第152話「臨界点」
6月10日、午前8時42分。
国家生殖資源庁の正面玄関は、いつもと変わらない朝を感じているのだろう。
通勤時間帯をわずかに外したその時間、構内を行き交う職員の足取りは淡々としていて、そこに特別な緊張は見当たらない。
福田弥生は、いつも通りの時間に庁舎に入ってきた。
皺一つ無い黒のパンツスーツ、胸元に輝く資源庁の徽章、きっちり固められた頭髪。
警備ゲートの前を抜け、フラッパーに向かう姿は習慣の延長だった。
違っていたのは、彼女がゲートを通るための通行証入れを取り出さなかったことだけだ。
フラッパーを通ろうとする前、福田は立ち止まり、ゆっくりと後ろを囲んだ俺たちに向かって振り返った。
俺が一歩前に出て、警察手帳を取り出し、旭日章と身分証が見えるよう福田に示した。
「警視庁の佐藤です。福田弥生さんとお見受けしますが、お間違い無いですか?」
俺の言葉に福田は頷きはしなかった。
「そうですが、何か?」
「あなたに逮捕状が出ています。被疑事実は今、世間を賑わせているLUXEという店舗での男性の監禁、そしてその前提となった詐欺に対する指示をしたことです。」
そのまま福田を壁際に誘導すると、抵抗も反論もせずに大人しく従っていた。
俺は再び壁際で逮捕状の氏名を確認させたが、福田はやけに落ち着いていた。
読み上げ確認が終わると、福田は一瞬だけ俺を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「……そうですか。」
やはり、驚きはなく、否定も、抗弁もない。
ただ、どこか確認が取れたような、そんな表情だった。
「私は自分の仕事に誇りを持っていますよ。国益を担っていると。そうは思わない?」
福田の問いに、俺は答えなかった。
隣にいた後藤が手錠をかけるとき、福田の手が微か震えていたのを確認した。
福田は手錠をかけられた両手を一度だけ見下ろした。
驚きではなく、確認するような視線だった。
「庁舎の中で目立つのは避けたいのだけれど。」
福田が小さくそう言うと、後藤が短く答える。
「既にある程度人目を引いていますから諦めてください。このまま裏の駐車場まで行きますので。」
福田は頷きもせず、ただ前を向いた。
玄関ホール脇の裏口を出た瞬間、外の空気が少しだけざわついた。
資源庁の駐車場には報道関係者が犇き合い、真っすぐ歩けないほどのフラッシュが焚かれた。
記者と思しき声で、いくつもの質問が無遠慮に投げられる。
しかし福田から声は上がらない。
そして、その中を、福田は一度も俯かず、ただ背筋を伸ばしたまま歩き続けた。
護送車の扉の前に立つと、後藤が軽く乗車を促す。
福田は、ほんの一瞬だけ庁舎を振り返ると、その視線は建物の上層階へ向けられていた。
その様子は、まるで誰かが見ていることを知っているかのようだった。
そして車に乗りながら、福田は小さく、それでいて安堵にも似た長いため息をついた。
「……意外と早かったですね。」
誰に向けた言葉なのか分からないほどの小さな声だったが、確かにそう言った。
俺は助手席に乗りながら、思わず眉をひそめた。
「……何の話です。」
問い返すと、福田はわずかに口元を緩めた。
「……迎えに来るのが、ですよ。」
車内の金属音が重く響き、扉が閉まる。
外の喧騒が一瞬で遮断され、狭い車内に静寂が落ちた。
対面の席に座った福田は、窓の外を見たまま口を開く。
「もっと時間がかかると思っていました。」
「…先ほどから、何の話をしているんですか。」
俺は少し苛立ちを感じながら、質問を返した。
「……この国が、どこまで見て見ぬふりを続けるのか。……ずっと興味があったんです。」
俺は何も答えなかったが、福田は言葉を続ける。
「……あなた方が動いたということは、ここが臨界点だということでしょう。」
福田の視線がゆっくりとこちらに向き、初めて、はっきりと俺を見た。
「……少し、安心しましたよ。……これで、やっと話ができます。」
その言葉に、わずかな寒気が走った。
たった今逮捕された人間の言葉とは、到底思えなかった。
福田は静かに続ける。
護送車がゆっくりと動き出し、庁舎の建物が後方へ流れていく。
福田は窓の外を見つめたまま、まるで独り言のように呟いた。
「佐藤君。……異分子の刑事がどこまで掴んだのか、見せてもらうとするわ。」
後ろを向いていた俺の背中に、じわりと嫌な汗が滲んだ。
自分の表情が一瞬だけ固まったのが、自身でも分かった。
そんな俺の表情を見てか、福田は小さく笑った。
「……その表情で私の仕事の成果が分かったわ。」
その言葉に、車内の空気が一段重くなる。
後藤がルームミラー越しにこちらを見たのが分かった。
「私の仕事はね、国益のための記録……」
福田は窓の外を見たまま続ける。
「誰が何を考え、何を判断し、どこで止まり、どこで黙るのか。全部、数字と報告書になる。」
信号で車が停止すると、赤信号の光が車内に差し込み、福田の横顔を赤く染めた。
「だから分かるのよ。組織がどこで目を逸らしているか。」
俺は黙ったまま、次の言葉を待った。
「LUXEの件で動いたのが山崎の娘じゃなく、貴方だと知った時点で、流れが変わった。」
「……さっきから何を話しているのですか。」
「分からない?……組織はね、危険度で担当者を決めるの。」
福田はようやく俺と視線を合わせた。
「漸進で良い案件なら、穏当な人間が行く。でも、止められない案件には、止まらない人間に担当させるのよ。………あなたは後者。」
福田の言葉は静かだったが、俺の心臓がそれに一拍遅れて脈を打った。
「……随分、私を買われているんですね。」
どう反応していいか分からない俺の言葉を見透かしたかのように、福田は首を横に振った。
「違うわ。……恐れられている……いや、恐れられているの。」
車が再び動き出すと、庁舎はもう見えなくなっていた。
「ねえ佐藤君。…ここから先は、あなたの仕事じゃないかもしれない。……あなたが追っているのは、事件じゃない。」
福田は穏やかな声で言った。
「……何を言っているんです。」
俺の声が上ずったのを見ていた福田は、少しだけ目を細めた。
俺はすぐに言葉を返せなかった。
制度という単語が、妙に現実味を帯びて胸の奥に沈む。
やっと「……制度?」と一言だけ絞り出した俺に、福田は小さく頷いた。
「事件は切り取られた断面。あなたが見ているLUXEも、男性DB流出も、あなた自身の出自も……全部、同じ線の上にある。」
後藤の鋭い視線が、背中に刺さっているのが分かる。
だが、俺は何も言えなかった。
「ねえ佐藤君。この国が、男性を国家資源と呼び始めた日を知っている?」
福田の声はあまりにも穏やかだった。
「最初はね、誰も疑問に思わなかったの。」
窓の外の街並みが流れていく。
「男女比が大きく差がある人類と言う種族、人類の発展のための医療の進歩、そして国を支える人間《女性》と、国を支えるのに必要な資源《男性》。」
福田は指折り数えるように、静かに言葉を並べた。
「全部、正しい理由……だからこそ止まらなかった。」
その言葉は抑揚がかけらもなく、感情を使い切った人の声に聞こえた。
「そして気付いた時には、誰も社会全体を見ていなかった。……だから私は『誰が、どこで、どの線を越えたのか。』、判断しながら、推進しながら、何でも記録したの。」
福田の視線は、冷たくも温かくもなく、ただ真っ直ぐだった。
無意識に唾を飲み込む音が、自分でも分かるくらい大きく聞こえた。
「……それを、これから話すと言っているのですか?」
福田は、ほんの僅かに口元を緩めた。
「いいえ。……ただ、安全な場所で証明するだけ。」
福田の視線は、護送車の天井の一点に止まっていた。




