第158話「備考欄」
6月11日、午前6時58分。
梅雨らしく、朝から激しい雨が降っていた。
古びた集合住宅の廊下は水たまりが随所にあり、湿気を含んだ空気で満ちている。
上から零れる雫が、コンクリートを通して音を響かせていた。
俺たちは倉橋和美と掠れた文字が掲げられた玄関口に立ち、そっとチャイムを鳴らした。
ピンポンというシンプルな音から数秒後、鍵の回る音とともにゆっくりと扉が開く。
薄汚れてすこし破れた部屋着を纏い、髪をゴムでまとめた倉橋和美が現れた。
寝起きではあるだろうが、目ははっきりと覚醒していた。
俺の前に居た山崎が名乗る。
「警視庁の山崎です。倉橋和美さんですね。」
「……はい。」
「あなたに対して、捜索差押許可状が出ていますので、お部屋にあがります。強制のため、拒否権はありませんので。」
そう言って、山崎が玄関に入り封筒から令状を出して、倉橋に示した。
「捜索場所はあなたの居住、対象となる被疑事実はLUXEという店舗における男性監禁の幇助。つまり、男性を監禁しやすくしたということです。お心当たりはありますよね。」
倉橋は山崎の示した令状に視線を落とし、読み始めた。
それが読み終えるまで、誰も口を開かず、雨音だけが続く。
やがて倉橋は小さく頷いた。
「……内容、承知いたしました。どうぞ、お上がりください。」
倉橋に抵抗はなく、俺たちはそのまま倉橋の部屋に促された。
「失礼します。」と俺たちは口々に言いながら、室内に入った。
倉橋の居室内は、とても質素なものだった。
置いてあるのはどう見てボロボロになった古い家具、黄色く変色した畳、日焼けしたカーテン。
生活用品も最低限で、到底医療研究者兼医師の住居とは思えない。
外観通りの部屋だった。
「7時07分、捜索着手。」
山崎の一言で空気が切り替わり、捜索が始まる。
「……こうなるの、待っていましたよ。」
立会人として、部屋の壁に佇んでいる倉橋は聞こえないような小さな声で呟いた。
それは独り言というより、確認のように聞こえた。
俺はその呟きを聞きながらも、捜索を始めた捜査員に目を配る。
書棚、引き出し、押入れ、机、収納ケース。
ビニール手袋の擦れる音と、紙のめくれる音だけが室内に広がる。
倉橋は捜査員を眺めながら、壁際で静かに立っている。
逃げる気配も、焦る様子もなかった。
まるでこの光景を既に何度も想像していたかのようだった。
俺は倉橋の隣に立ち、身の回り品の所在確認のために声をかけた。
「倉橋さん。財布やスマホはどこにありますか?」
「ああ、財布は通帳と共に引き出しに。スマホはこれで良いですか?」
そう言って、倉橋はポケットからスマホを取り出し、俺に手渡した。
「暗証番号は使ってませんので、そのまま開きます。確認なさってください。」
倉橋からそう言われ、スマホのロック解除をするとそのままメニュー画面が開いた。
「確認しました。今回の監禁に関することのやり取りは、何を使っていましたか?」
俺の質問に、倉橋は淡々と答える。
「LUXEとはメッセージアプリのコレです。資源庁や大原とは、こちらのメッセージアプリや偶にファイル送受信をする場合はメール等も。PCと同期をしてますので、そちらでも同じように確認ができます。」
倉橋がそう言って整然と机に並んでいたノートPC、外付けSSD、USBメモリを指さした。
机の近くには既に若葉が居り、データ保全に着手しようとしていた。
倉橋の声が聞こえたのか、若葉がこちらを向いて頷き、静かに言った。
「電磁的記録媒体類、データの保全始めます。」
ノートPCの起動音が響き、画面にPIN入力アナウンスが表示された。
「PINコード、教えてもらえればその分早いんですが、倉橋さん教えてくれませんか?」
若葉が再び振り返って質問した。
「PINは………『25 21 13 01』ですよ。」
倉橋は、一瞬間がありながら、そう答えた。
「空白を入れるのは珍しいですね。……あ、開きました。ありがとうございます。」
そう言いながら若葉が外付けSSD、USBメモリ、を順番に接続しながら、内容を確かめていた。
俺はその作業を見守りながら、倉橋に問いかける。
「先ほど、PINを言うまでに少し暇があったのは、何か気になることでもあったんですか?」
「……何もないですよ。ええ、何も。」
倉橋はそれ以上言葉を続けなかったが、視線を不意に逸らした。
逸らした先は、天袋の方に見えたが、その視線を追うより先に、若葉の声が室内に響いた。
「メッセージアプリ、同期データは丸ごとローカルにあるのでこのまま確認できます。」
俺が若葉の声に反応して画面を見ると、時系列で並ぶ無機質なログが表示されていた。
若葉がスクロールを止め、画面中央に固定された一行を指さした。
「……これ、見てください。」
<次回の出品に1名追加、ランクB商品のため慎重に扱います。>
「ちゃんと送信側の履歴も残っていたんですね。」
「はい。これは押収後に報告書化しておきます。」
そう言って森下が、キーボードを叩く音が続く。
倉橋は壁際に立ったまま、微動だにしない。
そこに、「倉橋さん。」と、山崎が言葉をかけた。
「この指示、あなたが送ったもので間違いないですね。」
数秒の沈黙の後、倉橋はゆっくりと頷いた。
「ええ。私の指示です。……そしてこれは、LUXEで監禁されていた石田翔一さんのことに間違いないです。」
倉橋にはやはり迷が無く、ただ事実を離すだけの声が響いた。
山崎は短く息を吐き、若葉に振り返った。
「他はまだ捜索中だ。若葉、他にも気になることがあれば、簡易的に確認してくれ。」
「はい。」
森下の作業が再び始まり、やがて、<資源庁案件>と名前が付けられたフォルダに到達した。
誰も言葉を発さないまま、若葉が中身を開く。
PDF、Excel、Wordと、整然と並ぶファイル群のうち、厳秘とかかれた最上段のファイルが開かれた。
画面いっぱいに表示されたタイトルには<国家資源安定供給 二次フェーズ移行案>
と記載されていた。
若葉がページを送ると、そこには男性の精液の再利用、犯罪男性の矯正、人口政策との連動案に繋げるための法整備等が記載されていた。
俺は無意識に倉橋を見ると、倉橋は目を閉じ、まるで、ようやく終わったと言っているかのようだった。
その時、別の捜査員の声が上がる。
「山崎係長。天袋に紙資料が多数あります。」
捜査員がそう言って、畳の上に資料を置き始めた。
山崎が手袋越しに一つの封筒を開くと、中から出てきたのは、走り書きのメモだった。
<刑部案件、安定脳波パターン男性確保>
<長官了承済>
<男児覚醒成功 >
山崎の手がわずかに止まり、倉橋の肩がわずかに揺れた。
しかし、誰も何も言わずに、沈黙が再び部屋を満たした。
その時、若葉が低い声を出す。
「……気になる別フォルダ、見つけました。」
モニターに表示されたフォルダ名。
<S-0003921>
俺の胸の奥で、何かが音を立てた。
若葉がクリックして、開かれた画面には、数値の羅列と脳波グラフ、その最上部のプロフィールが記載されていた。
<
被験体番号:01(S-0003921)
性別:男
母:倉橋和美(除籍)
備考:特別管理個体。国外流出防止及び継続観察のため出生時よりSランク指定。
>
備考欄の一行を、若葉が読み上げた。
「特別管理個体。国外流出防止及び継続観察のため出生時よりSランク指定。………制度って、ここまでやるんですね。」
悪意のない若葉の反応に、誰もすぐには言葉を発さなかった。
俺には、画面に表示された無機質な文字が、やけに重く見える。
制度上の説明としては、あまりにも簡潔だった。
『……佐藤さん。あなたは、自分がどうしてSに分類されているか、ご存じですか?』
LUXE捜索前のメンタル検査の日、そう問いかけてきていた倉橋の言葉が思い出される。
<備考:特別管理個体>
俺が最初からSランクだった理由は、これだけで十分だった。
評価ではなく指定、選ばれたのではなく囲われていた。
その事実が、静かに俺の胸へ沈んでいく。
背後で、山崎が低く息を吐き、倉橋はやはり何も言わなかった。
雨音だけが、まだ静かに続いていた。




