第31話「サイバー系技官」
翌日の昼。
土曜だけあって、人の気配が薄い庁舎の中を足早に進む。
俺は、静かな廊下を抜けて「SSBC labo」と書かれたプレートの扉をノックした。
「……どうぞ。」
一拍遅れて返ってきたのは、落ち着いた女の声だった。
扉を開けると、モニターに囲まれた空間で数名の女性が端末に向かっていた。
雑談の気配は一切なく、冷却ファンの低い唸りと蛍光灯の光だけが規則正しく空間を支配している。
そして、声の主がこちらに視線を向けた。
赤みを帯びたショートボブに無駄のない動き、銀フレームの眼鏡の奥、鋭い瞳が一瞬だけ俺を射抜いた。
「……水越さん。お久しぶりです。」
俺と目が合うと、彼女はすぐに立ち上がって入口まで来た。
水越千早、28歳。
警察庁サイバー局から現在警視庁SSBCに一時出向している、国内屈指のデジタルフォレンジック技官だ。
「警大でお世話になりました佐藤です。まずは、これどうぞ。」
紙袋を差し出すと、水越は目を瞬かせた。
袋の中には、神田の小さな専門店で買ったバターサンド。
「……まさか、サーブル・ラボのクロモフォリア?」
水越は驚きの表情を浮かべた後、急に頬がほころんだ。
「ラム酒と桜の風味で、あの絶妙な塩加減……くぅっ……天才の仕事だ!早く食べたいっ!!」
「落ち着いてください水越さん。ここ、入口です。」
「おっと……悪い。理性が飛ぶ味だからね。」
苦笑しつつ、彼女は軽く前髪を整えた。
以前より少しやつれたように見える。
激務の影が、その目の下にうっすらと滲んでいた。
俺は部屋の左手の来客スペースに案内され、席につく。
周囲の女性職員たちはちらりとこちらを見ては、すぐに視線を逸らした。
警視庁の中でも、男性職員を直接見ることが稀であることの裏返しであるし、この世界ではそれが自然な反応だ。
「失礼します。」
後ろから若くて背の低い技官が湯呑みを置く。
首から下げた通行証には『若葉くるみ』と書かれていた。
「お茶になります、どうぞ。」
少しの緊張を孕んだ硬い声だが、その動作には小動物的な可愛さがあった。
「ありがとうございます。」と返すと、彼女はわずかに頬を赤らめて戻っていった。
「……相変わらずスコティッシュだね、佐藤君。若葉は男性に慣れていないから、あんまり揶揄わないでくれ。」
水越は苦笑し、湯呑みを手に取った。
「若葉さんは若そうですが、フォレンジックの専門家ですか?」
「いや、フォレンジックは私が仕込み中だ。若葉の専門はブロックチェーン解析、まぁ暗号資産の追跡と言えば分かりやすいか。」
「そうなんですね。さすがサイバー人材の宝庫だけありますね。」
そう言って俺も湯呑みに口をつけた。
「で、今日は例のLUXE案件だね?」
湯呑みを開いた水越が質問してきた。
「はい。概要はメールで送った通りですが、現場でのデータ押収体制を整えたくて。上からは『押収手続きが公に精査されても問題がないレベルで』と命じられています。」
水越は「はは、完璧な押収ね。チェーン・オブ・カストディの担保なら任せてほしいな。」と言い、短く笑った。
チェーン・オブ・カストディとは、物理的・電子的にかかわらず証拠が適切に保管・管理、移転されている一連の手続きや管理のことだ。
これが担保できなくなれば警察組織による証拠品の改ざんを疑われ、最悪の場合、せっかく集めた証拠品が違法証拠となる可能性がある。
「それに刑訴法通りの押収なんて、誰しもやってるよ。それでも現場じゃ秒単位の判断がすべて。手続きのミスがあったとしたら、後でいくらでも報告書を書くさ。それより今回考えるべきは『どこまでデータを保全するか』だよ。」
水越はモニターを付け、フリーハンドで書かれたLUXEのシステム構成図予想を映し出した。
「これ、聞いた情報整理して軽く描いてみた。偽造検体ラベル、一時カードの存在、syringeサービスの件から、おそらく内部ネットワークが資源庁のシステムと繋がってる。つまり、外部から削除コマンドを投げられる可能性が高い。」
水越が眉間に皺を寄せ、低いトーンでさらに続けた。
「データ保全前にネットワークを遮断も考えたけど、遮断した瞬間に保全対象データにアクセス出来なくなる可能性が高い。当日、システム担当が居れば叩いて吐かせればいいかもしれないけど、嘘つかれても面倒だね。」
「じゃあ……店内端末から管理者《admin》権限で他の権限殺して全データ奪取ですか?」
その言葉に、水越が一瞬だけ笑った。
「そうしたいから私に声をかけたんだろう?」
「いえ、ただ、私は水越さんが辣腕を振るう姿を間近で勉強したいだけですよ。」
俺がそう言って笑うと、水越は怪訝な表情を浮かべた。
「……まぁ、いい。情報漏洩対策なんて外ばかり気にしてるだけだからな。中からの攻撃には弱いもんだ。そこを突く。ただ、データの取捨選択と作業端選定がネックだな。」
「丸ごとデータ抜くのではダメでしょうか?」
俺の疑問に、水越はくくっと笑い始めた。
「そうしたいのはわかる。ただ、今回は資源庁サーバー内のデータも保全の対象だろう?種々のログだけでもテラサイズだ。資源庁のサーバーにそんな負荷をかけるのは現実的じゃない。」
そこまで話し続けた水越がいったんお茶に口を付けた。
そして低いトーンで一言付け足した。
「資源庁にバレるぞ。」
この話から、準備編がスタートです。
水越と若葉というキャラクターは結構気に入っています。




