第32話 郷に入っては
少し、考えていた。
相方文化がある以上、
郷に入っては郷に従え――
それが、普通なんじゃないのか、と。
別に、誰かを責めたいわけじゃない。
そういう場所だと知って来てる人が多いなら、
俺が少数派なだけなのかもしれない。
……でも。
それを「知らないまま」踏み込むのと、
「知った上で」選ぶのは、全然違う。
そんなことを、
エリーさんの話を聞きながら、
ずっと頭の片隅で転がしていた。
気づけば、店内の空気が少し変わっている。
人の数が減っている。
BGMが、いつの間にか落ち着いた曲に変わっていた。
「あ……もう、こんな時間か」
思わず、口に出た。
体感的には、
まだ一時間も経っていない気がしていたのに。
やっぱり、時間の流れが違う。
いつものように、
一人でカウンターの端、定位置に座って、
雑談を聞いている時より――
ずっと、早い。
「今日は、本当にありがとうございました」
俺は、エリーさんに向き直って、
できるだけ丁寧に頭を下げた。
「こちらこそよ」
柔らかく、でも嘘のない声。
続いて、マスターの方にも向き直る。
「練習の機会、ありがとうございました」
「いえいえ。また、気が向いたらね」
その言葉に、小さく会釈して、
俺は帰るつもりだった。
ソファーから、立ち上がる。
……その瞬間。
「ねえ、俺さん」
背中に、声が届いた。
振り返る。
「俺さんは、このあと……もう落ちるのかしら?」
一瞬、言葉に詰まる。
落ちるか、と聞かれれば、
そのつもりだった。
特に予定があるわけでもない。
ただ、いつもそうしているだけだ。
「えっと……はい。
今日は、そろそろ……」
そう答えかけた、その時。
「もし、よかったら――」
エリーさんは、少しだけ間を置いて、
続けた。
「もう少しだけ、お話ししない?」
……あ。
まただ。
距離が、近い。
でも、さっきとは少し違う。
甘さじゃない。
誘いとも、決めつけきれない。
ただ、
「人として」
もう少し話したい、と言われている気がした。
俺は、言葉を探していた。
郷に入っては郷に従え。
そう思った、さっきまでの俺。
でも――
今、この一言を、
どう受け取るかで。
何かが、少しだけ変わる気がしていた。
返事は、まだ出ていない。
俺は、立ったまま、
エリーさんを見つめていた。




