第35話「踏み絵」
俺は、係長の指示で捜索差押許可状の請求準備をしていた。
捜索差押許可状や逮捕状等の令状とは、捜査機関に対して、裁判官が方法や範囲を定めて、捜査を行うことを認める許可状だ。
つまり、裁判官に対してどのような違反かということだけでなく、強制であることの必要性や、目的が何かを説明する必要がある。
これまで散り散りになっていた情報を分かりやすい報告書にし、編綴するため、そこそこのリソースは割かねばならない。
作業に夢中になっていて、気づけばそろそろ日付が変わるころになっていた。
扉がガタガタなり始め、後藤と森下が入ってきた。
よほど急いでたのか、何やら息が上がっている。
「遅くまでお疲れ様です。兎の追尾はどうでした?」
労いの言葉をかけつつ、後藤に尋ねる。
「打ち切ったよ。やばいことが2つあってね」
後藤はそう言いながら何やら考え込んでしまった。
森下はオロオロしているばかりだ。
「やばいことが2つって、途中で酒でも入れてきたんですか?」
「入ってねぇよ。こっちは現場で冷や汗もんだったんだ。」
後藤は机の端に腰を下ろし、煙草を取り出そうとして、ここが庁舎内だと思い出したように舌打ちした。
森下は依然として所在なげに立っている。
「まずひとつ。中村が橋本陽太と裏引きしてた。」
「……裏引き?」
「あの二人、夜のコンビニで鉢合わせたんだけど、どう見ても偶然には見えなかった。中村がLUXE近くのコンビニにきたと思ったら、次に橋本がコンビニに入っていって、二人で出てきた。向かった先はLUXEとは逆方向だったよ。」
俺は手を止め、ゆっくり顔を上げた。
「中村主任が橋本と直接接触ですか。……なるほど。それがひとつ目のやばいことですか。」
「そう。もうひとつは、多分LUXEに張り込みに気付かれた。」
後藤は声を落とした。
「LUXEの屋上、あんなとこ深夜に人がいるはずないんだよ。でも、23時半ごろ、金属柵の影に人影と赤い小さいランプ、それにスマホの明かりが見えた。……何にせよ、張り込みを見られた可能性が高い。」
森下が小さくうなずいた。
「わわわ、私も!何かの人影とスマホの明かりっぽいのは見えました!」
「それは確かですか?」
俺は眉を上げる。
「車の停車位置はLUXEがある小路の入り口ですよね?そんなにはっきり見えるものですか?」
後藤は腕を組み、天井を睨んだ。
「最近のスマホ舐めんなよ?そこらのコンデジよりくっきりしてるんだから。だから、今日の張り込みは打ち切り!中村の行動も不明!屋上には誰かがいる!以上!!」
荒々しい後藤の主張は、静かな部屋にこだました。
そして、俺は一呼吸置いてから口を開いた。
「……まず、中村主任のことは、心配しなくて大丈夫です。」
「は?あんた何言って――」
「実は中村主任、週2で通ってるのに、スタンダードコースの60分にしか入らなくて怪しまれてたんですよ。それ以上のコースは警察官としての倫理が勝ったんでしょうね。」
通常、店に通うたびに欲望がエスカレートするはずなのに、中村は理性や秩序を重んじるが余り、最低限の注文しかできなかった。
それで、データ無しカードを持参し、中で何かを嗅ぎ回る奴と向こうに意識されてしまったのだろう。
「そんな時、橋本から裏引きの誘いがあったそうです。おそらくLUXE側の踏み絵でしょう。あらゆる法規や判例から、今回のケースは裏引きに応じても違法捜査にならないと判断しました。」
後藤は呆れたように息を吐いた。
「……あんた、頭おかしいんじゃないの!?違法捜査じゃなくても、モラルは皆無でしょ。しかも中村に橋本を性搾取させてんだよ?どんな人生送ったらそんなこと出来んだよ!」
「承知してます。ただ、中村主任は迷わず決めていました。LUXEを討つためにはそれしかないと。それに、LUXEの外で橋本から情報が取れるのは大きいと思います。」
森下が不安げに口を開いた。
「でも、もし店側に全てバレてたら……その……危なくないですか?裏引きに乗って、向かった先で監禁とかされる可能性もあるんじゃないですか?」
「その通りです。」と、俺は頷いた。
その返事を受け、「あぁ!?」と、一際大きい声を後藤が上げた。
調べると、裏引きでの検挙例は売春防止法や詐欺が多いみたいですね。




