第138話「薬機法」
6月2日、午前9時17分。
朝の庁舎は、夜とは別の静けさを持っていた。
人の出入りはあるが、どこか張り詰めた空気が抜けきらない。
動き出した捜査が、引き返せない段階に入ったことを、理解しているようだった。
俺は、逮捕した祖母井、大原、その他闇バイトに関与していた女性たちの送致を終え、庁舎の一角にある取調室へ向かっていた。
同行しているのは、倉橋和美と、前回の取調べと同じ立会補助の捜査員だ。
倉橋の取調べを再び俺が担当する理由は明確だった。
俺になら、何でも話すだろうと判断した御厨の決定によるものだ。
今回は、「男性であるかどうか」よりも、『倉橋が何を語るか』を重視した、という理屈らしい。
取調室へ向かう廊下で、俺はあえて雑談をしなかった。
ここで言葉を挟めば、倉橋の覚悟が揺らぐ可能性がある。
それを恐れたのも勿論あるが、大きな理由は倉橋の決意を尊重したかったためだ。
鍵を開け扉を押すと、中には机と椅子、PCしかない。
取調べ中の事故防止のため、余計なものは一切排されている。
それは同時に、取調官にも逃げ場が無いことを意味していた。
倉橋に奥へ座るよう手で示すと、彼女は一拍置いてから、静かに椅子へ腰を下ろした。
今日も白衣は着ておらず、淡い色のブラウスに、簡素なスラックス。
研究者でも、被疑者でもなく、街中に溶け込む普通の女性の装いだった。
だが、その表情には、取調べを受ける人間特有の動揺がない。
背筋を伸ばし、両手を膝の上に揃え、静かに前を見ている。
逃げ道を探す視線も、言い訳を組み立てる沈黙も、そこにはなかった。
立会補助者が内線で取調べ開始を告げると同時に、俺は倉橋の正面に座り、PCの画面を開いた。
「それでは、倉橋和美さん。取調べを開始します。」
形式的な前置きを口にしながら、俺は彼女の目を見る。
その瞳は、すでに決まっていた。
「前回の取調べは参考人として行いましたが、倉橋さんから提出いただいた証拠品、ならびに現在までの捜査状況を踏まえ、本日は被疑者として取調べを行います。」
俺の言葉に、倉橋は一瞬だけ目を伏せ、そしてはっきりと頷いた。
「……はい。お願いします。」
それは助けを求める声ではない。
自分のしたことを、最初から最後まで話す覚悟を示す、短い返答だった。
「それでは、2点説明します。1つ目、供述自由権についてです。話したくないことは、話さなくて構いません。」
倉橋は無言で頷いた。
「2つ目です。あなたが被疑者として扱われる理由は、薬機法に定められた正式な手続きを踏まず、医薬品を所持・使用した点です。正式名称は『医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律』ですが、以後は『薬機法』と呼びます。」
「わかりました。取調べをお願いします。」
そう言って、倉橋は軽く頭を下げた。
「前回は、倉橋さんの経歴や、祖母井さんの犯罪行為について伺いました。今回は、倉橋さん自身が行っていた……研究についてお話を聞きたいと思います。」
「わかりました。」
「まず、弁天島の施設内の状況や、前回の会話で少し話題に出た男性の研究について聞きます。その研究の経緯と目的を教えてください。」
俺の言葉に、倉橋は目を真っすぐと俺に向けて話始める。
「資源庁は国家資源の安定供給を至上命題としています。その中で、医学的に何かアプローチできないかと考えていたそうです。もう20年以上前の話ですが…」
「その当時から、精液の安定供給が難しいと資源庁は考えていたんですか?」
「はい。現在、男性は最低でも月1回の精液提供が義務付けられています。1回の射精で、理論上は人工授精が3回試行でき、成功率はおよそ30%とされています。」
倉橋は、一度呼吸を整えて続けた。
「単純計算では、男性1人あたり年間10人前後の妊娠が見込める、という前提です。」
「教科書等でもよく見る人口安定理想値の話ですね。」
「ええ。しかしそれは、すべての男性が健康で、義務を果たせる場合の理想値です。」
彼女の声は淡々としている。
「実際には、提供義務を果たさない方、果たせない方、身体的・心理的な相性の問題もあります。その分、実効値は下がり、人口減少に直結します。」
「それはそうでしょうが、急にがくんと下がることは無いのではないでしょうか。」
「いえ、資源庁は社会問題や環境問題……それに災害等によって簡単に下がると考えていたようです。そして、少なくとも兆候が出ていると判断しました。そして、それを防ぐために、『義務を果たさない男性に、義務を果たさせる』という計画を立てました。」
「それを医学的に実現しろと。」
「はい。私に、その役目が回ってきました。前回お話しした通り、私は精液の不正使用を理由に、資源庁の指示に逆らえない立場に置かれていましたので…」
「つまり、資源庁が抱えている重要課題への対策を命じられたと。一体それは、誰の指示ですか。」
「福田と祖母井です。」
即答だった。
「ただ、その医学的アプローチというのは手法にこだわらないという指示だったため、人権侵害と受け取られかねない研究となるのは目に見えていました。そのため、知っている職員はごく少数だったと聞いています。」
「ではなぜ、その2人だったんですか。」
「資源庁の中枢であるシステム関連が、彼女たちの管轄だったからでしょう。」
倉橋は、少しだけ視線を落とす。
「男性DBは閲覧・操作が厳重に監視されていますが、システム担当部署であれば、不審に思われにくい。案件の内容を知る人間を減らすには、最初からデータを触ることが仕事の人間を選べばいいということですね。」
「理屈はあってますね。それで、どんな方法を?」
「……私個人としては、男性の脳波に着目しました。……勿論、佐藤さんのことを考えていて、ですが。」
「……そう言ってましたね。」
「ええ、それで…私は脳活動の制御によって、衝動性や拒否反応を抑制できる可能性があると考えました。人間の行動は全て脳が起因しているといっても過言では無いですから。」
一拍置いて続ける。
「併せて当時少し社会問題になっていたのは、素行不良の男性です。現在は問題として報道されることはほぼ無いですが、昔はもっと情緒をコントロールするのが苦手な男性が多かったのです。ですから、資源庁は『扱いやすくする』という名目で、研究を進めようとしました。」
「社会問題にまでなっているなら、正規の研究として進められたのではないですか。」
「できませんでした。」
倉橋は首を振る。
「その研究はその人のアイデンティティを歪めることです。非人道的であり内部から強い反発があったそうです。」
自身のアイデンティティが一度壊れかけた俺は、その言葉にひどく憤りを感じた。
「そのため、正規予算は下りず、余剰の消耗品費や、庁外法人の資金を流用しました……と聞いています。」
倉橋の話を聞きながらも、思わず握った拳に血が滲む。
だが、今の俺は警察官であり、取調官だ。
この憤りも胸にしまい、質問を続けなければいけない。
そして、俺は、次の質問を口にする準備をした。




