第52話「中村英子:ガラス」
「その池袋のシーシャバー、どんな店?」
出来るだけ普通に、雑談めいた雰囲気で私は質問した。
「…普通の店。でも共生エリアにあるから、女の値段はかなり高め。ごくごくたまーに渋めの雰囲気の男が来て目の保養に最適かな。」
やはり池袋のシーシャバーという言葉は引っ掛かる。
すぐさま深く追求したくなるが、その欲求を抑えて出来るだけ自然に内容を聞く。
「へぇ、じゃあ公務員の給料じゃきついかな?でも、池袋の共生区にシーシャバーって営業許可取るの大変そうなのに、よくやってるね。」
私の疑問に当然と言った形で、内山が頷いた。
共生区は出店する店舗に制限がある。
特に、男性が喫煙したり副流煙を吸い込んだことにより精子の奇形率が高まり、受精能力が著しく下がるため、共生区は基本的に禁煙だ。
そこで、直接煙を吸わせる店舗が許されるはずがない。
「あー、店長が資源庁にコネあるみたいで店出せたらしいよ。大原麻子って名前で、常連からは大麻ちゃんって呼ばれてる。ウケるよねー。」
「……『サ・ツ・カ・ン』にとっては笑えない冗談ね。」
一瞬だけ、内山の表情から恐怖が抜けた。
それは、長い間閉じ込められていた人間がようやく息を吸い込む瞬間のようだった。
「あー、なんか落ち着いてきたわ。っていうか、話してたらヤニ吸いたくなってきた。バッグからタバコ取ってくんない?」
「ダメよ。一応あなたもう逮捕されてるんだから。リラックスしすぎ。」
徐々に砕けてきた内山に釘を刺した。
内山は「はは、腕の冷たい輪っかにも慣れてきたかも」と悪態をつきながら捜査員の方をぼーっと眺め始めた。
呆ける内山とは異なり、私の脳裏には住田の顔写真と甘南備の情報が逡巡した。
しばらくたって、唐突に内山が話始めた。
「……ねえ、中村さん?あたし、ほんとはこんな仕事、やりたくなかったんだよ。」
次々に整理される店舗内の物品に、寂寥感が込み上げてきたのだろうか。
「じゃあ、どうして?」
私はなるべく寄り添うように優しく返事をした。
「もう知ってるだろうけど、私は元SP。最初はSPやりつつ、休みの日に仲間のSPを癒せる準合法セクターやってたんだ。ほら、SPって体力もメンタルもやばいからさ。」
内山はそう言いながら、寂しそうに私の顔に視線を合わせた。
「男を守るために神経研ぎ澄まして、体張って、でも男に感謝はされない。友達には『性欲で職業選んだ』なんて笑われてさ。」
内山は自嘲的な乾いた笑いをこぼした。
「そんなSP仲間にたまには贅沢してほしいって思ってさ。LUXEって名前も、そのまま“贅沢”って意味でつけただけ。」
彼女はゆっくりと視線を落とし、遠くを見つめるように言葉を続けた。
「二足の草鞋で結構忙しかったけど、やりがいあってね。楽しかったなぁ。ちょっと金が入ったら小物を凝ったりしてね。」
「そうね。私も店舗に最初に入ったとき、雰囲気がいいって思ったもの。」
なるべく内山の話を邪魔しないように相槌を打つ。
「で、さっき言ったシーシャバーの常連がね、ある日、出資話を持ってきたの。『もっと女性を癒せる空間にして、事業拡大しないか?』って。」
「その人、名前は?」
「……名前かぁ、名前は、くら——」
内山の声が震え、唇が小さく動いた瞬間だった。
ガシャン!と大きな音が鳴った。
振り向くと捜査員の一人が、LUXEの受付に置かれてたバラのガラス細工を落としてしまったようだ。
青い顔をした捜査員の足元で、ガラス細工は砕けてバラバラになってしまった。
「おまえ!なにやってんだぁ!!!」
内山が立ち上がって怒りのままに叫ぶ。
「それはみのりの!妹の!!」
声は裂けたように鋭く、室内の空気を一瞬で変えた。
手錠の鎖が鳴り、捜査員が慌てて「すみません!」と頭を下げる。
割れたガラスの欠片に照明が反射して、血のような赤い光を床に散らした。
「……落ち着いてください、内山さん」
私が声をかけると、彼女はしばらく呼吸を荒げたまま、崩れるように椅子へ戻った。
怒りというより、張りつめた糸が切れたような表情。
「そのバラ、誰かにもらったものですか?」
私の問いに、内山は一度だけ唇を動かし、しかし答えなかった。
さっきまでの会話が遠い夢だったかのように、目の焦点が合っていない。
代わりに、小さく呟いた。
「……もう、いいや。」
「内山さん?」
「どうせ、話しても話さなくても私はもう終わり。だったら何も話さないよ。」
内山はもうこちらを見ることは無かった。
ただ、砕け散ったガラスのバラを、壊れたままの形で見つめていた。
その瞳の奥で、何かが完全に閉じたのが分かった。
ガラス君はここで壊すために22話で登場したようです。




