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1/96〜男女比1:96の貞操逆転世界で生きる男刑事〜  作者: Pyayume
最終章「影法師」

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第160話「山崎玲奈:不在」

車内の空気は、重かった。


ワイパーが一定の間隔でフロントガラスを叩くたび、視界が一瞬だけ白く途切れる。


その規則的な動きが、やけに頭にこびりついた。


後部座席でスマートフォンを握ったまま、私は画面を見ていなかった。


通話はすでに終わっているが、指先だけがわずかに震えているのが分かる。


病院からの緊急の電話というだけで、内容は十分だった。


先程の会話、具体的な言葉はほとんど覚えていない。


「……本部に戻る。」


さっき口にした自分の声を思い出す。


驚くほど、いつも通りの声だったはずだ。


窓の外では、雨が途切れる気配もなく降り続き、信号待ちの赤い光が、濡れた路面に滲んでいた。


今すぐ車を反転させれば、病院に向かうことも出来る。


頭のどこかが、距離と時間を冷静に計算していた。


到着まで何分か、面会は可能か、一目見ることは叶うのか。


いや、間に合わない。


その結論だけが、最初から静かに横たわっていた。


捜査幹部は現場を離れない。


大切な人の死に目に会えなかった先輩を、私は何人も知っている。


それが、私が選んだ仕事だった。


横目に佐藤の姿を見ると、視線は前を向いたまま、私には何も聞かない。


聞かないという選択をしているということが分かるから、私は何も言わなかった。


最期に彼に会ったのはいつだったかと、思い出そうとして直ぐにやめた。


最期に彼に会ったのはいつだったかと、思い出そうとして直ぐにやめた。


良く2人で通った蕎麦屋の暖簾をくぐった時の出汁の香りが、一瞬浮かぶ。


人がまばらのカウンター。


天ぷらを弾く、熱い油の音。


「いつものとこね。」と指を指す店長の笑顔。


そして、向かい合って蕎麦を啜った椅子の感触。


私はそれを押し消した。


思い出せば、病院に向かいたくなる。


頭の中に白い廊下が浮かびかけ、私はそれを押し消した。


代わりに浮かべたのは、事件資料の束だった。


倉橋の取調べ、送致準備、検察との協議、広報対応、上層部への報告等、止められる仕事は1つもない。


「……もうすぐ着くな。」と、自分に言い聞かせるように呟いた。


そして、「佐藤主任。」と短く呼ぶと、佐藤がこちらを見た。


しかし私は数秒、言葉が出なかった。


「今から病院に向かえば、間に合う可能性はある。」


自分でも驚くほど平坦な声だった。


「だが、私が抜ければ、この捜査の指揮は止まる。……この捜査を止めずに進める方法はあると思う?」


言葉を選びながら言ったが、それは自分の中の問いではないと理解した。


数秒の沈黙が続き、佐藤が何か言おうと口を開きかけた。


「いや、違うな。」


私はそれを制し、小さく首を振った。


「これは、私が決めることだ。……本部に戻る。」


運転席の捜査員が無言でアクセルを踏むと、車がゆっくりと動き出した。


胸の奥で何かが静かに崩れ落ちる感覚があったが、私はそれを確かめなかった。


---


濡れたタイヤがアスファルトを擦る低い音とともに、車は警視庁本部の地下駐車場へ滑り込んだ。


外界の雨音が一瞬で遠ざかり、代わりに閉ざされた地下特有の反響音が満ちる。


車が停止しても、誰もすぐにはドアを開けず、エンジン音だけが短く震えていた。


私は先にドアを開け、「……行こう。」と、それだけ言って歩き出す。


靴音がコンクリートに乾いた音を立てた。


後ろから、もう一つの足音が一定の距離を保って続く。


私は決して振り返らなかった。


振り返れば、何かが崩れる気がしたためだ。


しかし、歩き出した直後、ポケットの中でスマートフォンが震えた。


私の足が自然に止まったが、画面を見る前から、誰からの連絡か分かっていた。


数秒だけ呼吸を整え、そして通話ボタンを押した。


「……山崎です。」


専門用語と時刻だけの、感情を排した言葉での、短い報告だった。


それで十分伝わった。



1分と経たずに通話が終わり、画面が暗くなる。


私は数秒、動かなかった。


地下駐車場の白い照明が、床に長い影を落としている。


「……待たせたね、行こうか。」


私は後ろに居るであろう佐藤に、振り返らずに言った。


声は、自分でも驚くほど平坦だった。


再び歩き出すと、靴音が同じ間隔で続く。


エレベーターホールに到着し上昇ボタンを押すも、扉が開くまでの数秒が、やけに長く感じられる。


金属扉が開いたため中に入り、階数ボタンを押す。


扉が閉まり始めた瞬間、自分の口が動いていることに気付いた。


「……死亡確認、か……私は……間に合わなかった。」


私は独り言のように、小さく呟いた。


それ以上の言葉は出なかった。


エレベーターが上昇を始める。


体がわずかに下へ引かれる感覚。


その感覚だけが、現実を教えていた。


それでも捜査は、続く。

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