兎
アノンの知識だけはあるという言葉は本当だった。森の植物で食べられるもの、その食べ方を教えてくれた。火など熾せないので皮をむくか、種をとるかとかだけだが。
あまりにも腹が減っていたせいで舌が馬鹿になっていたのか、何を食べても大して味を感じなかった。もしかしたら元々大して味なんてなかったのかもしれないが、酷い飢餓感を忘れられるならなんでもよかった。
空腹が少し紛れると自分の身なりを直視する事が出来た。薄いシャツとズボンが骨の浮き出てた身体を辛うじて覆っていた。服はズタズタで着ていなければ服とはわからない程だった。一度脱いでしまえば正しく着るのに難儀するだろう。
ズボンにはベルトが通されて、そのベルトには剣が収まった鞘が付いていた。剣を引き抜いてみると赤錆に塗れた刃が顔を出した。あまりにも錆が酷く、まともな切れ味は期待できない。
【剣としては役立たずだろうけど、持っておこう。何かの手がかりにはなるかもしれない】
アノンに言われるまでもない。いくら小さかろうと失った記憶に繋がる可能性を摘むわけにはいかない。
アノンは生きるだけならこの森で暮らすことも悪くはないと言った。でも記憶を失ったままそれさえも忘れることなんてできない。
今の自分には何もない。失ったものを取り戻すことでもしなければ、きっと御影洋介ではなくなるだろう。
唯一覚えていた名前さえも意味をなくしてしまうのだ。それだけは認めてはならない気がした。
そう思ってアノンに記憶を探すことを相談したら、彼はそうだねと短く賛意を示しただけだった。
【あそこの茂みに注意を向けてくれないかい?】
一頻り剣を眺めて鞘に戻そうとするとアノンが言った。
「あそこって?」
【そのまま視線をまっすぐにしたまま少し下げてみてくれ】
言われた通りにして、目を凝らすと五十歩ほど向こうの草の隙間から茶色の毛玉が見え隠れしていた。どうやら兎らしい。
【声を出してくれるなよ。この距離だ、剣を投げれば殺せるんじゃないかな】
体に変に力が入る。
彼は気軽に言ってのけた。
【キミはなかなか幸運だね。記念にアレの足をお守りにでもするかい?】
彼なりの冗談なのだろうがどこを笑えばいいのかわからなかった。
彼はすでにあの兎を殺すものと決めているらしかった。
何もできないでいるとやがてこちらに気付いたのか、兎がチラリと視線をやると向こうに走っていった。そしてすぐに叢を揺らす音も途絶える。
「アノン、ごめん」
少しの静寂に耐えきれなくなってそう言った。
【謝る事ではないよ。キミは悪い事をしたとは思ってはいないのだろう】
「君には悪い事をしたと思ってるよ」
そっぽを向こうにも何処を見れば分からず、空を見上げた。
【キミは肉を食べなければ、命を奪わねばならない。それだけは覚悟をしておいてくれよ】
その言葉をただ噛みしめるだけだった。