評価値をめぐる二、三の小さなこと
「あ」
ソファーに座った彼が携帯を見ながら小さな声をあげた。
「何?」
「名人が歩の頭に角を打った」
「将棋?」
彼は頷く。
「将棋、分かるの?」
彼は首を横に振る。
「分からないのに面白いの?」
「評価値が一手ごとに変わるのが面白いよ。ほら」
彼は私に盤面を見せた。
先手が挑戦者。
今、92手目を名人が指したところ。
画面の上のバーは黄色が圧倒的。
90%先手勝勢と表示されていた。
『五十秒、一、二……」
秒読みが始まった。
五十九秒まで粘って、挑戦者が歩を進め、角を取った。
「ああ」
私と、彼は同時に声を上げた。
バーの色が真っ赤に変化した。
「逆転したわ」
「28手詰だって」
そこから名人はAIの最善手通りに指し進めた。
数手後に 挑戦者が頭を抱えた。
そして、詰みまで残り数手を残して投了した。
「将棋は分からないけれど、勝負は面白いだろう」
「そうね」
画面の中では感想戦が始まっていた。
棋士たちは笑顔で駒を高速でやりとりしている。
真剣勝負の後に、あんな表情ができるのが不思議だった。
彼の腕の中でその様子を見ていた私は尋ねる。
「ねえ、奥さんとはいつ別れるの」
彼は答えない。
視線が空中を漂っている。
「どこかで決着をつけないといけないのよ」
「わかってるよ」
声から苛ついているのが伝わってくる。
彼が立ち上がる。
「逃げないでよ」
「トイレだよ」
視界の中の評価値バーがぐんと下がった。
彼には言っていないけれど、私には評価値が見える。
オラクルが提示する最善手は……。
私は、長考に沈んだ。




