『至高の美声(おと)で口説かないで! ~声フェチ令嬢は幼馴染の低音ウィスパーに抗えない~』
男爵令嬢エレノア・ミルズには、社交界の誰にも明かせない業の深い秘密があった。
彼女はいわゆる「重度の声フェチ」である。
顔の良し悪しや家柄、資産の多寡には一切ときめかない。だが、喉仏の震え、息の抜け方、骨伝導を揺るがす倍音成分の配合ぐあいには、魂が蕩けて卒倒しそうになるのだ。
そんなエレノアの前に現れたのが、幼馴染であり近衛騎士のセシルだった。
「エレノア、またそんなところで本を読んでいるのか。風邪を引くぞ」
耳朶をくすぐる、極上のベルベットのような響き。
低音でありながら湿り気を帯び、母音の終わり際にかすかな吐息が混ざる奇跡の周波数。もし前世というものがあるなら、彼は国を傾けた竪琴の名手か何かに違いない。
(ああ、今日も素晴らしい……! 中音域の抜け感が完璧すぎる。三代先まで語り継ぎたい倍音……!)
エレノアは扇で口元を隠し、内心でスタンディングオベーションを捧げた。
二人の関係は、世間一般でいうところの「友達以上恋人未満」。
週に三日はこうして男爵家の温室で茶をしばき、互いの近況を語り合う。セシルはエレノアに気があるような素振りを時折見せるが、エレノアは彼の発する「音響」に酔いしれるあまり、いつも会話の中身が半分ほど頭に入っていない。
「……それでさ、明日の夜なんだが」
セシルがカップをソーサーに戻す。カチャリという硬質な陶器の音すら、彼の喉から漏れる小さな息遣いの前には前座にすぎない。
「空いてるか? 王立劇場の特等席が取れたんだ。新作のオペラを君と観に行きたくてね」
真剣な眼差し。わずかに赤らむ耳朶。男爵令嬢に向けられる、完璧なエスコートの誘いだ。
しかし、エレノアの脳内処理系は完全にバグを起こしていた。
(待って。今の『空いてるか?』の語尾の掠れ方、何? チェロの最高音みたいな艶があった。もう一回言ってほしい。録音結晶石(魔道具)をドレスの袖に仕込んでこなかった自分を殴り倒したい)
「エレノア?」
「あ、ええ。オペラね。とても素敵だわ」
「そうか! 喜んでくれてよかった」
セシルがほっとしたように目を細め、胸の前で軽く手を握りしめる。
その無垢な笑顔は確かに美男子のそれなのだが、エレノアにとっての最重要事項はそこではない。
「セシル、あのね」
「うん?」
「もう一度だけ、さっきの『空いてるか?』を言ってくれないかしら」
「……は?」
「できれば、少し小首を傾げて、語尾の息を多めに吐き出しながら。『あ』と『え』の中間のような曖昧なニュアンスで」
セシルの端正な顔が、じわじわと引き攣っていく。
「き、君は何の注文をしているんだ……? 劇の稽古じゃないんだぞ」
「いいから、頼むわ! 今日一日の活力がそれにかかっているのよ。あなたの声帯は我が国の至宝なんだから、たまには私設博物館館長の要望に応えなさい!」
「博物館館長ってなんだよ!?」
セシルは頭を抱えた。
彼は知っている。エレノアが自分の容姿や騎士としての地位ではなく、なぜか「喉」ばかり熱心に見つめてくることを。そして、自分が真面目に口説こうとすればするほど、彼女がうっとりと耳をそばだてて恍惚の表情を浮かべることを。
男としてのプライドが音を立てて軋むのを感じながらも、セシルはため息をついた。その深いため息すら、エレノアには「上質な管楽器の調律音」に聞こえているのがまた腹立たしい。
「……まったく、君ってやつは」
セシルは椅子から立ち上がり、エレノアの座るソファの前へと歩み寄った。
影が落ちる。エレノアが見上げると、セシルは普段の柔らかな表情を消し、すっと目を細めていた。
(おや……?)
セシルはエレノアの耳元へと顔を寄せ、微熱を帯びた声をごく低く落とした。
それは温室のガラスをかすかに震わせるほどに深く、濃密な囁きだった。
「……じゃあ、言う通りにしてやるよ。明日の夜、俺のために空けておいてくれ。――エレノア」
名前を呼ぶ唇が、エレノアの髪をかすめる。
瞬間。
エレノアの脳内で、全オーケストラが一斉にフォルテシモを奏でた。
頭頂部から爪先まで電撃が駆け抜け、心臓が跳ね上がり、呼吸の仕方を忘れる。
「っ……!!!」
顔を真っ赤にしてソファにへたり込むエレノアを見て、セシルは満足げに、そして少し意地悪そうに口端を吊り上げた。
「どうだ? 注文通りの声だったか?」
「あ、貴方……っ! それは……反則、です……! 指向性を持たせた低音域の近接放射は、心臓麻痺を引き起こす危険性があると法で規制されるべきよ……!」
胸元を押さえ、ぜえぜえと息を乱すエレノア。
セシルはそんな彼女を見下ろしながら、呆れたように、けれどどこか嬉しそうに笑った。
「声の感想しか出ないのかよ。……まあいいさ。君が俺の声にしか興味がなくても、俺の誘いを断れない理由がそれなら、いくらでも使ってやる」
「ひっ……」
「明日、迎えに行くからな。耳を綺麗にして待ってろよ」
そう言い残し、セシルは軽やかな足取りで温室を出ていった。
残されたエレノアは、火照った両頬を手で覆いながら、へたり込んだまま呟く。
「……あんな破壊力のある音を出されたら、声フェチじゃなくても恋に落ちてしまうじゃないの、バカ……」
友達以上、恋人未満。
だが、その距離がゼロになるのは、どうやらエレノアの鼓膜の耐久力の問題だけのようだった。




