どうにかこうにか
急いで頑張るのは、急に考えるときだ。もしもに備えて、いつも頑張っているのとは違う。もうちょっと、頑張りたいときに、頑張るのは、もうだめだと思う事の手前できっと
思いとどまれたからだ。忙しい時に頑張るのは、キツイ事のない人の悩みにあった、自分の頑張りがあまり察して気付いてないことに周りが感じて、自分がやってしまう事だ。日々
焦ることはないと言い聞かせて、やっていることに、矛盾の頑張りをしてしまうようならいっそ、違うことに頑張るのも手の一つかもしれない。でも、どうにかこうにか頑張っている人にとやかく言える自分ではないし、いっちょやったるかい!と思う節のある事に慣れてきて、もっと頑張れるかどうかに、賭けてみるのは、リスク承知のまじないにすぎないと思う。世は情け、自分ばっか頑張るのは格好悪い、もっとうまい具合にいかないかな?
と思ったりする。だれも、認めてくれない、褒めてもくれない、自分でさえ嫌になることに、自分の大事な時間はかけてられない。魔法のような言葉があって、人生訓として賭けてみたいとおもい得た、気持ちの中身は、空想めいた、人の悩みにあって、自分じゃないような気さえする。なのに、どっか期待どおりになってさえいれば、汚い事に慣れずに生かされると思いがちな、自分の人生観である。
もしも、遠のいた奇跡のような一瞬に巡り合えても、いささか自分の恥のような期待感は
さしていつも、目にかけている景色や色といったような、自分なりに見ているはずのフレーズに酔う、いかんともしがたい、自分の臆する結果の答えである。誰か教えてください!
僕って一体何なんですか?僕に似合う素敵なことを見せてください!なんとかして今の苦渋を幸せに変えてください。と周りにお願いしても、実際の答えは健闘及ばずの結果ばかりである。そう思った程の答えは返って来ないという現実がある。あー思いたい、あーいってみたいなどの差が生まれれば、それだけ
自分に対して負荷として来る、自分の人生のテーマ。どうやって生きていったらいいのか?今は、どうにかこうにかやっていけているのにも、いずれ、あんなことこんなこと、起こったらどうしようかと思うほどに、自分って情けないんだなと感じてしまう、今日このごろに、
初めて遭遇すること、半信半疑な難儀。えっ
、こんなこと実際起こるのか的な内容の事実
が、歪んだ僕の意識をただす意味での人生への冒涜心は、期待の無い人生にも色んな形の要素があって、人は人をだますんだなとか、なじられた人の悔しさはいずれ、人の気持ちのなかによじれていく、悔やみとしての、人生の臨終は、死と余計に連なる、人の世の慰めの意味でのはかなさだなと思う。それに、そっぽ向いている、自分のありがたさが、人に対して、恩知らずな気分にさせるのは、きっと、いつかの日に思った、僕はほんとはこんなんじゃない。もっと違う自分もいるんだと、離せば離すほど、食い入るような目で見ている、自分の本心が、おこがましんだなと
思ってはいる。やはり、自分は自分でしかないのかと、思っていると、嫌なことや自分らしからぬ事に遭遇し、つい、逃げたくもなる。
なのに、バランスを取ろうとして、必死にぶら下がっているはず、自分の考えが一瞬ふらついて、よろめいて、ブレていくような錯覚は、いつもの判断が出来ない事への、いら立ちとして、他人にかませたくなる、文字通りの痛みそのものである。これが、他人の痛みか自らの痛みか?などに執着すること、生き損じのなかの、自由な感情の心にでる、僕の悩みの秀でた点は、何でもない痛みのプレッシャーであって、そこを我慢できているが故の痛みの緩慢さが、必要不可欠な心の感度に生じてくる、痛みの共感性になっている。しかし、傷んでいる心の中身が、実際にはほとんど言うほど答えになってないなんて、意味深な感覚のうとさに甘えて、なんにもわからないふりしているのも、いかん事だと思う。
もう一回、人生をやり直すなら、どう聞こえようとも、精一杯やったぞ!と言いたい限りの簡単な生き方のコツがあるのなら、いっそ
、自分の胸の内にしまっておけばいいかもしれない。それが、どうにかこうにか、やっていけている、今の自分かもしれない。




