第136話「任意提出」
倉橋和美の自宅は、朽廃しているかのような佇まいだった。
都内の集合住宅だが、駅からは遠く、築年数は相当経っている。
建物入り口の掃き掃除がしてあることで、辛うじて住居として認識できた。
この乏しさの中、倉橋が住んでいるという事実に少し寂しさを感じた。
「……ここに本当に住んでいるのですか。」
俺は思わず小さく呟いた。
「ええ、私は元より犯罪者。贅沢を言うことは出来ません。それに、仕事や小間使いで帰れないことも多いですから…」
「だからと言って、これは…」
言葉の先を、俺は飲み込んだ。
ここに国家資源研究で成果を上げている医師が住んでいるとは、誰も思わないだろう。
「この建物、管理会社は最低限しか入っていません。見ての通り安いので。」
倉橋は淡々とそう言って、鍵を取り出した。
その手は震えておらず、すでに覚悟を決め切った人間の動きだった。
「佐藤さん、一つお願いが。」
鍵を差し込みながら、倉橋がこちらを見ずに言った。
「中には入らないでください。私が手帳を取ってきますので。」
その言葉は、拒絶というより、自分の意思で差し出すという決意を感じた。
「ええ、元よりそのつもりです。お願いしているのは、任意提出なので。」
任意性が担保されなければ、証拠能力を否定される可能性がある。
別件ではあるものの、被疑者になりえる者の自宅に警察が上がり込み、領置した証拠品を認めるほど、祖母井の弁護士は甘く無いだろう。
俺は一歩下がり、エントランスの柱にもたれた。
同行していた山崎係長も何も言わず、腕を組んだまま視線を周囲に走らせる。
また資源庁の横槍が入らないか、周辺警戒のためで、それ以上でも以下でもない。
ガチャリ、と古い金属音がして扉が開き、倉橋は一度だけ振り返った。
「……大丈夫です。逃げませんから。」
「承知しています。」
俺の答えに満足したのか、倉橋は小さく息を吐き、扉の向こうへ消えた。
ギィっと扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
倉橋が扉の向こうに消えてから気づいたが、都内とは思えないほど、周囲は静かだった。
遠くで車の走行音が聞こえるだけで、人の気配はほとんどない。
「……佐藤主任の言うとおり、倉橋の腹は決まったようだな。」
山崎が低く呟いた。
「はい、祖母井と大原の身柄を押さえたことで、自分の罪と向き合え始めたのかもしれません。この家からも、良心の呵責に苛まれている雰囲気を感じます。」
俺は、視線を建物の壁に向けたまま答えた。
「だろうな。自分が幸せを感じることが微塵もあってはならない、そんな思いを抱え続けているのかもな。」
そう言った山崎の顔は、どこか複雑な表情を浮かべているように見えた。
「…係長。待ってる間の雑談なんですけど、資源庁の弁護士がした準抗告の件、どうなりましたか。」
「あぁ、もう報告書は仕上げて投げた。だから今は結果待ちだな。」
「お疲れ様でした。朗報を待ちましょう。」
それ以降、会話が途切れた。
数分いや、実際には一分も経っていなかったのかもしれない。
だが再び、扉の開く音がするまで、異様に長く感じた。
ようやく倉橋が出てきた時、手には色褪せた手帳を持ち、小脇に紙の資料を抱えていた。
手帳は革張りで傷があるものの、雑に扱われた形跡もない。
「これです。どうぞ。」
倉橋がそう言って、手帳を差し出した。
まるで、そこに書かれているものの重さを表すように、その手が震えていた。
「……倉橋さんが手帳に書いたものの意図について、お聞きします。」
俺は視線を手帳から外さずに言った。
「この手帳は、倉橋さんが個人的に記録していたもので、業務命令による作成物ではない。という理解で合っていますか。」
「はい。」
倉橋ははっきりと頷いた。
「私的なメモや、日記に近いものもあります。共有も、提出も、義務付けられていないものです。」
「あくまでこれを見るのはご自身のみ、と言うことですか。」
「ええ。誰かに見せるつもりも、ありませんでした。」
その言葉に、山崎係長が小さく息を吐いた。
「……提出、感謝致します。」
その声を受け、俺はようやく手帳を受け取った。
指先に伝わる革の感触は、妙に乾いているように感じた。
「その42ページと、149ページ目に、取調室で言われた記録が書かれていました。」
俺は指示されたページを開き、ざっと内容を確認する。
〈祖母井に資源庁身分が外れることを伝達。資源庁の身分を外れても研究をするように言われた。〉
〈祖母井から男性DBの書き換え方法のメール受。用途不明につきメール削除。〉
倉橋のメモは、今のままだと日付が分からないが、前後のメモ等を精査して証拠化すれば使えそうに見えた。
「……倉橋さん。この手帳、確かに預かります。ありがとうございます。」
俺は手帳を胸元に下げたまま、彼女を見た。
「……いいえ、お役に立つものかはわかりませんので謝辞は不要です。……あと、これを。」
そう言って倉橋は、わきに抱えていた紙の束を手渡してきた。
「これは、一体なんですか?」
山崎の疑問に、倉橋は伏し目がちに答える。
「……私が甘南備やLUXE等で使っていた薬の一覧です。」
その言葉に、空気が一瞬、張り詰めた。
「……どういうことですか。」
山崎が問い返す。
「研究目的で使っていた薬です。薬機法等により、薬の使用実績は適正に管理しなければいけないのですが、研究目的で大原が仕入れていた薬は管理されていませんでした。」
「で、倉橋さんはいつ何を使っていたかを記録していたということですか。」
山崎の問いに、倉橋ははっきりと頷いた。
「研究の上でも必要でしたので……男性被験者に対して使用したもの、投与量、使用時期を整理しています。」
俺は手帳とは別に、その紙の束を受け取った。
だが、ざっと目を通したが単なるメモではないことが分かった。
「……市販薬ではありませんね。」
「ええ。中には未承認成分、研究用試薬もあります……最終的にはリスペリドンとプロポフォールが多くなっています。」
「重要な資料の提出、ありがとうございます。……仕入れは正規のものでは無いというお話も助かります。」
俺がそう言うと、倉橋は再び目をそらした。
「この一覧を佐藤さんにお渡しする意味、どう使われるか……覚悟していますので、是非有効に使ってください。」
俺は、その言葉にすぐ返事が出来なかった。
倉橋から提出されたものは、想像以上に重いと感じたからだ。
「……分かりました。捜査の中で、適切に使わせてもらいます。」
ようやく、それだけを口にすると倉橋は、小さく頷いた。
その表情に安堵はなく、ただ受け入れきった者の静けさだけを感じた。
「係長、戻りましょう。」
俺の言葉に、山崎が無言で頷く。
「倉橋さん。今日は、これで失礼します。」
立ち去る直前、俺は一度だけ振り返って挨拶をした。
「はい。失礼いたします。」
そう言いながら倉橋は、深く頭を下げた。
建物を離れて歩き出したところで、俺は再度手帳と資料を見た。
これは、まだ証拠としては弱いと思う。
しかし、他の情報や捜査結果と組み合わせることで、核心に迫れる可能性がある。
そう感じずにはいられなかった。




