ゼピュロスの騎士団長は悶々として明日を見た。
純粋な人族としては珍しく、2メートルを軽く越える上背に、獣人の如く腫れ膨らんだ筋肉の鎧を纏い、仄暗い飴色の髪の威丈夫が、憤怒とも歓喜ともとれる様な複雑な表情で、大門の間口を塞げる長さの槍を小枝の様に振り回し獣のような雄叫びを上げている。
演武に見えぬ事も無いが、どちらかと言えば八つ当たりに狂った幼児の動きの方が当てはまるかもしれぬ。
これももう5日にもなろうか、毎日役目の終わった時間から、こうやって練兵所の片隅で獣の様に数日間、奇態を晒している。
ボストーク騎士団ゼピュロス親衛隊隊長イリアス・ゴルバチョフはこの数年で溜まりに溜まった内面の澱を吐き出すように槍を振り叫び続けている。
東都都督から御館様への一通の文。
ボストーク家の世継権第二位を棄て放逐したジル坊が娘御を得ていた、その娘御が助かったとはいえ、東都において誘拐の憂き目に合っていたと。
あの若き都督は坊と机を並べていたと聞いている、あの文からは彼の回らせたであろう幾つもの舜巡が読み取れた。
きっと坊の善き友なのだろう。
先の冬より兄御の容態も憚らぬ所で、正当の血脈が既にジル坊の許に降りていたと。
女児だからそれはまだ良いのだ、聞き捨てならなかったのは長子の存在。
養子と記されてはいたが、何とも腑に落ちない。
坊がゼピュロスの災難に際し、冒険者として我が主の元に、いや、姉御の元に、か、御館様に随行した私と入れ違いで王都よりとり急ぎに、蒼天の一門がかのいくさ場へと支援に来ていたのは知っている。
我が主夫妻の亡骸を保護してくれたのは誰でもない、ジル坊なのだから。
そしてあの赤子の骸の行方が知れぬ以上は、勘繰ることもしようものだ、まして主と同じゼピュロスの黒髪の子となれば、御館様も同じく察されて居よう。
その子が遺児ならばゼピュロス男子の血はまだ絶えていないと言うことになる。
汗を飛び散らし絶え間なく見えざる兵を振り払い続ける、血流で膨らんだ四肢からは辺りを歪ませる程の熱気が出ている。
「ぐぬぬぬぬ……」
奥歯をミシミシと鳴らし、その激しく鋭い動きに釣られ、槍の先からも汗飛沫が弾かれる。
練兵所の広い空間も彼に近付くほどに人の密度が薄くなる。
新兵は壁際で肩を寄せ合い窮屈そうに武具を振っている。
それほどに彼の挙動が恐怖なのだろう。
ボストークを象徴する四頭の龍の絡み合う紋章から伸びる三本の刃、お館様より下賜されたトライデントの柄を、掌によりその腕と一体化させるように握りしめ、既に演舞とも見えぬ様相で、型も無く、空を弑するようにひたすらに振り抜き続ける。
「……アス……イリアス」
静かに呼ばれた名に体が止まる。
ピタリと止まった槍からは、振りきられた透明な柄のように、彼から流れた汗の飛沫が一気に弾かれた。
「総長殿……」
「少しだけ時間を貰えるかね? なに、お茶一杯程の時間だ、それにしてもお前、湯気が凄いな」
「……はい。では」
熱を吹く小山の様なイリアスとは違い、剥き出しの鋭利な剃刀の様に小柄な、総長と呼ばれた初老の男は、表情を殺した能面を被った様に無表情で屯所の食堂のテーブルに着く。
「私は熱い茶を、イリアス隊長には冷えた飲み物をなにか、酸いのは嫌いかね?」
ホロリと表情を崩すと、鋭利な剃刀どころか、そこらの道端に座っている老人のように年相応の温和な顔になる。
「総長殿、お話とは……」
「ん? まぁ、一口飲んでからで良かろう」
汗の引く間もなく、氷塊の浮かぶ木杯と小さな陶器の茶碗が運ばれてきた。
総長と呼ばれる老人は、ふぅふぅと湯気立つ陶器のカップの飲み口を冷ましながら、ズッと茶を啜る。
「……うまいね」
イリアスは歯に氷をあてがうように、果実水を一気に飲み干すと木杯を給仕に差し出しおかわりを求める。
「イリアスよ、お前のそれがどういう感情なのかは私には想い図れぬが、皆が怖がっているぞ」
正に苦笑といった歯の見せ方だ。
「……うす」
「東都督からのあの文だな?」
「……うす」
「で、どうしたい? こんな発散の仕方で収まるのなら部下達も心配せんだろう」
「え?」
「ボストークの四門の一つがこれでは、兵はおろか民も安らかに眠れまいよ」
じっとテーブルの木目を見つめながらにポツリポツリと憶測を吐き出す。
こんなものを確かめる為にこの場を離れる訳にもいかないのは重々理解している。
その内にイリアスの見つめる先は、その太い右の人差し指に移っていた。
「あ、あのですね、小枝の様に小さいのに、なんでこんなに熱を持ってるのかと、それは小さな手の赤子が私を見て笑いながらに、この指をしっかりと握るんですよ」
「ん?」
「何の警戒も無くね、私を、この太い指をしっかりと笑いながらに掴まえるんですよ、私はこの子を守る為にこの場所に居る、そう思いましたよ。 まぁ、役目も当然ですが、何よりも優先しても、そういう気持ちだったんです、そして友を亡くした」
「あぁ」
この男は武を盾にしているがこういう優しい男であったな。
「私は……私は……」
「その子を見てくるか?」
「え?」
「暇を出すから見てくれば良い」
「……。良いのですか?」
「御館様からも言われたのだ。貴様にとってはそれこそついでだろうが、恐らく貴様も同じ事を考えているだろう、と。名代とまでは言わぬが、その目で見て御館様へままを申し渡せ。女児の血筋は伝聞のまま、蒼天の二極たるミザールとロザリーのものだろうがな。男児がエータ・ゼピュロス・ボストークその人なのか……」
話の途中で大男は目頭を押さえる。
「どうした?」
「いえ……」イリアスはヒソヒソと声を殺して伝える。
「もし、あの幼子が心穏やかに生きていたなら、私は御館様を裏切る事になりかねない……騎士の名を捨てる事になるかも知れないが」
この国の西風はいつも穏やかで優しい。
ただ、戦場の血の匂いを運ばなければ、だが。
主であり友であった彼が命を懸けた、あの場所と彼の血を守るのが私の役目。
今の私はもう何も持っていないのだ、脱け殻のあの場所を守護する訳でもなく、ノトスの禄を無駄に食っているだけの穀潰し。
ならば守るべきは誰か。
彼の中ではもう決まっていたのかも知れない。
老いた姿の総長と呼ばれた男からはもう笑みが消えていた。
しっかりとした眼差しでイリアスを見据えて一言だけ。
強くしっかりと吐き出した。
「お前の意向は知らぬ、この役目、お前が受ける話、お前がその目で見てくるのだ、とは言え、ここではあの幼子は既に亡き者なのだ、御館様がどう推測されようが……その顛末は知らぬ」
「うす……」
ゼピュロス騎士団長イリアスはその数日の内にボストーク東方自治領から行方を眩ませた。
建前上はボストーク東方自治領主付けの「捜し人」として、意味を持たない虚の捜索の御触れと共に。
イリアス・ゴルバチョフは亡国の騎士団長としての役目を一旦置いて、ただ一人の旅人として遥か南方、東都チオンへと旅立つ事を選んだのであった。




