第42話「倉橋和美」
「もちろんです。佐藤さんのように特殊で優秀なデータを持つ方は忘れませんよ。」
笑っているのに、声に温度がなかった。
「あ、失礼しました。おかけください。」
促されるままに椅子に座る。
「いきなりメンタル検診とは、どうかされました?確か警察大学は先月卒業でしたよね?」
倉橋の机の上には、モニターとカルテファイル、それに何かの書類があった。
画面には、俺の名前と――“ランクS”の文字があった。
「いや、本格的な仕事が始まって一か月たったので、上司からメンタル検査で調子を見てもらえと言われまして。」
なるべく淡々とした声で俺は答えた。
「なるほど。でも、警大から警察組織だとなかなか大変ではないですか?目元も少しくすみがあって寝不足に見えます。仕事のストレスは大丈夫ですか?」
「ええ、まあ……寝不足は少しありますが、ストレスは慣れてますから。」
そう答えると、倉橋は小さく頷き、キーボードを叩きながら言った。
「女性警察官なら、『慣れてます』の一言で済むんですけどね。ランクSの男性となると、ほんの僅かな不調が全身に響くことがあります」
笑みの奥に、微かな棘があった。
彼女はカルテを開くと、俺の脈拍を測るように視線を動かした。
「んー、手が少し震えていますね。」
「いえ、久々の病院で緊張しているだけです。」
「ふふ、そうですか。」
笑いながら、倉橋はモニターをこちらに向けた。
「これは、前回といっても4年前ですが、その時の検査結果です。脳波がとてもきれいで、まるで調整済みみたい。」
倉橋の発したその言葉が、ひっかかった。
「調整済み、とは?」
「あぁ、いえ、例え話です。ランクSのように国から重責を負わされた男性で、波形が整っている人は稀なんです。……普通なら、もっと乱れているはず。」
言葉に温度はないが、倉橋はどこか“人間を見ていない”目をしていた。
彼女がモニターに指を走らせると、別のデータ画面が開かれた。
「で、これが今回の脳波の検査結果です……きれいですよね?」
そう言いながら倉橋は薄く笑った。
「警視庁の捜査第一課という女性でも耐えるのが厳しい高ストレス環境にいる身で、このきれいさ。まるで異彩ですね、異質、異分子……そんな言葉が浮かびます。」
倉橋は微笑みながらも、何かを観察しているようだった。
機械の駆動音が、妙に規則正しく俺の耳に残った。
「異分子、ですか。」
俺は苦笑で返したが、手のひらの汗は止まらなかった。
「そう、異分子です。」と、倉橋は軽い調子で言いながらも、目は笑っていなかった。
「秩序というものは、常に“異分子”に揺さぶられる。けれど、その揺らぎが必要な時もあるんですよ。」
彼女はペンを置き、少し身を乗り出した。
「……佐藤さん。あなたは、自分がどうしてSに分類されているか、ご存じですか?」
唐突な問いに、息が詰まる。
「いえ。最初からこのままのランクでしたので。」
「そうですか。」倉橋は小さく頷くと、モニターに映る脳波データを撫でるように指先でなぞった。
「あなたの波形はね、自我の制御が異様に強い。つまり、外部のストレスにも内部の動揺にも、ほとんど反応しない。」
まるで心や記憶を矯正されたと言われているようだった。
「これがもし女性警察官なら理想的ですけど、個人としては……少し、怖いです。」
倉橋の声が、わずかに柔らいだ。
「昔、同じ波形をした人を一人だけ見たことがありますから…」
「……誰ですか?」
「今はもう、いません。『“明るい未来” 』を目指していたんですけど、ね。」
倉橋の答えに、違和感を覚えたものの、聞き返すことはしなかった。
彼女は再び端末を操作し、俺のデータファイルを閉じた。
その時、一瞬だけ別の名前が画面の端に映った気がした。
――“住” の文字が、一瞬、画面に浮かんだ気がした。
「さて、検査は以上です。」倉橋はカルテを閉じながら言った。
「体調に問題はありませんが、少し睡眠不足が続いているようです。できれば、今週は無理をせず、楽しかった思い出を振り返ったりして、できるだけゆったり過ごしてください。」
「思い出、とは?」
「そのままの意味です。記憶、エピソード、あぁ、別の世界を空想したりもありですね。それでは、また、どこかで。」
そう言い倉橋は立ち上がり、診察室の奥に消えた。
カーテンの向こうで、紙をめくる音がかすかに聞こえる。
「それでは佐藤様、受付で診察券を受け取ったら終了です。」
看護師に促され、俺も部屋を後にした。
診察室を出ると、廊下の空気が妙に重たかった。
病院の空調音の下で、遠くから機械の作動音が響いてくる。
意味深過ぎる倉橋和美の発言が引っかかる。
エレベーターに乗り、無機質な壁に映る自分の顔を見た。
強張った表情に自分でも驚き、慌てて呼吸を整え、ポケットのスマホを取り出した。
<診察終了。データ異常なし。ただ、医師の反応が気になる。>
特務捜査係にグループメッセージを送る。
だが、打ち終わった直後、背後でエレベーターのドアが開く音がした。
振り返ると、そこに倉橋が立っていた。
「佐藤さんに一つ言い忘れまして。」
彼女は淡々とした声で言った。
「『“まだ背中は痛みますか?”』」
意味を問う前に、扉は再び閉まった。
金属音が響く。
その残響の中で、心臓の鼓動だけがやけに鮮明だった。
外に出ると、曇天の隙間から一筋の光が差していた。
光を見ながら、倉橋の発言を頭から追い出す。
明日が本番なのだから。
さぁ、鬼が出るか蛇が出るか、Xデーまで、あと一日。




