呼び名にくすくすと笑うルサルカ。

 やはり、どうしてもその心が理解しがたく深くため息をついた。自分が押すことを考慮されて嫌に頑丈につくられた取っ手を手に持ち、軽く押すと車輪が軽い音を立てて回りだす。


 小さな幸運を引き起こしながらラックは天文台の施設を通り過ぎていく。流れていく景色を見ながら、終始ルサルカは楽しげに笑っていた。






 世界中の知識が集まると言われる天文台に、外れものと呼ばれる集団がいる。

 彼らはすべて世界中から集められた研究対象であり、保護対象だ。


 生まれること自体があり得ないモノ、まさに生きていることが奇跡としか言えないモノ、一見普通に見えるモノ。

 一通の手紙を眺めながら占い師のキハーナはため息をつく。


「僕はいったいどれに分類されるんだろう」


「そりゃあ麗しの紫の君は存在そのものが奇跡だぜ。何せ砂漠に咲く一輪の薔薇、それも紫色ときた。お前ほど美しいものはなく、世界だってお前にひれ伏すだろうさ」


「……そういうのはいいよ。ウザイしキモイ」


 濃く鮮やかな紫の髪に指を滑らせ自分を褒めたたえる用心棒のハナンの言葉をばっさり切り捨て、ため息をつく。


 一体なぜこんな軽薄で歯の浮くような言葉ばかり喋る男を用心棒として雇ってしまったのか。

 自分を売り込んできたハナンの言うことを鵜呑みにして受け入れた過去の自分を張り飛ばしたい衝動に駆られるキハーナだったが、肝心の用心棒は上機嫌でキハーナのあごに指をかけ軽く持ち上げる。


「そうつれないこと言うなよ、キハーナ。俺は本気でお前のことを美しいと思ってるし、愛してるんだぜ? お前だって、俺がいないと生きていけないだろ?」


「うぬぼれないでくれないかな。僕は一言も君にそんなこと言ったことはないし、そもそも荷物をまとめるようにお願いしたはずなのになんで僕を口説いているんだい? 仕事をしてくれないならここで契約を解消してもいいんだよ」


 丸い目を何とかつり上げて凄んで見せても、目の前の男はニヤニヤしたまま親指でキハーナの頬を撫でるだけ。


 食い扶持がなくなるうえに客の中からいいと思った相手を口説く趣味を持つ彼は、契約を切られることは絶対に避けたがるだろうと踏んだうえでの言葉だったのに、予想したよりも反応が軽いことにキハーナは首をかしげる。


「別にいいぜ」


「……え」


 用心棒が呆気なくそれを了承したことに思わず声が出てしまった。キハーナは慌てて口をふさぐが、しっかりと聞いていたのだろう。

 男は笑みを一層深くして意味深にあごにかけた手を滑らせる。


「ほらな、いくら強がってもお前は俺を必要としてるんだよ」


 ニマニマと顔をだらしなく緩める男にキハーナは言い返すこともできなかった。


 草原地帯の南部街道を一台の幌馬車が走っている。

 御者台に乗って手綱を握っているハナンは荷台の中で膝を抱えてむくれている主を盗み見て苦笑した。


 少しばかり意地が悪かったかもしれないが、だからといってすでに半日は立っているのだ。むくれている幼い表情も大変愛らしいが、そろそろ機嫌を直してほしい。


「紫の君、むくれてちゃ美しさ半減だぜ? そろそろ機嫌を直しちゃくれねぇか」


「……本音を言ったら考えなくもないよ」


「むくれてるお前も美しく可憐だし、まったくもって俺が困ることはないがいつまでもむくれてちゃ紫の君が疲れるだろ? そろそろ機嫌を直しちゃくれねぇか」


 ゴン! とハナンの頭に人の顔ほどの大きさの水晶玉が投げつけられた。

 頭が割れたのか、血が噴き出す。ハナンの顔にも血がだくだくと流れ出す。つり気味の目元をひくつかせながらハナンは自分の主を睨みつけた。


「いってぇ!! ちょ、紫の君! 殺す気か?! つうか俺じゃなかったら死んでるからな?!」


「チッ」


「うーん、とげとげしい。美しい花を守る茨のよう……ちょ、まっ、待て待て待て!!」


 水晶玉を両手で持ち上げて振りかぶるキハーナに慌てて片手をかざして制止をかける。

 褐色の肌でもわかるほど真っ赤に顔を染めてプルプルと震えている少女に、さすがに言い過ぎたかなと思わなくもなかったが本心なのだから否定はしないし取り消しもしない。


 流れていたはずの血がきれいさっぱり消えた顔を睨みつけていたキハーナはふいっと背中を向けた。どうやら本格的にふてくされてしまったらしい。


「悪かったって。それにしても、なんでお前だけじゃなく俺も呼ばれてんだろうな」


「……」


「お前は未来を見る占い師だから興味を惹かれるのもわかる。何よりその在り方が美しいしな。けど、俺は腕っぷしは強いが天文台の学者たちが興味惹かれるような特別なものは持ってない。お前の用心棒としてきてもいい、ならわかるが連名で招待されるってのはちょっと納得しがたいな」


「……それ、本気で言ってるのかい?」


 憮然とした声で問われてハナンは首を傾げた。


「おう。お前は姿かたちも美しいが何よりもその心が美しいと」


「そっちじゃない!! あー、もう! 君に真面目な話を期待した僕が悪かった。もう黙ってておくれ」


 水晶玉がぶつかったせいで出来た傷がきれいさっぱり消え去った頭をそっと見つめながらキハーナはため息をついた。

 なぜここまでわかりやすい現象を体験しておいて自覚がないのか。


「僕はおまけだよ」


 ぽつりとつぶやいた言葉は用心棒の耳に届くことはなかった。



 世界の秩序を守るために地上へ遣わされた使徒が1柱の治める知識の蔵へ秩序から外れた存在が集まりつつある。

 長い歴史の中でも異例の事態に、学者たちの中にも何かが起こるのではないかとうすうす感づいている者がいる。


 天文台を治めるニュサ・レウスの思惑は一体どこにあるのか。

 不変の輝きに包まれていた世界に小さく流れゆく彩が生まれ始めていた。

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