第5話 エレナ・ペトロワ ――それでも手を離さなかった
エレナの手は、震えない。
それが彼女の誇りであり、
同時に、呪いでもあった。
地球にいた頃、彼女は何度も「選択」をしてきた。
薬が足りない。
設備が足りない。
時間が足りない。
――全員は救えない。
医師として、その現実を理解していた。
理解しているからこそ、
自分の手が救えなかった命の数を、正確に覚えている。
宇宙船の医療区画で、エレナは黙々と器具を点検していた。
任務開始前の、何でもない時間。
「完璧だな」
リオがそう言うと、
彼女は視線を上げずに答えた。
「完璧じゃないわ。
ただ、想定内に収めているだけ」
その言葉に、リオは何も返せなかった。
彼女の言う“想定”には、
最悪の事態が、常に含まれている。
次は、誰を諦めるのか。
その問いが、エレナの心から消えたことはない。
未知の惑星での調査中、
同行していた異星人の一人が倒れた。
原因不明の発作。
呼吸が浅く、脈も不安定。
エレナは迷わなかった。
言葉も通じない相手の身体に触れ、
反応を確かめ、処置を施す。
理論よりも先に、手が動いていた。
同じよ。
命の形が違うだけ。
処置の間、
彼女は一度も手を離さなかった。
助かる保証はなかった。
それでも、離さなかった。
やがて容体は安定し、
異星人は静かに目を開けた。
その瞬間、
エレナの胸に、長く閉じ込めていた感情が、わずかに滲んだ。
――間に合った。
地球では、
その言葉を口にできなかった夜が、いくつもあった。
「どうして、そこまで出来る?」
後でリオがそう尋ねた時、
彼女は少し考えてから答えた。
「出来ることしか、しないの。
でも……」
一瞬、声が揺れた。
「出来ることを、途中でやめるのは、もう嫌なの」
彼女は知っている。
医師は万能ではない。
それでも、手を離した瞬間、
“選んだ”という事実だけが残る。
だからエレナは、
今日も誰かのそばに立つ。
結果ではなく、
最後まで向き合ったという事実を信じるために。
リオは彼女の背中を見ながら思った。
この船には、
命を守る人間がいる。
それだけで、
どれほど救われているかを。




