第143話「悶々」
6月2日、午後1時1分。
「戻りました。」
そう言って俺は、執務室の扉を開いた。
部屋には珍しく、山崎、後藤、中村の三人ともが揃っていた。
「お疲れ。倉橋の供述状況はどうだ?」
山崎がそう言いながら、缶コーヒーを俺に投げてきた。
俺はそれを受け取り、開けもせずに机の上へ置いた。
「話すべきことは、ほとんど話してくれたように思います。」
先ほどの取調べで、倉橋和美は驚くほど多くを、正確に淡々と、語った。
3人の視線が、同時にこちらに向く。
「研究の経緯も、手法も、薬の話も、協定第11号の話もです。それに資源庁の構造と、福田や祖母井の関与も、倉橋が話せることは一通り……」
倉橋の供述内容はどれも曖昧さはなく、今把握している捜査情報とも矛盾しない。
論理は通っているし、自己弁護に聞こえる箇所もなかった。
だが、どこかで、納得していない自分がいる。
「それにしては煮え切らない顔してんじゃん?」
後藤に指摘されて、俺は再度自分の納得しない気持ちと向き合った。
自分自身に何度も問いかけてみたが、なぜ納得できないかの答えが出なかった。
取調官として見れば、供述としては十分すぎるほどだ。
調書に起こしても、不自然ではないだろう。
「何というか、釈然としなくて…筋は通っているんですけど…」
そう言いながら俺は、取調べ中の彼女の視線を思い出していた。
ある質問を投げかけたとき、ほんの一瞬だけ揺れた、あの視線。
倉橋に対して『最終的に、誰が判断していたのか』と問うた時、倉橋は言葉を選んだ。
答えは返ってきたが、核心には触れていないような気がした。
「それって具体的にはどんな質問なんですか?」
中村が首を傾げながら質問をした。
「2つあって、1つはSPと交渉していたという発言があったので、その具体的な内容について。もう1つは、男性の選定のジャッジをしていた人物を教えて欲しい、という質問です。」
「別に話してもよさそうな内容だけど、なんで何でしょう。」
中村の反応に俺も心の中で同意した。
推測の形でしか語られず、確定的な言い回しは避けられていた。
あれだけ詳細に話していたのに、その点は知らない、というのは不自然ではないか。
倉橋はただの研究者ではない。
非人道的な男性実験の中核を為す人物だ。
倉橋は嘘をつくなら、もっと上手くできたはずだ。
俺は、取調室の中での倉橋の姿を思い返した。
質問には正確に答え、言葉を濁すこともなかった。
「倉橋は、研究者としての説明も、被疑者としての自覚も、どちらも欠けていませんでした。それは、我々から逃げていないと思っています。」
それでも、ある話題に触れた瞬間だけ、倉橋はわずかに言葉を遅らせた。
「でも、語らなかった部分があります。そこだけは、現時点で越えられない一線なのかもしれません。」
山崎が、ゆっくりと頷いた。
「なら、次は証拠の番だな。」
少なくとも、同じ形で倉橋に聞けることは、もう残っていないだろう。
そして、今の供述の答えはまだ手付かずの証拠品解析から、導かれるのかもしれない。
山崎の発言に確信めいたものを感じながら、次に進むべき手順を頭の中で整理し始めていた。
倉橋の沈黙が意味するものは、証拠品解析の先にしか、現れない。
この事件の核心は、語られなかった判断にある。
そんな感覚だけが、はっきりと残っていた。




