第71話「水越千早:初体験」
5月2日、午前10時32分。
中央警察署の刑事課2号取調室の空気は、朝の冷たさをまだ残していた。
私は補助席に座り、立会人として緑川の取り調べに同席していた。
取調室の時計が、秒針を刻むたびに室内の沈黙を削っていく。
取調室で手錠を外された緑川は、金属製の椅子に深く腰をかけ、手を膝の上で組んでいた。
留置場での様子は分からないが、目の下に濃い隈があり、まともに寝られなかった様子だった。
「緑川さん、顔色が悪いけど眠れなかった?」
優しく声をかけるのは、緑川を担当している取調官だ。
彼女の声はやわらかいが、言葉の端に職業的な距離があった。
緑川はそれを感じ取ってか、目を逸らしたまま答えなかった。
太々しい態度というよりは、何かを話したら追及されると恐れているような態度に見える。
「留置場の食事はどう?ちゃんと食べられた?」
取調官の雑談に応じようともしない。
健気に穏やかに話しかけ続ける彼女を見て、取調べという仕事の重さをあらためて感じた。
「まぁ、話したくないならいいけど、今日は見てほしいものがあるんだよね。」
そう言って取調官が取り出したのは、私の書いた解析報告書。
内容は緑川のスマホに入っていた匿名メッセージアプリのデータだ。
「これはね、あなたの使っていたパソコンに保存されていたデータなの。」
緑川は顔をあげ、机に視線を向けた。
その瞬間、激しく瞬きをし、分かりやすく動揺している様子だ。
「じゃあ、内容を読むね。<添付データのうち、出納関連は甘南備関連の明細のみ全削除、シリンジ関連は資源庁および政府関係のみ削除。該当データ削除後にLUXEのDBを洗い替えのこと。>って書いてあるの。これの受信時間はあなたの家に私達が入った少し前ね。」
緑川はわずかに唇を動かしたが、声にならなかった。
「で、あなたを逮捕した時に、あなたが操作していたパソコンの画面には、『該当のデータを削除しますか?』って表示されていたの。これが、その時の写真。」
そう言って取調官が机の上に写真を1枚置いた。
紙の端が机を擦る音が、やけに大きく響いた。
緑川は、写真に視線を落とすでもなく、宙を見ていた。
「これ、何を削除していたの?」
これまで黙っていた緑川が口を開いた。
「えっと、まず、私のパソコンにはそんなメッセージ無いと思うので、捏造なんじゃないでしょうか。」
緑川が消え入りそうな声で言った。
「捏造かどうかは私には分からないから、今日はその解析担当の人がいるの。」
そう言って取調官は私に視線を投げかけた。
「警視庁の水越です。解析を担当しています。」
始めての取り調べの現場に、緊張で少し声が上ずってしまったかもしれない。
「はい、どうも」
緑川に私の緊張が伝わったのか、先ほどより余裕のある返事を返された。
「では、捏造かどうかについて説明しますね。パソコンのデータを完全に削除するには別のデータで上書きするしかありません。そうしなければ、一度記録されたものにはどうしても痕跡が残る。今回はそのファイルの断片を削り取って復元しました。」
「……」
「あなたは、確かに削除したかもしれないけど、完全な削除には至っていませんでした。なので、データを捏造したということはありません。」
私が簡単に説明を終えると、緑川は俯いて黙ってしまった。
少し早口だったかもしれない。
さりげなく取調官が、優しい口調で雰囲気を戻してくれる。
「まぁ、そういうことで、これは客観的に見ても証拠価値があるっていうことだね。で、もう一回聞くけど、何を削除していたの?」
「……分かりません。いつもの更新処理だと思っていたので。」
「更新処理?ここに書いてある出納関連とかシリンジ関連というデータの話?」
「……そ、そうです。」
それ以上は喋らずに緑川が視線をそらした。
「じゃあ、頻繁にそういう更新作業を桜木さんから頼まれるってこと?」
「あ、あ、えっと、そうです。一応IT企業で勤めていた経験があるので、そうですね、その、パソコン周りというか、はい、そういうのは私がやる的な…」
緑川は明らかに動揺している様子だった。
「すごいね。私なんてパソコンよくわかんないからさ。尊敬するよ。」
「きょ、きょ、恐縮です。」
緑川はそう言って顔を伏せたが、徐々に心の氷が解けてきたのかもしれない。
「……で、水越さん。この更新作業って頻繁にあったか分かる?」
そういって、取調官が私の方を向いた。
私は小さく咳ばらいをして、緑川に視線を向けた。
「私が解析した結果、今回が初めてだと思われます。定期的に更新を依頼されている内容のメッセージや、実際に更新したであろうアクセス記録は残っていません。さらに、『洗い替え』が定期的に行われるのであれば、バックアップ取得から洗い替えをするプログラムが用意されるのが普通ですが、それもありません。」
また早口になってしまったかもしれない。
その思いを察してか、私の答えに取調官が追従する。
「なるほど。そういうことみたいだけど、緑川さんはどう思う?」
「……」
「ゆっくりでいいから、自分の言葉で答えてね。」
しばらくの沈黙の後、緑川は小さく息を吐いた。
「桜木さんが、夜中に電話をかけてきたんですけど、私寝ていて出られなくて。トイレに起きたタイミングで着信があったことと、メッセージをみました。」
緑川がぽつりぽつりと話し始めた。
「で、私もその……店舗に来るお客さんとか、結構いろいろ来るので、何かあったんだろうから消さなきゃって…」
「ちなみに消したデータって覚えている?」
好きな曲でも聞くようなトーンで取調官が質問した。
「メッセージにもありますけど、甘南備っていうアロマとか買ってるお店と、後、2~3回来てくれた資源庁の人のデータとかですね。うば…なんとかさん?だったかな。」
「その時、桜木さんからの指示だと思った?それとも内山さんとか別の誰かだと思った?」
取調官がキーボードを叩きながら質問した。
「そうですね。少なくとも運営にかかわることなので、内山さんか、それより上の人かなと思いました。」
取調官が、1回手を軽く叩いた。
「そうかぁ!ちなみに、それより上の人ってどんな人なの?」
緑川の声がわずかに震えながら答えた。
「分かりません。でもお店の売上を管理する人が居るようなことを内山さんから聞いたことがあったので、その人かなって。……みのりちゃんか倉橋さんか……あっ!」
そこまで言って、急に緑川が慌てたように机上の湯飲みに口を付けた。
それ以降、どんなに質問しても取調べが進まなくなってしまった。
緑川が「わかりません。」を繰り返す機械になってしまった。
その声が、取調室の壁に反響して、冷たく消えていった。




