第60話「春宵の庁舎から」
庁舎の時計が、17時を少し回ったところで止まったように感じた。
窓の外は春の夕暮れで、オレンジ色の光が書類の山を照らしている。
発足から一か月しか経っていないのに、監禁事件での4人同時逮捕。
御厨が『任務を終えた者から順次帰宅』と指示が出していたが、6人だけは、誰も帰らなかった。
山崎、中村、後藤、森下、水越、そして俺。
バッタバタで大荒れの現場で夜通し働き、被疑者の引致後は送致手続きに終われた。
先ほど、ようやく4人分の送致の決裁が終了し、山崎が竹村課長と共に錦部長へ報告に行ったところだ。
俺たちはまだまだ積み上がっている無限とも思える業務を前に、手を動かすしかなかった。
「……あの、そろそろ終わりにしませんか。」
水越が恐る恐る言うと、後藤が虚ろにならながら手を上げた。
「賛成……つか、もう脳が動かないって」
「……同感です。もう何も出ません。」
先ほどまで引致後の取調べをしていた中村が、無表情で頷く。
俺は時計をちらりと見て言った。
「では、定時をもって任務解除にしましょう。」
「おおー!」
一拍遅れて、拍手ともため息ともつかない声が上がった。
「ただ、残れる人はもうちょっと残って下さいね。後藤部長と森下さんは私を少し手伝ってください。」
「ふざけんなこのパワハラ男ー!」
俺の言葉に後藤はヤジを飛ばし、森下は信じられないといった表情を浮かべた。
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それから30分後。
執務室の一角には、机を寄せただけの即席の宴会スペースが完成した。
ただし、俺の席の周囲には、誰も自然に近づかなかった。
意識しているのか、訓練の癖なのか。
肩が触れる距離を避けるように、全員がわずかに体を傾けて座っていた。
「……なんだこの状況は。」
錦部長への報告から戻った山崎が、呆れたように俺を見た。
「団結会です。庁内申請済み。もちろん男性同席申請も滞りなく。」
「私は判を押した記憶が無いが…」
「机の上にあったので押しときました。」
「おまっ……まぁ、いいことにしよう。届が出されていれば監察も黙認だ。……しかし、気が抜けない会だ。」
山崎はそう言うと、空いてる席に座った。
俺が「庁内で飲めば酒の事故もありませんから。」と付け加えると、その場の空気が少しだけ固まった。
少し空気を壊してしまったかなと思いながら、今日こっそりかき集めたつまみを眺める。
地方ごとの名産もあり、改めて同期のありがたみが分かった。
牛タン、へしこおにぎり、近江牛のしぐれ煮、しょうゆ豆、明太子を使った卵焼き、くさやスティックまで。
そして、各地の地酒。
「佐藤主任、こんな量のツマミと酒はどうしたんだ?」
山崎が目を丸くする。
「今日は祝日だったんで、警大の同期に無理言って揃えてもらいました。友情って名の捜査協力です。」
「友情っていうより、殿への上納って感じがするな。」
山崎が苦笑する。
「男一人にここまで気を遣わせるなんて、やっぱり罪だよねぇ。」
後藤が笑いながら瓶を掲げる。
「何の罪ですか。」
「生まれながらの少数派罪。」
「そんな刑法はありません。」
「あるのよ、女性社会の条例では。」
山崎が苦笑しながらコップを掲げた。
「まあいいか。徹夜明けだし、乾杯して一回リセットしよう。佐藤主任、音頭取って!」
山崎に振られて、俺が立ち上がる。
「では、発足一か月、4名逮捕、死者ゼロ、離職者ゼロ、睡眠時間は全員ゼロ。」
「最後いらない!」と、後藤が即座に突っ込む。
「これからまた頑張りましょう!乾杯!」
缶ビールが、乾いた音を立ててぶつかった。
たっぷりの疲労感に、鼻に抜けるアルコールがたまらない。
1口で350ml缶を飲み干してしまった。
「あ、ちなみに、御厨理事官から『田酒』のご奉仕いただいたので、ジャパンが好きな方はどうぞ!」
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一時間も経たないうちに、全員の頬がうっすら赤くなっていた。
机上には、各地の地酒が無秩序に並んでいた。
「佐藤主任のこと、正直、都市伝説だと思ってましたた。」
既に呂律が怪しい森下が、唐突に言った。
「男性で実務担当なんて、倫理研修の教本にしか載ってないですもん。」
「ほんとにいたんだよねぇ、歩くコンプライアンス案件が。」
後藤が笑いながら盃を傾ける。
「……言葉を選んでください。監察が聞いたら怒りますよ。」
「防音良し!監視カメラ無し!Wi-Fi完備!」
後藤がそう言いながら、部屋を指さし確認すると笑いが起きた。
「佐藤主任、ほんとに誰とも“そういう関係”になってないの?」
今度は唐突に中村が問いかけてきた。
「そういう確認は取調べでお願いします。」
「じゃあ任意同行を求めます。」
「拒否します。」
そう言って中村から距離を取ると、周りが少し笑ったが、山崎が小さく息を吐いた。
「……だから男性って、近くにいるだけで庁舎の空気が変わるのよ。」
「温度的に、ですか?」
「いや、もっと面倒な意味で。」
誰もが笑いながら、ほんの少し目を逸らした。
その“目線のずらし方”に、この社会の歪みがすべて詰まっている。
彼女たちは笑っているが、その笑いの奥に、緊張と配慮と欲望が混ざっている。
内面では歳を重ねている俺は、それを読み取ってしまう癖が抜けない。
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夜九時。
後藤は半分寝ながらくさやを齧り、森下は卵焼きの皿を抱えている。
中村と水越はいつの間にかコーヒーに切り替え、山崎は静かに酒を注いでいた。
「佐藤君さ……正直、モテるでしょ。」
水越が酔った勢いで言う。
「そんな話あります?」
「あるよ。君は男にしては女と距離が近いし、それに加えて、女と接する時に変な壁を作らない。芸能人ならニュースものだ。」
「ニュース扱いされるのは、あまり嬉しくないです。」
「いや、貴重種でふもん。天然記念物ですよ。」
と呂律が回っていない森下が続いた。
「指定解除を申請したいです。」
中村がクスッと笑い、グラスを置いた。
「でも、佐藤主任のそういう話、興味あるな。」
「……あんまり面白くないですよ。」
「そんなに真面目に返さないでよ。すぐ一線引く。」
中村が拗ねたように言うと、山崎が笑った。
「まぁ触れない男ほど危険って、雑誌で見たことあるよ。」
後藤が寝言のように呟く。
「佐藤主任……ちょっと笑うと……空気上がるのよね……」
「空調の話ですか?」
「違うのよ、ホルモンの話。」
中村の話に、水越が静かに補足する。
「科学的には、異性を見るとセロトニンとオキシトシンが上昇する傾向があります。」
「やっぱり分析するな、君は。」
一同が笑い、沈黙。
この空間には、秩序と緊張が共存している。
誰もそれを壊そうとはしない。
それが、この国の平和の形なのだ。
蛍光灯の光だけが、柔らかく机を照らしていた。
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九時半過ぎ。
机の上の酒瓶が空になり、蛍光灯の下で笑い声が細くほどける。
「佐藤主任。」と、山崎がぽつりと呼んだ。
「今日は本当に助かった。事件も、そしてこの係も。」
「恐縮です。」
「本音を言えば……佐藤主任を危険に晒したくなかった。でも、君がいないと捜査が進まなかった。」
「必要に迫られた結果です。」
「ああ、でも…それがいちばん危ういと思ってるよ。」
コトリと、山崎のグラスが机に触れる音がした。
その直後、山崎の卓上にある電話が鳴った。
ディスプレイ表示には「東京地方検察庁 刑事部 首席検察官」。
山崎の顔から、一瞬だけ笑みが消えた。
笑いの余韻がまだ漂う庁舎で、誰も口を開かなかった。
外の風が窓を叩き、春の夜気がわずかに冷たく感じられた。
これで第一部は完結です。
次から第二部になります。




