東都都督
くすんだ金色の髪の男が生欠伸をしながらに、一枚板で天板を仕上げられた豪奢な机に腹を押し付け、椅子をずらして身体を反らし伸びをする。
両腕を天に突き上げ、ふるふると身体を震わせ、ペンを放り投げて天に叫ぶ。
「ぬあぁぁぁっ! 面倒くさい!」
生来持ったこの性根には都督なぞ合わぬ仕事だ。野を駆け森に跳ね、魔物を屠る方が、この私の生き方には合っている。
ぶつぶつと文句を言いつつも、羽ペンにインクを吸わせる、細身ながらに力強く無駄の無い所作の青年。
少年の頃、王都でジルと机を並べていた、この冒険者然とした気っ風のアイゼン貴族の子弟が、今や国家の穀倉たる東都の運営を任されている。
故郷に於て、先代が進めた南方の街道整備は支配地の税収を格段に上げた。その副官として貢献した手腕を王に見初められた結果だ。
しかし、今、王より求められているのは現状維持ではない。西方の戦の影響で、辺境や隣国から生活の安定を求めて流れ込む民の受け皿を、この東都に期待されている。
この若い領主は、主に認められた才を自身では受け入れられないままに、筆を走らせ判を押す。
今も本心では「これは思う所ではない」と、自身が考える方策へ優先的に予算を付けている。
ここに赴任してからは、祖父や父の遣り方を踏襲しているだけ、実際の所は一族の積み重ねてきた結果在りきだったのかもしれない。
だが、彼はこの数年の成果に対しても「たまたま進めていた事業が、たまたま起きた災害に間に合った」だけ、と考えている。
身に覚えた机上の杓子とは違う。
現に故郷では、副官としての自身の案は殆ど通っていない。
そう確信している。
だからこそ祖父様や父兄を踏襲し、自身とのブレが何処なのかと思案を続けているのだ。
先ほど押した判も、領民から「自分達の田畑の水路整備に金を入れて欲しい」と言われた地域の山林整備への事業のものだ。
やはり、それは私の思い描いた遣り方とは違うのだ。
口糊を凌げる内は子の為に動け。
マラヤの山の辺境に居をかまえる貧乏貴族ながら「国は民在りき」の教えのままに戦乱を乗り切った古い家の素性は、世の認める杓子定規では説明できない歴史を持つ。
飢えぬ程度に喰えるなら先の為に資金を使うものだ、と身に刷り込まれている。
今は民の生活を維持する為に何を優先するか、それだけを考え、自身の案と擦り合わせて悶々としながら。
そこをアイゼン王に見初められたのであるが。
彼が赴任してからは北の山林から大河に流れ込む河川の浚渫整備に腐心した、水路は氾濫域を治水してからで充分に間に合う。
流れてきた人を食わせる為には彼らに役目を与えねばならない。先ずは耕地を拡げる。その為の治水工事だ。水路は追ってでも良い。なんなら荒れ地の開拓と平行で行う方が合理的であろう。
永く地を治めるというのは、飢えを無くすのと同義である。
周囲に敵地の無い所領ならばこそ、ひたすらに先の世を見据えねばならない。
その内で、やっと自身の考える「利」と国家の「利」の解離に気づいた。
逸っていたのだ。
「親父達の言うように、やりたいことは土台を作ってから好きにすりゃ良いのかねぇ、ああ、ボストークの坊々が羨ましい、あいつ、元気にしてるのかねぇ」
コツリとペンの先でインク皿を叩くと、類々とサインをした書類の束を処理済みのトレイにどさりと乗せる。
「おい! 誰かある! 急ぎの署名は済ませたぞ!」
いそいそと書類を引き上げる書生を尻目に外を眺める。
地平の端に雲が掛かる以外は青い空が街を覆っている。
だが、穏やかに吹く風に喧騒が混じり込んでいた。
「やけに騒がしいな」
東側の衛兵が演習でもやっているのだろうか、鎧の塊が幾つも壁の端を行軍移動しているのが見える。
「誰かある!」
通る声で一言発すると、ともなく書生が扉を叩く。
「はい、お呼びで?」
「うむ、こっちへ」
窓の外を指差して書生を呼ぶと、少し乗り出して衛兵の行軍を追う。
「アレを調べて報告をせよ、物取りの類いでは無かろう、人死にか、魔物か、少し気になる。西からの流民で人頭も増えておるしな」
「はい、では早急に調査致します」
生来の気性も手伝い、うろうろと落ち着きなく衛兵の流れを窓から見下ろす。
「……ええい、ままよ」
意を決すると、外衣と剣装を掴み執務室から飛び出してしまう。
「え? ど、どちらへ?」
「野暮用を思い出した! ちょっと出てくる!」
書生に声を掛けられ、幼少の頃に親の目を盗んで森へ遊びに行った、あの背徳感に溢れたワクワクを思い出し、思わず頬が弛む。
数刻後、彼は執務室の机に向かい渋々とペンを走らせていた。
軽々しく行くのでは無かった。
この東都で人拐いとは、しかも被害者が、あのジルの娘、本来なら東方公自治領家の子弟、侯爵家に準じる貴族の世継ぎの子女だ。
書生の報告には当然記されては居なかったが、この目で見てしまったのだ、確かにあれはガキの頃から見知ったジルと蒼天のローゼ嬢だった。数年前のいざこざで姉御の子を養子に迎えたとは聞いていたが、月日を考えれば一人二人は子が居ても何らおかしくもない。
「不味い、どうする。見なかった事にしても良いのだが……」
苦悶である。
あの二人の子で無ければ人拐未遂事件が起きたと報告書を王都に回せば終わりである。
流民の増加に併せて衛兵の強化と人員増員は目下進めているのだ、いたちごっこだが再発の防止策を練れば当面は事足りる。
「ボストークの当主殿はジルを勘当したとは言って居られるが、相続権は生きている、未だ王都へ届け出されてはいないのだ。ならばやはり……」
貴族の子弟であり、暴虐の奴隷狩りと対抗する者が「狙われた」と考えるのは道理であり、例え的外れであったとしても、押さえて置かなければならない筋なのだ。
やはり領主としての義務、王国臣下としての責務を全うせねばならない、臣民を守る為に。
「んぬおぉぉぉーっ!」
両の手で頭を抱え叫びを上げる。
友としてはそっとしておきたい。
本心はそこなのだ。
せっかく堅苦しい場所から飛び出して、あいつは細やかながら幸せを得ている。
確かにそう見てとれた。
この報告次第ではそれを壊してしまう。
この手が壊してしまうのだ。
それこそ蒼天の幹部たるオズマ・インフィールド氏も現場に居たのだ、私が報告せずともきっと、隠密に済……まないな。
あの御仁は悪い意味で正直だ。
どうせバレる。
ならばやはり……
決意に満ちた目で上等な漉き紙の便箋に羽を走らせる。
そして蝋を炙り印で封をする。
それは東都の公文書としての正式な報告文書である。
男は全天に星の瞬く夜空を仰ぎ、祷りを捧げる。
東都チオン都督イアン・ユーゴは決断をしたのだ。
一通の書簡が彼の運命を変える。
そういう覚悟を以て認めたのだ。
「誰ぞある。急ぎ王都へ書簡を送る」




