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八話

鈴子は兄や桜花に言われた事について翌日になっても考えていた。そのおかげでよく眠れなかったが。

朝方になるとぼんやりとした頭で起き上がる。がたんと音がして周防が蔀戸を開けているらしい。

日の光が御帳台の中にまで差し込んできた。それに目を細めながら、鈴子は御帳台から出る。

襖障子を開けてみたら、既に女房達が鈴子の身支度をするための準備をしていた。彼女に気がつくと周防が小走りでやってくる。

「…まあ、姫様。おはようございます」

「おはよう。皆、もう起きていたのね」

「ええ。今日は何やら、宮様が参内なさるようです。なので、姫様もご一緒にどうかと仰せのようで」

宮が参内という言葉を聞いて鈴子は驚きのあまり、二の句が出ない。周防はそんな彼女を見ても動じずにお湯殿に行くように促した。仕方なく、付いていく鈴子だった。



お湯殿に半刻ほど入って身を清め、あがると正装の着付けを行った。これで三半刻くらいはかかる。

やっとの思いで鈴子はお化粧をすませて伊勢の君の先導で桜梅宮の御前にあがった。宮も綺麗に身支度をしたようで女房たちと語らっていたらしい。鈴子に気が付くと御座を用意させた。

「…あら、姫。あなたも綺麗にお支度をなさったのね。その山吹の襲、よくお似合いですよ」

上機嫌な様子で声をかけてくる。鈴子は手をついて礼を述べた。

「…ありがとうございます。宮様もご機嫌うるわしくおめでとうございます」

「…ほほっ。堅苦しい挨拶はしなくても構いませんよ。もっと、楽になさってくださいな」

「…はあ。では、そうさせていただきます」

それで良いですよと宮は笑ったのであった。



宮と少し話をした後で鈴子は車宿りに向かった。周防や右大臣家から付いてきた女房たちと同乗する。といっても、乗れる人数が限られているために三人までとなった。

鈴子は扇で顔を隠しながら後ろ側に乗り込んだ。他の女房たちや宮が既に乗っていたようですぐに牛車が動き出した。

「…姫様。今日の宮様ご一行は人数が多いらしいですよ。宮様付きの女房だけで四十人はいるとのことですから」

周防が小声で話しかけてきた。鈴子も苦笑いで答える。

「…そうらしいわね。なかなか、賑やかだと思ったら。そんなにいたの」

「ええ。先ほど、伊勢さんにきいたらそれくらいはいると教えてもらいました。後、従者や随身も合わせたら、六十人はいるかと思います」

鈴子は六十人と聞いてめまいがした。いくら何でも、多すぎるだろう。けど、元斎院である宮の身分や立場を考えれば、これくらいが妥当なのだろうが。

それでも、大人数だ。鈴子はほうとため息をついた。それを周防は見守っていた。



牛車がゆっくりと動き、夕暮れ近くに後宮に繋がる門の前に到着した。陰明門であり、宮は牛車をそのまま乗り入れさせる。だが、鈴子たちは勅許をくだされていないため、牛車からおりて直接、徒歩(かち)で向かう。門をくぐって右近衛府を通る。そこから後宮に入り、宮が居所にする梅壷まで歩いていった。

そこまで行く間、随身が警護をしてくれたので危険なことは起こらなかった。鈴子と周防たち四人は夕暮れ刻に梅壷にたどり着いた。ずっと、歩き続けた結果、鈴子は足が痛くなっていた。それでも、こらえて宮の御前にあがる。

御簾越しではあるものの宮も疲れぎみらしかった。鈴子は扇を口元に当てたままで手をついた。

「…遅れてしまい、申し訳ありません。宮様、ご気分はいかがでしょうか?」

控えめに尋ねてみたら、宮も頷きながら答える。

「…気分はまずまずですよ。でも、久方ぶりの宮中ですからね。何だか、気持ちの面で疲れた心地になりましたよ」

「わたくしも同じです。よく思い出したら、幼い頃に宮中へ参った事が何度かありました。それでも、疲れました」

「…姫も同じだったのね。まあ、今日は高貴な方々にはお会いせずに休んだ方が良いでしょう。姫はもうお局に移られてかまいませんよ」

宮が労りを込めて言う。鈴子はそれならと深々と頭を下げた。

「ありがとうございます。では、早速退がらせていただきますね」

「そうなさいな。姫、戸締まりはしっかりとね」

注意をされながらも鈴子は頷き、退出したのであった。




この日は何事もなく終わった。鈴子はお局にて唐衣を脱ぎ、裳を付けただけの状態でくつろいでいた。側には周防が控えている。

「…ふう。いろいろと忙しかったからどっと疲れが出た感じだわ。宮様もお疲れだったみたいだし」

「そうでございますね。宮様や他の女房たちも表情が冴えていなかったような感じがしました」

二人でそんなことを言いながら先ほど、伊勢の君が気を利かせて持ってきてくれた唐菓子をつまんだ。油で揚げた大陸からもたらされた菓子である。甘葛(あまずら)の汁がかけてあり、かなりの美味な食べ物だった。二人でちびちびと食べながらたわいもない話をする。

「…そういえば、わたくしに恋文を送ってきた殿方なのだけど。兄様に聞いたら、東宮様からの文だと言われたの。周防は知っていた?」

「…いいえ。私は存じ上げませんでした」

「それはそうよね。兄様が教えてくれたからよかったようなものの。どなたかわからなかったら途方に暮れていたところよ」

そうでございますねと周防が相づちを打つ。鈴子は甘葛の汁がたっぷりかかった菓子をぽりぽりとほおばった。

「姫様。もしや、お返事をしようとお考えですか?」

周防がぽつりと呟くようにきいてきた。それに気づいた鈴子だったがどう答えていいやら、迷ってしまう。

「…姫様。本当のところはどうなのですか?」

さらに周防は詰めよってきた。鈴子は目を泳がせながら答える。

「…ううんと。そうね、差出主が東宮様である以上はお返事をした方が無難かとは思うのよ。だって、そうしないと失礼にあたるじゃない」

「確かにその通りではありますけど。でも、姫様がそれをなさったら、桜梅の宮様のお邸にはいられなくなりますよ。吉勝殿の講義も受ける事はできなくなりますし。即入内という事になりかねません」

即入内という言葉を聞いて鈴子は固まった。まさか、自分がお返事をしただけでそんな大事になってしまうとは。

そんな事になったら、今まで自分が築き上げてきたものが台無しだ。しかも、協力してくれていた宮や父大臣、吉勝に顔向けできなくなる。

最悪な将来を想像してしまい、鈴子は青ざめてしまう。自分は妖しが見えるから、狙われやすい。だとしたら、誰が守ってくれるのか。そんな不安が芽生えてくる。

いきなり、黙り込んでしまった主人を周防は心配そうに覗きこんだ。

「…姫様?」

呼びかけると鈴子はのろのろと顔を上げた。が、その顔色はまだ青白いままである。

「…周防。わたくし、どうすればいいのかしら。入内だけはどうしても、避けなければいけないし。まず、宮様と相談して決めないといけないわよね」

「……そうでございますね。宮様にはご相談した方が良いでしょうね。けど、一回は父君様にもご連絡なさってはいかがかと思います」

「そうね。父上にも文を送ってみるわ。そして、今後の事で相談してみる」

鈴子は少しは元気が戻ったのか、顔の表情は先ほどよりも和らいでいた。周防はそれに安堵する。

「では、もうお休みになりますか。夜も更けてきた事ですし」

「…わかったわ。じゃあ、寝所の準備を」

「かしこまりました。少し、お待ちください」

周防は軽く礼をして、局の塗籠に入っていった。鈴子用の寝所を準備するためである。

残った唐菓子に手を伸ばしてまた、ほおばったのであった。




周防との話も終えて鈴子は塗籠に入って、寝具にくるまった。周防は局の方で寝ている。宿直を兼ねて鈴子と襖障子を隔てて同じ部屋にいるのだ。

(…東宮様にはお会いしないように気をつけないと。もし、宮様をお訪ねになったらどうしよう)

また、不安感がやってきて眠気が来ない。これでは明日に堪える。それではいけないとわかっているのだが。

なかなか、落ち着かないでいた。鈴子は仕方がないと思いながらも起き上がる。寝具から出て襖障子に向かう。そうっと細めに開けて周防が起きていないか確かめる。

大丈夫そうだと息をつくと襖障子を静かに開けた。単衣袴姿で出るのは、はしたない事ではあるのだが。鈴子は局の中を音を立てないように歩いた。柔らかな寝巻きなので音はあまりしない。

引き戸の側まで行くと周防に気づかれないように外へ出る。胸中で謝りながらも簀子縁に下りた。

引き戸を閉めてひたひたと素足で歩いた。夜中の宮中は不気味なほどに静まりかえっている。

局から少し離れた所まで来ると階があったので鈴子はそこを三段ほどおりた。ゆっくりとそこに座り込むと細い三日月が空に浮かんでいた。

まだ、卯月の下旬であるために肌寒い。昼間は汗ばむほどに暑いのに夜は外気がひんやりとしている。

手を擦り合わせながらぼんやりと月を眺めた。自分を優しく照らしてくれる月は昔から好きだった。

けど、今は誰かに見つからないかと冷や冷やものだ。周防に物凄く怒られるのは確かだろう。

そんな事を考えていたら、不意に人の気配がすると樹木の精の囁きが聞こえた。鈴子は慌てて胸元を掻き合わせた。

左方向の渡殿から背の高い人影が静かにこちらへやってくる。香の薫りが芳しく辺りに漂っていて鈴子はすぐにこれが荷葉だと気づいた。自分の焚きしめたものものよりも沈の薫りが強い。

誰だろうかと目を凝らした。その人物は鈴子のすぐ近くまでやってきた。口元を蝙蝠で隠している。

「…おや。これは、また奇遇な。あなたは月からいらした天女か?」

低い声が鈴子に問うてきた。どう答えたものかと鈴子は考えあぐねてしまう。

さすがに自分は迂闊過ぎた。何で、局を出てしまったのか。今更ながらに後悔する。

「…わ、わたくしはそのよう者ではありません。生きた人です」

「ほう。面白い事をおっしゃる。では、あなたが人だというなら。何故、このような夜中に薄着でいられるのか」

「…あの。どうしても、眠れなくて。それで月を眺めていました」

言い訳がましく答えたが向こうはさして、気にしていないらしい。蝙蝠を下ろすとぱちりと閉じた。

月明かりであらわになった顔立ちを見て鈴子は驚いてしまう。その人は彼女の知る人だったからだ。

「…どうなさった、姫君?」

「……あなたは。楓の君」

その名を呼ぶと人物こと公達は驚いて目を見張る。そして、鈴子のすぐ後ろにまでやってきたのだ。

「私のその名を知っているという事は。もしや、薄紅の姫か?」

聞かれても鈴子は涙ぐむだけだ。公達は焦れたのか階を下りて鈴子の目の前まで近づいた。

「…本当のところはどうなのだ。あなたは何者だ」

「……わたくしは。桜梅の宮様に付いてこちらへ参った者です。ただ、一つ申し上げるとするなら。薄紅という呼び名はわたくしのものではあります」

それを聞いて公達はさらに驚いたらしかった。そして、階を上がると鈴子にこう言ってきた。

「わかった。姫、ここでは寒かろうと思います。私の部屋へ来なさい」

黙って頷き、公達の後へ続いた。公達は着ていた直衣を脱ぎ、下に着ている下襲の一枚を取り出した。

それをふわりと鈴子に羽織らせた。

「これでいいでしょう。その格好のままだとまずいのでね」

鈴子は顔を赤らめながらも小さく礼を言った。公達は微笑みながら、彼女の冷えきった手を握る。

そして、二人は歩き出した。




しばらくして、鈴子は見知らぬ殿舎へと連れてこられた。公達はここが梨壷だと教えてくれる。

それを聞いて彼が恋文の差出主だとようやく気づいた。しかも、梨壷といったら東宮の居所ではないか。

どうして、そんな人物だとも気づかずにふらふらと付いてきたのだろう。自分の馬鹿さ加減には呆れてしまいそうだ。

公達こと東宮は一人で考え込む鈴子に話掛けてきた。

「…薄紅の姫。どうなされた?」

「申し訳ありません。少し、ぼうとしてしまって。やはり、梅壷に戻ってもよろしいでしょうか。東宮様」

「私の事については気づいていたようだね。それよりも文はお読みになってくださったか?」

痛いところを突かれて鈴子は顔をしかめた。

「……読みましたわ。けど、わたくしはまだ修行中の身。お返事を差し上げるのは憚られまして」

そこまで言うと東宮はふむと唸りながら、鈴子を見据えた。


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