息吹
どうやら鹿の後ろ足は折れているらしい。不自然に曲がった足で立とうともがいていたが蹄が土をえぐるだけだった。これが先ほどの音の発生源だろう。
積もった土は真新しく、岸壁からはぽろぽろと土が溢れてくる。
洞窟で聞いた音はきっと崖ぐずれによるものだったのだ。そして哀れにもこの鹿はそれに巻き込まれてしまったのだ。
そう理解したところでどうすればいいのだろうと疑問を覚えた。
過酷な自然の中でこの足では生き残れまい。哀れな鹿に同情するならば手当てをしてやるべきなのだろう。
しかし、明日の糧さえ事欠くこの身がそのようなことをする事は無理だった。
ならば取るべき選択肢は一つなのだろう。
【君は本当に幸運だね、洋介。あまり苦しませても可哀想だ。さっさと楽にしてあげよう】
そう、殺して食らうことだ。
鹿に手を伸ばし、触れた。
鹿はその瞬間に身動ぎをやめ、こちら見つめた。
手には暖かさと深い息遣いを感じた。
長い、長い時間が経った気がした。
そのまま、動けずにいると何時しか呼吸が同期した。きっと拍動さえも同じになっている。
その間アノンは何も言わずにいてくれた。
「…うん」
ゆっくりと錆の浮いた剣を振り上げた。
風が唸った。
骨と皮だけの細腕が風を生み出した。
そして剣が首の肉に食い込み、食い破り、胴から頭を引きちぎった。
鹿の頭は音もなく宙を舞い、粘つく音を立てて地面に落ちた。それを追ってどうも土くれに倒れた。
肉が露わとなった首は血飛沫の花を咲かせた。
それを眺めて、無残な鹿を抱き締めた。
頬を濡らす血と腕の中にある肉の温かさが消えるまで。