闇に光を送る
トイレに閉じ込められた。
どうしたって開かない。引いても押しても体当たりしても、スライドさせようとしても開かない。
お父さんとお母さんは昨日から三泊四日の時期はずれな沖縄旅行に出かけている。携帯はリビング。
明後日まで、よほどの奇跡が起きない限りココに缶詰だ。
床に横になる。でこぼこのタイルが冷たい。たくさんのちぢれ毛に囲まれながら眠りにつく。
起きる。ほっぺたにでこぼこの寝跡がついていた。
時間がわからない。
土日で良かった。無断欠勤なんてしたらいけない。課長の説教は長い。
手元にあるのは新聞紙だけ、暇潰しの道具はこれだけ。丹念に読む。政治面スポーツ面おくやみ僕の将来の夢。…‥
うちでは見れないBSの番組もチェックする。BSのキャラクターはリスである。新発見がたくさんだ。
…‥テレビの番組など、新しくなきゃ意味がない情報だ。
…‥むなしいな。代わりに政治面を暗記できるほどに読み込んで、自分の意見を一人口述する。
出会いと交流に溢れた世界はなんて素晴らしいんだろう。
ちぢれ毛の数をかぞえる。徹底的にかぞえる。裸になると、やはり服にくっついていた。二本。全部で二十一本。
むきだしになった壁の木目の年輪をかぞえる。壁の板は二十四枚。二十四枚の平均が十二年。
でも多分、板になってない部分にもっとある。
むなしい。全部を知ることはできないのだ。
トイレットペーパーの芯を、ペーパーを崩さないよう抜き取る試みが成功する。気分よくなるものだ。
お腹すいた。水で紛らわす。大量に水の無駄づかいをしてしまった。
寂しいのにも耐えられなくなる。寝る。
起きる。
夢を見た。
…‥あまり思い出せない。
腹が減り過ぎて恐ろしかったから、夢の内容を一生懸命思い出そうと努める。
ここで思い出せた断片的な話はこうだ。
ライオンがシマウマを追いかける。元カレが楠田英里子と歩いている。男の人が一人と女の人が二人いて、女の人二人がタバコを吸っている。
女の人がタバコを吸ってる光景は、女の人がタバコを吸うのは不良だという私の偏見を示している。
元カレと楠田英里子との組み合わせは、多分元カレが身長低かったから。二人の後ろ姿は親子のようだった。二人の影は夕焼けに長く伸びていた。
お腹すいた。
…怖い。生きてるうちに出られるのか。ちゃんと二人は帰ってくるのか。
こんな状況じゃなかったら、こっちが二人の心配をしているのだろう。航空会社に電話して…
…暗くなる。電気のスイッチはドアの外。怖さは倍増してしまう。
寝ようと努める。寝る。
夢の中では、私はいろんなところを探検している。どこに行ったかは覚えてない。
起きる。
暗い。また寝ようとしたけれど寝付けない。 ひたすら目をつぶってやりすごす。やりすごせない。怖い。気ィ狂いそう。
羊を四百四十までかぞえたのは覚えてる。
『……』
『……!?』
『…?』
人の声がする…
天国じゃなかったらいいな…
ドン、ドン!!
「由佳里!!大丈夫ね!?」
倒れたつっぱり棒がちょうどいい具合にドアにひっかかっていたらしい。
お母さんからは、福岡でご飯食べて帰ってくる、とのメールがきていた。
「まさかあんた、トイレからでられんくなってるなんて思わんかったからさぁ…ごめんねぇ」
お母さんは苦しそうにそう言った。もし逆の立場だったら笑い転げていただろうに。
『トイレに三日も籠ってたの!!』
って。お母さんは真面目な人だ。
「あんた、カップうどん作りよったやろが」
伸びきって、もはや何が入っていたのかわからない状態の肉うどん。ちなみにテレビもつけっぱなしだったみたいだ。久しぶり登坂さん!!
お父さんがボソリと言った。
「お前…仕事は?」
時計を見ると、八時半だった。
ノーメイクで行けば間に合う!急いでスーツを取り出していると
「あんた、よかやんね今日くらい…」
「…‥」
「飯も喰っとらんやろが」
「…午後から行こっかな」
「それがよか」
コタツに入りサーダーアンダギーを貪りながら、そばができるのを待つ。美味い。このお菓子ほんと美味い。
食べながら携帯チェック…
久しく連絡してなかった旧友から、着信がたくさんあった。その数、二十一件。なぜに……
発信ボタン…押す。ピッポッパッポ、ピッポ。
「そうそ、あんた、高校んときにちょくちょく遊びに来よった…なんけ、なんとか本…、ほら背の低かった」
「橋本?」
「そうそ」
トゥルルルルル…
「あそこの家、誰か亡くなったみたいよ」
トゥルルルルル…
トゥルルルルル…
…旧友というのは、平井くんという人で、橋本と私を引き合わせてくれた人だ。
まさか、と言いたくなるようなことは、実はたくさん起きるのかもしれない。
夢の中で見た、親子のような彼と楠田、二人の姿が蘇る。夕焼けに映し出された影は、黒く、長く伸びて…‥
木枯らしに、裸の木々が揺れている。
受付の人に会釈したのち、平井くんが私に気付いて寄ってくる。
「…岡田、来れたんだね」
「有休とれたから…」
トイレに閉じ込められたせいで、なんて言えない。
浅黒い肌は黒いスーツによく似合う。今も昔も、平井くんはスポーツ少年だ。
少しすると、見知った顔の旧友もちらほら焼香を終え外に現れ始める。その何人かで集まって雑談を交わした。
黒縁の写真は、学生服に身を包んだ大学受験用のもので、その場にいた皆の思い出が否応なく引き出されていくのだ。
学生服が似合わない話から始まって、口癖や得意不得意までその話は及んだ。
「運動音痴なのに、なんで車なんか運転したんだ」
そう誰かが言った。後で聞いた話だが、向かってきたトラックと橋本の車との距離は、大体のドライバーなら避けるに十分の長さだったそうだ。平井くんは眉をしかめて苦しそうに笑った。小雨が降り始めた。
式の後の小宴は断っておこう、ということにしていたが、橋本のお母さんは私たち旧友の集まりを誘った。私は橋本の大叔父だという男性と隣り合わせになり、その話に付き合わされた。
「あのたっちゃんに、まさか恋人がおったなんてなぁ…」
男性は大きな体と少ない猫毛を揺らして、ガッハッハと笑った。
「いやぁ、掛け値なしに優しい奴だが…なにせ優柔不断で頼りないとこもあったからなぁ」
確かに、と思い、はにかんで笑ってしまう。
なにか付き合っていたころの思い出はないのか、と聞かれた。私が披露したのは、初めて二人で出かけたとき食事や行き先などの決定を丸投げされたという
「優柔不断」なエピソードだった。
男性はボリボリ頬を掻いて、美味い店や水族館・動物園の場所を訊かれたこともあったな、と言った。時期から考えて、どうもその初デート直後のことらしかった。
「馬鹿なやっちゃなぁ…」
「ええ本当に」
と、二人で顔を見合わせて笑った。
男性がトイレに立ったとき、ふいに涙がわき出てきた。
こっそりおしぼりだけ拝借して外に出た。
木枯らし、小雨。その中を、平井君がやってくる。垂れ流してた鼻水を急いで拭き取る。
「傘も持たんで…」
と、彼はビニール傘をこっちに差し出してくれる。
沈黙は軽い雨の音に包まれる。私は静かに泣く。
なんの変哲もない日常。世界からの断絶は、ホントにいきなりでびっくりだ。
橋本はもう私たちに会えない。独りだ。
今日までのトイレ生活を思い出す。これからの橋本の孤独は三日なんてもんじゃないような気がする。
救いのない闇。永遠に伸びる影。
なんだかもう、とっても可哀相なんだ…
涙が止まり席に戻ると、橋本の大叔父はビールを止め焼酎を飲んでいた。彼は私を見留めると、気まずそうにポリポリ頬を掻いた。
私は赤く腫れぼったい目でニコリと笑って見せる。横に座りながら話しかける。
「今日まで、トイレに閉じ込められてたんですよ」
「へ……」
「三日間、ずっと」
「ほぉーぅ……」
彼は私を見ずに、目の前のおしんこに向かって声を上げた。おかしくてもさっきまで泣いていた女の手前、茶化してはいけないと思っているのかもしれない。
「つっぱり棒をドアの近くに置いちゃダメですね。うん、それはやめてください」
「ほぅ……」
「結構辛いもんでしたよ、死ぬかと思った」
男性はちらりと私を見た。
「……じゃあ、注意しておくよ」
はい、と答えたら、
「ほれ、いっぱい食べろ」
と、おしんこを勧められた。
それから、たくさん橋本のことを話した。そうしているうちに、橋本の好きなところがどんどん増えていった。彼の死を素直に惜しむとともに、彼をますます好きになっていく。
こういうふうにして、橋本のいる闇のところに光を届けているのかもしれない。
今日、トイレのドアが開いて見た両親の顔。大丈夫やったね、という言葉に私の心が暖まったこと。
橋本の大叔父が目頭を押さえる。遺影の中、学ラン姿の橋本が、その姿を見ている。
久しぶりの投稿でした。
正直、トイレのエピソードはどうしようかと思ったんですが…
読んでいただいてありがとうございました。感想寄せていただけると嬉しいです。