彼
この恐ろしげな、死体のような姿をした男は何なのだろう。
水面に映るその男の目は不安そうにこちらを見つめていた。
彼に記憶の有無を問われてから互いに何も言わず、ただ風の音だけを聞いていた。森の騒めく音はこの空洞の身体の内で響いている様に思えた。
彼の声はこの身体が空のために響くのだろうか。
「君が何かしたのか?」
何の逆らいもなく、その言葉は口から滑りでた。彼は自分の一部だと言っていた。その真意を量ることは出来ないが、額面通りに受け止めれば、彼が全く無関係であることはないはずだ。そして、その疑いの言葉は請願でもあった。そうあってくれ、と願わずにはいられなかった。
この今にも折れてしまいそうな枯れ枝のような身体では恨みでもなんでも強い意志がなければきっと生きていくことは難しいだろう。それを悟り、縋るように問いかけた。
【残念だけれど、その問いに対する答えは持ち合わせてはいないよ。ボクも君が目覚めるまでの記憶がないんだ】
彼は申し訳なさそうにそう言った。しかし彼は元気づけるように声を弾ませ、こう続けた。
【記憶はないけれど、何も不安に思うことはないよ。なにせボクには知識だけはあるようだし、君の身体の状態は君よりも把握できる。ボクが手伝えば、こと生きるだけならきっとなんとでもなるよ】
そう彼は嘯くが得体のしれないものなど信用する気にはなれなかった。
「そんなことを言うのなら、いい加減姿を見せてくれないか?」
そう言うと彼は呆れたように溜め息をついたように思えた。
【なんだい、なんだい。君はボクの言葉のひとひらだって理解してくれてはいなかったのかい】
彼の声は不機嫌さを存分に含ませていたが、それは憤りよりも悲しみを帯びていた。
【君には不誠実なことをするまいとしているというのに、それを理解してくれないならそれもいいだろうが、ボクにだって考えがある】
【ボクは君の人格の一つとでも思えばいい。君とは君の頭の中で対話しているだけだよ】
彼の言うことは突飛ではあるもののすんなりと受け入れられた。この不思議と頭に響く声はなるほど、頭の中だけで話すならこうなるだろう。何せ自分が頭で考えるのと大差ないのだ。
「最初からそう言ってくれればよかったのに」
なんなら幻聴と言ってくれたってよかった。
【誠実であろうとする者に不義理な真似をさせるなんてとんでもない人だな、君は…】
「どこが誠実なんだか僕にはわからなかったよ。ところで君をなんて呼べばいい?まさかもう一人の僕なんて言わないよね?」
冗談っぽくそう言うと彼は殊更に残念がっていた。
【ボクは君の名前を覚えているのに君はボクの名前も忘れてしまったのかい?】
君は僕なんだからそう恩着せがましく言うな、なんて言えなかった。
彼は本当に残念そうだったのだ。記憶を失ったのに彼の何がそうさせるのかはわからなかったが、それを追求しようとか反駁しようとかなんてことを考えることさえできなかった。
【君は君だけのことさえ考えていればいいのは確かだけれど、これからは友人の言うことに耳を貸しておくれよ】
この話は終わりだとでも言いたげだった。そんな彼を問い質す力も勇気もなかった。
【さて、ボクの自己紹介といこう。何せボクを認識できるのは君だけなんだ、心して聞いておくれ。ボクはアノン。御影洋介を支えることを目的とした知的生命体だ】
彼は茶目っ気たっぷりそう言った。
思わず、失笑してしまう。
「なんだ知的生命体って」
【自己紹介を聞いて笑う奴があるか。最初に友人だって言ったじゃないか。あれ以外ならどうしたって変になってしまうよ】
彼ーアノンはそう言うが全く咎める気は感じられなかった。
急に腹の虫が大きな声で鳴いた。それで酷く空腹だったことを思い出した。
そして記憶を失い不安になっていたことがアノンと話していることでいくらか和らいでいたことを思い知った。
アノンは得体のしれない幻聴だが、どうやらえらく親身な奴だった。それが彼に対する敵愾心を薄れさせてくれた。