第89話「微温」
「佐藤、そろそろ上がっていいぞ」
現場対応が終わり、報告書を作ってる最中また110番。
その繰り返しが終わった後、甘南備に対する捜査報告書と防犯活動結果報告をようやく作り終った。
時計を見ると午後6時を少し回っていた。
34時間勤務を超え、目は血走り、頭がぼーっとしてきたのが分かる。
前世もこのくらいの勤務は当たり前だったな、なんて、疲労感を懐かしく感じる。
「おい、佐藤聞いてんのか?俺も上がるから、お前ももう上がれ」
関の声で微睡みかけた頭が少し冴えた。
「あ、すみません。ちょっとぼーっとしてて。」
「まだ泊まりに慣れてねえんだから無理すんな。ほれ。」
そう言って関がロイヤルミルクティの缶を差し出した。
「ありがとうございます。」と言い、関から受け取ったロイヤルミルクティは、缶の表面がほんのりと温かかった。
プルタブを開けると、甘い香りがふわりと立ち上る。
一口飲むと、砂糖の優しい甘さが疲れた身体にじんわり染み込んでいった。
「……ほぅぉ。…元気出ました。」
「だろ?明けの日にゃ、カフェインより糖分だ。昔の相棒がよく言ってた。」
関はそう言って、ポケットから煙草を出しかけ、また仕舞い直した。
「んじゃ、今日はもう帰れ。今回の泊まりは現場対応も報告書も完璧だった。まるで熟練の捜査員みてえだったよ。」
「同僚からの指導が良いからですよ。お疲れさまでした。」
軽く頭を下げ、帰り支度をしようとした瞬間、俺は思い出したように受話器をあげた。
「……帰る前に一本、かけとくか。」
まだ席にいるかな、と思って中村の卓上に架電する。
コールが二回鳴ったところで、すぐに彼女の声がした。
『はい、特務共捜の中村です。』
「一昨日ぶりです。佐藤です。電話大丈夫ですか?」
『佐藤主任!あ、いや、佐藤係長!ホントに泊まりで見に行ってくれたんですか?』
彼女の声は、少しだけ期待を含んでいた。
「ええ、泊まりの扱いの狭間に甘南備行きまして、ちょうど見れたので。捜査報告書は庁内便に乗せたんで、明日にも中村主任に届くかと。」
『報告書化したってことは、被疑者らの動きが見えたんですね?』
中村の声が、少しだけ落ち着きを取り戻す。
「何かを運んでるのは現認しましたが、途中で110番入ってしまって。一応撮影したデータはメッセージで飛ばしてますので、水越さんにうまく鮮明化してもらって下さい。」
『ありがとうございます。本当に人手足りなくて。』
中村の声は疲弊しきっており、過酷な勤務が声からうかがえる。
「一応、荷運びをしていた人間がたどたどしい雰囲気で年齢若めに見えたので、闇バイトの可能性もあるかと。」
『なるほど。ちなみに車両番号って見えてました?』
「『品川444へ・214』、廃棄車両で前所有者は“麻麻商事”、記念所蔵登録有りです。」
『麻麻商事って、LUXEのマネロンの受け皿になっていた、あのですか!?記念所蔵ってことは廃車登録だけして、プレート持ち帰って黙って車両に付けたってこと!?』
急に中村の声が大きくなり、俺は受話器を少し耳から離した。
「手元に資料が無いので、記念所蔵申請の時の手続きに不備があったかもわかりませんので、そちらで確認してもらえませんか?」
『そうですね。でも、本当助かります。ちゃんと調べられるところまでやっていただいて、ありがとうございます。山崎係長なんて甘南備の動き観ずに当日現場行くぞっとか言ってるんですよ…』
「LUXEの裏付けだけでも相当あるでしょうし、お疲れ様です。」
『佐藤係長がこっちに戻ってきてくれないかなって毎日思ってますよ。』
「そう言ってもらえるのは嬉しいですが、組織のことなので。」
『でも、昨日泊まりってことは31日も泊まりですよね?』
「宿直ですから、外をふらふら出来ないですよ。扱いもありますし…」
『ええ。勿論それはわかってる。でも、何とかならないのかなって思って。』
そこで、通話の向こうから山崎の声が割り込んだ。
『中村主任!ちょっとこっちきてくれ!』
『係長!今行きます!…すみません。また今度。』
その直後、通話が唐突に切れた。
俺は受話器をそっと戻すと、どっと疲れで体が重くなった。
一度自席に座って息を吐くと、関から話しかけられた。
「佐藤。電話聞こえてたが、次の泊まりでも甘南備行きたいのか?」
関は、夜通しの疲れでバキバキになった目をこちらに向けてきた。
「本音では行きたいですよ。でも、他の扱いより優先はできません。」
「そうか。分かった。」
関はそれだけ言うと、部屋の外に出て行ってしまった。
何か言いたげな雰囲気ではあったが、宿直の疲れがそれを遮った。
俺もそのまま更衣室に向かい、帰り支度を始めた。
31日のオークション、麻麻商事の廃棄車両、段ボールで運ばれた何か。
どれも頭の片隅に残ったまま、ゆっくりと回り続けていた。
しかし、どれも今の立場で踏み込むには分が悪い。
勤務懈怠だし、越権行為すぎる。
「……今日はもう休もう。」
俺は着替えながら、送迎用のSPサービスに連絡し、そこで思考をやめた。
『こっちに戻ってきてくれないかなって毎日思ってますよ。』
その中村の言葉が、妙に頭から離れなかった。
庁舎を出たあとも、耳の奥でその声だけが、微かに響き続けていた。




