第155話「発起人」
福田の沈黙は、明確な重さを持っていた。
これまでの沈黙は、思考のための間だったが、今目の前にある沈黙は違う。
言うべきかどうかを測っている沈黙だ。
現に福田の視線は机に落ちたまま動かない。
中村も画面から目を離し、しっかり福田に正対していた。
室内の音は、空調の低い唸りが何度も聞こえた。
しかし、俺は催促しなかった。
俺の頭も、『沈黙は崩すより待つ方が早い』と言っている。
時間にしたらきっと数秒、だが体感ではもっと長い時間の後、ようやく福田が小さく息を吐いた。
「……あなたは、どこまで辿り着いているんですか。」
「恐らく、あなたの想定より、少し手前です。」
福田の口元が、ほんの僅かに歪んだ。
俺の目からは、それが笑いなのか、諦めなのかは分からなかった。
「そう。」
短い相槌のあと、福田は視線を上げ、真正面から俺を見る。
「……国家生殖資源庁。」
中村の肩が跳ね、キーボードに再び手を置いたのが視界の端に映る。
「本計画は、国家生殖資源庁の極秘研究プロジェクトとして開始されました。国家資源たる精液の安定供給を図り、国家の維持繁栄を目指すものとして。」
何も言わない俺を見据えて、福田は続ける。
「正式な政策ではありません。記録にも残っていません。ですが、確かに存在したプロジェクトです。倉橋からある程度は聞いたのでしょう?」
机の上で、福田の指先がゆっくりと重なった。
「そして当然、私一人で始めたものではありませんから、報告先が存在します。」
室内の空気が、わずかに軋んだ気がした。
俺は静かに問い返す。
「……誰ですか。」
福田は数秒、俺を見つめ続けた。
その視線は、これまでで一番静かで、一番重かった。
「国家生殖資源庁長官……刑部正美です。」
中村の打鍵音が、これまでで一番強く響いた。
一定のリズムを失い、叩きつけるような音に変わっている。
俺は資料に視線を落としたまま、次の質問を選んだ。
「刑部長官は、この計画をどこまで把握していましたか。」
福田は即答せず、視線だけがほんの僅か泳ぎ、すぐに元の位置へ戻った。
「……把握、という言葉の定義によります。」
「定義は簡単です。」
俺は顔を上げた。
「男性の監禁、密輸した薬物の投与、違法な精子採取、男性奉仕、人身売買、そして再三にわたる非人道的な実験。…それらが行われていることを認識していたかどうかです。」
福田は、ゆっくりと瞬きをした。
その一拍だけ、ほんの僅かに人間らしい間が生まれたが、次に開いた瞳には、再びあの均一な静けさが戻っていた。
「……はい。」
福田の口をついたのは、短い肯定だった。
「少なくとも、計画の骨子と成果については、定期的に報告していました。」
俺は間を置かずに重ねる。
「成果とは何を指しますか。」
「出生数の推移、提供量の推移、遺伝的適合率、被験男性の再教育成功率、重要な顧客。」
福田は淡々と、まるで研究報告書の目次でも読み上げるかのように列挙した。
「副作用については?」
ほんのわずかに、福田の呼吸が深くなった。
「重大インシデントとして報告していました。」
「生命活動への異変、後遺障害、精神障害、廃人となった方もいるのに、それを重大インシデント…ですか…。」
俺はその言葉を繰り返したが、福田は否定しなかった。
そして、数秒の沈黙の後、静かに言う。
「……あくまで……統計資料として。」
部屋の空気が再び凍り、中村の指が止まった。
「刑部長官は、計画の中止や修正を指示しましたか。」
俺の質問に、福田は首を横に振った。
「いいえ。……そもそも、そのプロジェクトの発起人は……刑部長官ですから。」
福田の言葉が、空調の音よりも遅れて耳に届いた気がした。
発起人という単語が出た瞬間、倉橋との取調べが俺の脳内で意味を結んだ。
研究開始時の責任者をはぐらかした際の、あの倉橋のなんとも言えない表情とともに。
俺は数秒遅れて息を吐いた。
「発起人。」
自分の声が、やけに遠く聞こえる。
「つまり、この計画は一部の人間の暴走ではない。」
「その通りです。」と、福田は迷いなく答えた。
「法の外側に研究の枠組みを作り、協定で防護壁を張り、研究者に首輪を嵌め、国益とならない不要資源を有効活用した。…国家のための、全国民に資する秘匿案件です。」
福田は静かに呟いた。
「刑部長官は、違法性も認識していましたから、この偉大なプロジェクトの記録は残さない方針でした。」
部屋の温度が一段下がった気がした。
俺はゆっくり頷いた。
「分かりました。しかし、この事件は、組織犯罪です。……もちろん、国家生殖資源庁長官を含む…です。」
俺の言葉が、部屋の中央に落ちた。
福田は数秒黙ったあと、静かに言った。
「……そう定義するのが、あなたの仕事でしょう。…そして、定義だけでは意味をなさない。」
福田の言葉は肯定でも否定でもなかったが、それは限りなく肯定に近かった。
俺は椅子にもたれ、初めて背中を預けた。
長かった取調べの終わりが見えたのを感じながら。
「本日の取調べは、ここまでにします。」
中村の打鍵が止まり、部屋に静寂が戻った。




