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1/96〜男女比1:96の貞操逆転世界で生きる男刑事〜  作者: Pyayume
第十章「本 星」

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第134話「二重身分」

取調室の扉の前で、俺は一度だけ足を止めた。


白い壁、無機質な床、灰色の扉、ここまでは、いつもと同じだ。


違うのは、この先にいるのが、重要な参考人であり、自分の担当医であり、そして実母だということだった。


その三つを同時に指す存在を、俺は他に知らない。


「……入ります。」


誰に言うでもなくそう告げ、俺はノックをした。


すぐに立会補助の捜査員が扉を開け、促されるまま中へ入ると、倉橋和美はすでに席についていた。


スーツ姿で背筋の伸びた姿勢と、机の上で重ねられた手は、問診を受けていた時の姿とは、どこか印象が違って見える。


倉橋は俺を見るなり、小さく息を吸った。


「……佐藤さん。……こんなに早く声がかかるとは思っていませんでした。」


その呼び方が、胸の奥にひっかかる。


医師としての距離感なのか、母としての遠慮なのか、これまでの関係と何ら変わらないという意思表示なのか、俺には判断がつかなかった。


俺は椅子に腰を下ろし、視線を逸らさないまま口を開く。


「倉橋さん、お忙しいところご足労ありがとうございます。……早速で申し訳ありませんが、いくつか、……確認したいことがあります。」


形式的な言葉を選んだつもりだったが、自分の声が思ったより低いことに気づく。


倉橋は、ゆっくりと頷いた。


「ええ、分かりました。……私が答えられることであれば、何でも。」


その瞬間俺は、倉橋が既に全てを話す準備をしていることを理解した。


逃げる気もはぐらかす気もない、その雰囲気が、逆に怖かった。


「では、お言葉に甘えて……まず、経歴から教えてもらえませんか?」


倉橋は一度だけ視線を落とし、過去を手繰るように語り始めた。


「幼少期は、都内の貧困家庭で育ちました。小学生くらいの頃ですね……母が、おそらく金銭目的でパートナー制度を利用し、大原芥子と契約を結びました。」


淡々とした口調だったが、「おそらく」という言葉に、わずかな棘が混じった気がした。


「その関係で、一時的に大原芥子が第二母親として生活を共にしていた時期もあります。」


過去を説明しているはずなのに、感情が極力削ぎ落とされているのが分かった。


「その後、母は離縁し、私は東京科学大学に進学しました。……医学部生時代にあなたを身ごもり、出産後は、男性の脳波研究と生殖本能に関する研究を続けながら、医師兼研究者として勤務していました。」


俺は黙って聞いていた。


ここまでの話には、否定も肯定も挟む余地はない。


「前にもお話しした通り、私は自分の身分を選べませんでした。国家生殖資源庁と、厚生労働省。2つの身分を同時に与えられていたのです。」


「……2つの身分、というのは?」


問い返すと、倉橋は不思議そうに首を傾げた。


「特別な理由を説明されたことはありません。ただ、『そうなるから』とだけ言われました。」


全く説明されないというところに、違和感を覚えながらも、俺はそこを追及しなかった。


「研究関連の業務では資源庁職員として、医師として勤務する際には、厚生労働省名義で発行された入館証を使うよう指示されていました。」


「それは、今も続いているんでしょうか?」


「いいえ。」


即答だった。


「佐藤さんが目覚めて以降、脳波研究が飛躍的に進展しました。精液を効率的に収集できる脳波パターンが確立され、資源庁職員としての役割は終わった、という判断です。」


「……それは、いつ頃ですか。」


「2年から3年ほど前ですね。現在の身分は、厚生労働省所管・独立行政法人国立病院機構に所属する医師。それ以上の身分はありません。」


俺はさらに質問を重ねる。


「資源庁の職員には徽章が配られると思いますが、倉橋さんが配られた資源庁の徽章は今も持っているのでしょうか?」


「既に返却しました。」


倉橋は即座に答え、さらに補足を続ける。


「裏側に通番が刻印されていましたから、管理されているんだと思いますよ。貸与状況も、記録されているでしょう。」


俺は呼吸を一度整えた。


「……わかりました。ちなみに、祖母井さんは、あなたの身分変更を知っていますか。」


「当然です。身分が外れる際に、直接ご挨拶しましたから。……まぁその後も研究者というか医師というか、小間使いのような関係が続きましたけど。」


倉橋の話し声が、徐々に小さくなっていったのが分かった。


「その小間使いというのは……もしかして、LUXEや甘南備が関係ありますか。」


俺の言葉を受け、倉橋は視線を逸らさずに頷いた。


「はい。男性への服薬や医療機器の使用は、私が関与していました。」


倉橋が一拍置いて、さらに続ける。


「正確には、福田と祖母井から『資源庁の身分ではないから、自分から率先して手伝うんだよな?』と言われました。……当然私に拒否権等ありません。それに…」


倉橋の声は、異様なほど静かだった。


「……脳波研究を続けていた時点で、……私のモラルは摩耗していましたから。」


倉橋の言葉が、机の上に静かに落ちる。


声量が落ちたわけではない。ただ、抑揚が消えていた。


俺は沈黙が必要だと直感的に分かり、すぐに次の質問を投げなかった。



「……抵抗しなかった理由は、それだけですか。」


倉橋はほんの一瞬だけ唇を結び、「いいえ。」と短く、しかしはっきりと否定した。


そして倉橋は、視線を俺から外し、壁の一点を見つめるようにして、口を開いた。


「……理由は、もう一つ。」


一旦言葉を区切った倉橋は、逃げ場を探すような仕草は一切見せなかった。


「……あなたを、生かしたかった。」


俺は自分の胸の奥で、何かが軋んだのが分かった。


「研究という名の実験を続けて成果を出し続けなければ、あなたは成功例ではなくなる。……そうなれば、次は別の方法が取られる。……その時、真っ先に検体となるのは住田さんの脳波パターンをトレースできた貴方です。」


もしそうなっていたら、俺がもっと乱暴で、取り返しのつかない方法で、資源庁にいいように使われていたということだろう。


倉橋の言葉が途切れたあと、取調室に沈黙が落ち、空調の低い音だけがやけに大きく聞こえた。



俺は、一度だけ息を吸った。


「……福田と祖母井は、その成功例をどこまで把握していましたか。」


俺がそう問うと、倉橋の指先が、わずかに震えた。


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