第25話「山崎玲奈:車内にて」
フロントガラスの向こうで、街のネオンが滲んでいた。
エンジンを切った車内は静かで、時計の針の音だけがやけに響く。
「……そろそろ30分か。」
ハンドルに肘をついた後藤に向かって、私が短く呟いた。
「まあ、スタンダードコースの最短は60分みたいだから、まだまだかかるね。」
そう言って後藤はコンビニで買ったコーヒーをすすりながら、苦笑した。
「普通、か……。こういう“普通”はどうも慣れん。」
「そりゃあ、係長だって人生で一度もこういう場所に来たことないでしょ。」
後藤の言葉に、私は思わず顔を顰めてしまった。
「ないに決まってる。行くにしても職務上の立入検査だ。」
「はは、だよね。……でも、こうして中村が潜入してると思うと、なんか変な感じ。」
「一応上司なんだ、職名をつけろ。それにしても変な感じとは?」
「だって、あの子、ああ見えて結構肝が据わってるでしょ。あたしは内心、自分だったらどうしよって思ってた。」
「お前は平気で違法風俗の情報を取りに行ったじゃないか。」
「それは聞いただけ!中まで入るのはまた別物でしょ。」
後藤は笑いながらシートに背を預けた。
私には、その笑いの奥に、微かな緊張が混ざっている気がした。
「……しかし、中村主任も肝は座ってるな。あそこに一人で入るなど。無事であればいいが…」
「係長、もしかして止めたかった?。」
「……まぁな」
自分でも低いトーンの声色になったことがわかった。
これに混じったのは後悔か心配なのか。
「いざとなればボタンで連絡くるし、きっと大丈夫じゃない?」
「……そうだな。佐藤主任の用意したものだしな。」
「佐藤ね。あいつ、何者なんだろうね。」
「ふむ、確かに。落ち着いてるし、警察官としての能力がずば抜けてるな。警大出身が賢いとは知ってるが、現場感覚と存在感はとても新人の男性とは思えない。」
「だよね?あたしら、最初は舐められないように話しかけてたけどさ。普通に男ってだけで緊張するし、何かヘマしたら追及されそうだし。」
「それは分かる。私も、隣に立たれると背筋が伸びる。佐藤主任には、妙な威圧感がある。」
私と思いが共有できたからか、後藤が吹き出した。
「ははっ、係長も同じこと思ってたんだ!」
笑いが広がるが、すぐに沈黙が戻る。
そしてすぐに、窓の外の暗がりに視線を戻した。
「……それにしても、ちゃんと無事に戻ってくるといいけどな。」
「んだね。中村、あの性格だから、少しでも情報を持ち帰るーとか言って無茶しそう。」
「“中村主任”だ。…まぁ、それが一番心配なんだよな。」
ふと腕時計を見ると、長針がひとつ進む音が、やけに遠くに響いた。
「……中村主任が戻ってきたら、まずは何か奢ってやるか。」
「それなら、佐藤に卵茹でさせとこうか」
後藤が素っ頓狂なことを言い出し、私は少しおかしくなってしまった。
「はは、何言ってるんだ?いくら佐藤主任がなんでも出来るからって妄言すぎるだろう。第一男性が茹で卵なんて作るわけ無いじゃないか、しかも“タダ”で。」
「え、あー、いやぁ…」
後藤がバツの悪そうな返事を受け、私の頭は理解してしまった。
「おい!後藤!いつだ!?いつ食べた!」
「2日目の朝だよ。一応階級は下っ端だから早めに行って書類整理でもと思ったらもう佐藤が来てたんだ。そしたら、自分の飯作るついでにって温泉卵と味噌汁と冷奴用意してくれてさ。」
そう言いながらもケラケラと笑う後藤に、私は少しイラッとした。
「なんだそれ!報告を受けてないぞ!味は!味はどうだったんだ!!」
男性の手料理なんて男性区のレストランか、50歳を超えた低ランク男性が稀に開く食堂でしか食べられないものだ。
しかも、どちらも普通の食事の5倍から10倍は払う必要がある。
それをタダで食べたと言う後藤に、怒りと嫉妬が生まれる。
「いやぁ温泉卵が特にうまかったよ。何か特別な醤油かかってて。柔らかさも精液みたいにトロットロで、まぁ精液の実物なんて触ったこと無」
ガンッと目の前の運転席を蹴飛ばした。
「おい!まさかそれ佐藤主任に言ったわけじゃ無いだろうな!」
「いたっ。言っちゃったけど佐藤は気にしてなかったからさー」
悪びれず言う後藤に腹が立ち、私はさらに2回運転席を蹴飛ばした。
「何考えてるんだお前は!佐藤主任じゃなかったらSランク男性への精神暴行で今頃課長以下全員クビだぞ!このバカ!!」
「えっ!?佐藤ってSランクなの!?」
私の叱責に気にしてないといった感じで、後藤が質問してきた。
「…………今のは聞かなかったことにしろ。」
部下の機微情報を喋ってしまった自己嫌悪に陥った。
「ショック受けてるじゃん。じゃあ話かえるけど、係長はなんで男性行方不明を捜査したかったの?」
後藤に気遣われたことはわかったが、話しにくい話題を投げかけられてしまった。
「まぁ、……あんまり深い理由は無いんだが……行方不明になった知り合いが居てね。」
私はそう言いながら“彼”のことを思い出した。
「そっかぁ、ごめんごめん、変なこと聞いちゃったね。」
後藤はそう言って黙ってしまった。
私も胸の痛みが蘇り、何かを話そうとは思わなくなってしまった。
そして、無言のまま、LUXEのビルの方を見続けた。
しばらく経ち、ガチャと突然ドアの開く音と共に中村が助手席に乗ってきた。
「戻りました。」
「大丈夫だったか?」
「はい。ただ、問題が二つあります。」
神妙な顔つきで重々しく中村が言った。
「問題とやらはなんだ?」
「一つは、石田がおそらくあの店舗に軟禁されていること。もう一つは…」
石田が居るというのも驚きだが、もう一つの問題はそれを超えるということか。
私は覚悟して質問した。
「もう一つは何だ…?」
「私、あの店舗にハマってしまいそうです!」
赤面しながらの中村の叫びに、私と後藤は空いた口が塞がらなかった。
次回から佐藤視点に戻ります。




