第55話「古賀絵麻:突入」
時は少し遡り、4月29日、午前3時15分。
夜が完全に終わりきらない時間帯。空は群青色に沈んでいた。
部下に対象の確認を指示し、無線のイアホンを外したあっしは仮眠を取っていた。
一流の捜査員は、僅かでも休めるときは全力で休んでおくものだ。
唐突にあっしのスマホが鳴り始めた。
知らない番号だが、この時間はどうせ特務捜査係の誰かだろう。
眼をこすりながら通話ボタンを押す。
「はい。こちら古賀。」
『古賀主任!今すぐ桜木の家に踏み込んで下さい!』
電話口でほぼ怒鳴るような声量で若い男の声が聞こえた。
佐藤だ。
男のくせに捜一で刑事やろうっていう、意味の分からんやつだ。
「は?事前の策じゃ6時着手だろ?」
『桜木は先ほど、LUXEのサーバーデータを削除を試みています!奴を止めてください!』
あっしは、急に血が滾るのを感じた。
「あいよ。じゃあ今からいく。」
『入り方は任せますが、壁に穴を空ける以外であればどんな方法で入っても構いません。落ち着いたら連絡ください。』
佐藤はそれだけ言い残すと通話を切断した。
あっしは社内の他の捜査員に声をかける。
「おい、聞こえたな。全員準備、他の車両の奴にも声かけろ。5分後入るからそれまでに配置完了させとけ。」
あっしは、耳にぶら下げていた無線のイアホンを穴に捩じ込んで、車を後にした。
目の前にあるのは、築十五年ほどのマンション。
白い外壁には雨の跡が細く伸び、ベランダの手すりには灰皿の影。
『アパートの出入り口、全て押さえました。』
耳元で配置完了の声が響く。
「了解。時間ぴったりに入るぞ。録画忘れんなよ。」
遮光カーテンがかかっていて、ベランダからは中の明かりが見えない。
しかし、佐藤の話じゃ桜木はまだ起きているらしい。
あっしは桜木の部屋のチャイムを鳴らした。
ピンポーンという音だけなり、物音すら聞こえない。
続けざまに何度もチャイムを鳴らすが人が出てくる様子はなかった。
あっしは拳を握り、ドアを叩いた。
「おい!桜木真冬!起きてんだろ!出てこい!おらァ!!」
金属が軋み、周囲の空気が揺れる。
それでも無反応、どうせ居留守だ。
「桜木ぃ!出てこねえならココぶっ壊すぞ!脅しじゃねえからな!!」
最後の一言を吐いた後、あっしは一瞬だけ息を止めた。
こういう沈黙のあとってのは、だいたい“終わる前”の音がする。
中で、何かを壊してるか、送信してるか。
そのどっちかだ。
「突入準備。ベランダ側、行け。」
あっしの指示で屋上からベランダに突入班が下りた。
『桜木のベランダ到着、窓を破壊します。』
「やれ。責任はあっしが取る。」
そして次の瞬間、ガラスが砕ける音が夜気を裂いた。
それと同時に「警視庁だ! 動くな、桜木真冬!!」と突入犯の怒号が聞こえた。
音から20秒ほどたち、扉の鍵がガチャリと開いた。
その音を聞き、すぐさま扉を開けて土足で中に踏み込む。
顎の線が妙にスリムで、色白な女が羽交い絞めにされていた。
顔は前を向いているのに、目だけが、まるで別の場所を見ていた。
あっしが室内を確認すると、部屋は驚くほど広く、そして整っていた。
白一色の家具にノートパソコンが二台、タブレットが一台。
それぞれの画面に、ログのような英字が流れている。
片方には〈winter account suspended.〉と。
片方には〈winter process completed.〉と。
ソファ付近で押さえられた桜木は、薄手のパーカー姿で顔は化粧気がなかった。
「……桜木で間違いないね?」
あっしが低く尋ねると、拘束から解放された桜木が立ち上がった。
そして、目を伏せたまま、落ち着きはらってゆっくりと言った。
「人に名前を聞くときは、まず自分から名乗るのが社会人としてのマナーですよ。」
窓をたたき割られて入られた割には妙に落ち着いている。
「そうかい。あっしは古賀、警視庁で捜査を担当してる。で、あんたは桜木か?」
睨みを聞かせて尋ねるも、桜木は表情を崩さない。
「仰る通り桜木という姓です。で、人の家の窓を壊した上に土足で入ってきて、何のようです?」
怒っている口調ではなく、淡々とした様子に強烈な違和感を覚えた。
「あんたの家に捜索差押許可状が出ててね。ドアを叩いて呼んだが開かなかったから窓から入っただけさ。」
「ああ、私、眠るときはヒーリングミュージックをヘッドホンで聞いてるので気づきませんでした。事前に教えてくれれば、時間を作りましたのに。」
「あんた、馬鹿にしてんのか?そんな優しい音じゃ消せないほどの声を出したんだがな。」
桜木は小さく笑った。
「まぁ、終わったことはどうでもいいでしょう。それよりこの状況の説明してくださいますか?」
「捜索差押許可状だ。あんたの家のもの、関係あれば片っ端から持ってくぜ。」
あっしの通告を聞いた桜木は、わざとらしく人差し指を顎にあて、首を傾げた。
「関係のあるもの?何の事件なんでしょう?一般人の部屋に関係あるものなんて本当にあるのでしょうか?」
「あんた、さっきからいちいち癇に障るな。人のコト馬鹿にしすぎじゃないかい。」
「馬鹿になんてしてません。深夜に人の家で喚き散らかす方を“小馬鹿”にしているだけですよ?」
桜木の言葉に、腸が煮えくり返りそうだ。
しかし、怒鳴りたい衝動を飲み込み、舌の裏を噛むと血の味がした。
目と目が合った瞬間、冷たい光がこちらの思考を刺してくる。
「……もういいや、令状の説明する。お前の勤めるLUXEで注射器が可燃ごみで捨てられた。廃棄物処理法違反だ。会社関連のもの持ってくぜ。」
「その程度のことで深夜に窓を割るなんて、この国の警察は知性も品性も無いんですね。」
桜木はまたも、わざとらしくため息をつく。
こちらに腹を立てさせる算段かもしれないと、警戒レベルを上げた。
「お前にはもう取り合わんよ。おし、午前3時28分、捜索差押着手だ。」
「どうぞ、ご自由に。職場のものは家に持ち込まない主義なので無駄だと思いますけど。」
桜木はそう言って机の上のマグカップに口をつけて、再び机の上に置いた。
マグカップの底が一瞬光った気がしたが、捜査員達が所定の作業に移りはじめており、その記憶はすぐに消えた。
捜査員が家の至る所を探している最中、突如机の端に置かれたタブレットがひとりでに光り、英字が一行だけ浮かび上がった。
〈Winter: data locked …and transferring 〉と。




