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『至高の美声(おと)で口説かないで! ~声フェチ令嬢は幼馴染の低音ウィスパーに抗えない~』

掲載日:2026/10/03

男爵令嬢エレノア・ミルズには、社交界の誰にも明かせない業(ごう)の深い秘密があった。


彼女はいわゆる「重度の声フェチ」である。


顔の良し悪しや家柄、資産の多寡には一切ときめかない。だが、喉仏の震え、息の抜け方、骨伝導を揺るがす倍音成分の配合ぐあいには、魂が蕩けて卒倒しそうになるのだ。


そんなエレノアの前に現れたのが、幼馴染であり近衛騎士のセシルだった。


「エレノア、またそんなところで本を読んでいるのか。風邪を引くぞ」


耳朶をくすぐる、極上のベルベットのような響き。

低音でありながら湿り気を帯び、母音の終わり際にかすかな吐息が混ざる奇跡の周波数。もし前世というものがあるなら、彼は国を傾けた竪琴の名手か何かに違いない。


(ああ、今日も素晴らしい……! 中音域の抜け感が完璧すぎる。三代先まで語り継ぎたい倍音……!)


エレノアは扇で口元を隠し、内心でスタンディングオベーションを捧げた。


二人の関係は、世間一般でいうところの「友達以上恋人未満」。

週に三日はこうして男爵家の温室で茶をしばき、互いの近況を語り合う。セシルはエレノアに気があるような素振りを時折見せるが、エレノアは彼の発する「音響」に酔いしれるあまり、いつも会話の中身が半分ほど頭に入っていない。


「……それでさ、明日の夜なんだが」


セシルがカップをソーサーに戻す。カチャリという硬質な陶器の音すら、彼の喉から漏れる小さな息遣いの前には前座にすぎない。


「空いてるか? 王立劇場の特等席が取れたんだ。新作のオペラを君と観に行きたくてね」


真剣な眼差し。わずかに赤らむ耳朶。男爵令嬢に向けられる、完璧なエスコートの誘いだ。

しかし、エレノアの脳内処理系は完全にバグを起こしていた。


(待って。今の『空いてるか?』の語尾の掠れ方、何? チェロの最高音みたいな艶があった。もう一回言ってほしい。録音結晶石(魔道具)をドレスの袖に仕込んでこなかった自分を殴り倒したい)


「エレノア?」


「あ、ええ。オペラね。とても素敵だわ」


「そうか! 喜んでくれてよかった」


セシルがほっとしたように目を細め、胸の前で軽く手を握りしめる。

その無垢な笑顔は確かに美男子のそれなのだが、エレノアにとっての最重要事項はそこではない。


「セシル、あのね」


「うん?」


「もう一度だけ、さっきの『空いてるか?』を言ってくれないかしら」


「……は?」


「できれば、少し小首を傾げて、語尾の息を多めに吐き出しながら。『あ』と『え』の中間のような曖昧なニュアンスで」


セシルの端正な顔が、じわじわと引き攣っていく。


「き、君は何の注文をしているんだ……? 劇の稽古じゃないんだぞ」


「いいから、頼むわ! 今日一日の活力がそれにかかっているのよ。あなたの声帯は我が国の至宝なんだから、たまには私設博物館館長(わたし)の要望に応えなさい!」


「博物館館長ってなんだよ!?」


セシルは頭を抱えた。

彼は知っている。エレノアが自分の容姿や騎士としての地位ではなく、なぜか「喉」ばかり熱心に見つめてくることを。そして、自分が真面目に口説こうとすればするほど、彼女がうっとりと耳をそばだてて恍惚の表情を浮かべることを。


男としてのプライドが音を立てて軋むのを感じながらも、セシルはため息をついた。その深いため息すら、エレノアには「上質な管楽器の調律音」に聞こえているのがまた腹立たしい。


「……まったく、君ってやつは」


セシルは椅子から立ち上がり、エレノアの座るソファの前へと歩み寄った。

影が落ちる。エレノアが見上げると、セシルは普段の柔らかな表情を消し、すっと目を細めていた。


(おや……?)


セシルはエレノアの耳元へと顔を寄せ、微熱を帯びた声をごく低く落とした。

それは温室のガラスをかすかに震わせるほどに深く、濃密な囁きだった。


「……じゃあ、言う通りにしてやるよ。明日の夜、俺のために空けておいてくれ。――エレノア」


名前を呼ぶ唇が、エレノアの髪をかすめる。


瞬間。

エレノアの脳内で、全オーケストラが一斉にフォルテシモを奏でた。

頭頂部から爪先まで電撃が駆け抜け、心臓が跳ね上がり、呼吸の仕方を忘れる。


「っ……!!!」


顔を真っ赤にしてソファにへたり込むエレノアを見て、セシルは満足げに、そして少し意地悪そうに口端を吊り上げた。


「どうだ? 注文通りの声だったか?」


「あ、貴方……っ! それは……反則、です……! 指向性を持たせた低音域の近接放射は、心臓麻痺を引き起こす危険性があると法で規制されるべきよ……!」


胸元を押さえ、ぜえぜえと息を乱すエレノア。

セシルはそんな彼女を見下ろしながら、呆れたように、けれどどこか嬉しそうに笑った。


「声の感想しか出ないのかよ。……まあいいさ。君が俺の声にしか興味がなくても、俺の誘いを断れない理由がそれなら、いくらでも使ってやる」


「ひっ……」


「明日、迎えに行くからな。耳を綺麗にして待ってろよ」


そう言い残し、セシルは軽やかな足取りで温室を出ていった。


残されたエレノアは、火照った両頬を手で覆いながら、へたり込んだまま呟く。


「……あんな破壊力のある音を出されたら、声フェチじゃなくても恋に落ちてしまうじゃないの、バカ……」


友達以上、恋人未満。

だが、その距離がゼロになるのは、どうやらエレノアの鼓膜の耐久力の問題だけのようだった。



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