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評価値をめぐる二、三の小さなこと

作者: 森林樹木
掲載日:2026/10/12

「あ」


 ソファーに座った彼が携帯を見ながら小さな声をあげた。


「何?」

「名人が歩の頭に角を打った」

「将棋?」


 彼は頷く。


「将棋、分かるの?」


 彼は首を横に振る。


「分からないのに面白いの?」

「評価値が一手ごとに変わるのが面白いよ。ほら」


 彼は私に盤面を見せた。

 先手が挑戦者。

 今、92手目を名人が指したところ。

 画面の上のバーは黄色が圧倒的。

 90%先手勝勢と表示されていた。


『五十秒、一、二……」


 秒読みが始まった。

 五十九秒まで粘って、挑戦者が歩を進め、角を取った。


「ああ」


 私と、彼は同時に声を上げた。

 バーの色が真っ赤に変化した。


「逆転したわ」

「28手詰だって」


 そこから名人はAIの最善手通りに指し進めた。

 数手後に 挑戦者が頭を抱えた。

 そして、詰みまで残り数手を残して投了した。


「将棋は分からないけれど、勝負は面白いだろう」

「そうね」


 画面の中では感想戦が始まっていた。

 棋士たちは笑顔で駒を高速でやりとりしている。

 真剣勝負の後に、あんな表情ができるのが不思議だった。

 彼の腕の中でその様子を見ていた私は尋ねる。


「ねえ、奥さんとはいつ別れるの」


 彼は答えない。

 視線が空中を漂っている。


「どこかで決着をつけないといけないのよ」

「わかってるよ」


 声から苛ついているのが伝わってくる。

 彼が立ち上がる。


「逃げないでよ」

「トイレだよ」


 視界の中の評価値バーがぐんと下がった。

 彼には言っていないけれど、私には評価値が見える。


 オラクルが提示する最善手は……。


 私は、長考に沈んだ。

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