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1/96〜男女比1:96の貞操逆転世界で生きる男刑事〜  作者: Pyayume
第九章「空 蝉」

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第130話「立ち上がるモノ」

6月1日、午後4時12分。


窓から差し込む光は、もう夕方の色を帯びていた。


俺は一日ぶりに自分のデスクに座ったが、随分久々に座ったような感覚があった。


結局、祖母井や大原に加え、中村が潜入していた闇バイト実行犯も身柄を押さえたため、捜査本部はてんやわんやのお祭り状態だ。


俺はやるべき事が山積みなのに、手は止まったまま全く動かない。


モニターに映る書類の文字が、意味を持たない記号の列にしか見えない。


周りの声から切り離された感覚で、頭の中がひどく静かだった。


ただ、何かがごっそり抜け落ちたような感覚だけが残っている。


自分が大切にしていた前世の記憶は、御厨の記憶だ。


自分が大切にしていた信念や正義は、借り物だ。


それまでの自分の人生は、空っぽだった。


そう理解した途端、感情が追いつかなくなった。


怒る理由も、悲しむ理由も、どこか他人事のようだった。


ふと、キーボードに置いた指先が、わずかに震えているのに気づく。


それが恐怖なのか、虚無なのか、自分でも分からない。


俺は声を出そうとして、やめた。


ここで声を出すのは誰か、自分であるのか、自分の体を操る誰かなのか。


体が、頭の中と乖離しそうだ。


そう思った瞬間、声を出したら、佐藤悠真という輪郭まで崩れてしまいそうだった。



背もたれに体を預け、天井を見上げる。


白い蛍光灯が、均等な明るさで並んでいる。


もし、俺が空っぽならここにいる理由は、何だ。


答えは、まだ見つからなかった。


それでも、席を立つことはできなかった。


逃げることも、否定することも、選ばなかった。


ただ、空っぽのまま、そこに座り続けていた。



そこから少し時間が経ち、乱暴に扉が開く音が聞こえた。


目を向けると後藤が居た。


「戻ってたんだね。長旅お疲れ。」


後藤はそう言って俺の表情を一目見ると、何も聞かずに冷蔵庫から卵を取り出した。


片手で卵を叩きながら、逆の手で俺の食器を取り、そのまま卵を割った。


冷蔵庫からだし醤油を出して器にひと回しすると、俺に食器を差し出してきた。


「……昼間茹でた。温泉卵風だよ。生気感じないけど、何も食べてないんじゃない?」


俺は面喰らいながら受け取り、中を覗くと、確かに薄茶色のだし醤油と温泉卵が震えていた。


そのまま器を傾けて、口の中に啜り込む。


つるつるの白身と、とろりと弾けた黄身の甘みに、だし醤油のまろやかさが鼻腔を抜けた。


「………うまい。」


「そりゃ、そうでしょ。だし醤油は横峯からのだしね。腹が減ってる時は美味いに決まってるよ。」


後藤がしたり顔になり、鼻を鳴らした。


「そうですね。朝から何も食べてなかったですし、普段の自炊のものより美味しいです。」


「ってか、朝から食べてないの!?あんた前にあたしに言ったじゃん!『朝はちゃんと食べた方がいい』って!」


そう言われて思い出したのは、後藤と打ち解けた朝の出来事だった。


性的なからかいを受けたものの、最後には自身の境遇を話してくれた。


そこからは、意外に優しく面倒見が良い一面に驚いたり、軽口を叩き合ったりもした。


思い返せば後藤は、俺が最もフラットに接せる人間になっていた。


そして今では、特務捜査係ココのムードメーカーとしてなくてはならない大事な仲間だ。


「悩んでる時や辛い時、頼りたくなったり、話したくなったら言いなよ!……とりあえず、お代わりいる?」


そう言いながら微笑む後藤を見て、先ほどまで感じていた喪失感が薄くなった気がした。



俺が後藤から再び器を受け取ると、山崎が部屋に入ってきた。


「お、佐藤主任。お疲れ。」


山崎はそう言いながら、俺の手元を一目見た。


「……後藤部長が昼に茹でてたやつか。送致決裁終わった時に、ちょっと打ち上げ兼ねて食べるとか言ってなかったか?」


「この男が朝から何も食べてないらしいし、放っとくと倒れそうだっただけですよ。……係長、邪推した顔しないで。」


後藤がじとっとした視線で山崎を見た。


俺は「すみません。食べ始めたら止まらなくて…」と小声で言った。


山崎は小さくため息をつき、俺の顔を覗き込んだ。


「顔色悪いし、謝る事じゃない。理事官から話を聞いて、事情は分かってる。」


「すみません。」


反射的にそう答えてから、自分でもおかしいと思った。


何に対しての謝罪なのか、分からなかった。


山崎はそれを咎めることもなく、近くの椅子を引いて腰掛けた。


「だから謝る必要はないって。…後、ありがとな。住田を見つけて、保護してくれて。」


その言葉に、胸の奥がわずかに揺れた。


「……見つけたというか、俺は何もしてないです。」


自分でも驚くほど、弱い声だった。


山崎は即答しなかった。


少しだけ考えるように視線を落とし、それから静かに口を開いた。


「望月とのやり取り、見たよ。あのままだったら資源庁によって亡き者にされていただろう。あそこで住田を助けてくれたのは、間違いなく佐藤主任だよ。」


俺は山崎を見た。


その顔には喜びと切なさが混じった、何とも言えない色が浮かんでいた。


「一秒を争う現場での適切な判断、それには必ず思考が宿る。たまたま思い出した知識や記憶に頼った安易なものではなく、その人自身の確かな思考の軌跡があるんだ。」


山崎は机の上の資料に軽く視線を走らせる。


「これまで佐藤主任が刑事としてやってきた全部が、ここに残ってる。それを基に現場で佐藤主任自身が思考して、判断して、行動してくれて、ありがとう。」


「……でも…」


俺は言いかけて、言葉が詰まった。


自身を空っぽだと、自嘲することも、揶揄することも、自分自身が許さなかった。


それを見た山崎は、続きを促さなかった。


「佐藤主任しか出来ない仕事をして、それを続けてきたことを否定しなくていい。佐藤主任だったからこそ、救えた者がいるんだ。」


そう言って、穏やかに続ける。


「そうやってきた佐藤主任だから、私は君にここに立ち、共に仕事をして欲しいて思ってる。」


その言葉は、慰めでも、命令でも、評価でもないように感じた。


山崎は、ずっと住田との記憶と想いを隠して、捜査をしきた刑事だ。


そんな人からの最大の賛辞に、俺の胸には熱い何かが込み上がった。


涙腺が緩みそうになったその時だった。


「佐藤主任……戻られたんですね。」


いつもの落ち着いた声と一緒に、中村が入ってきた。


俺の顔を見るなり、少し表情を変える。


「本当に、本当に…お疲れ様でした。」


中村がそう言いながら、目に涙を滲ませた。


それを見た俺は、思わず目を逸らした。


「……一日空けてしまいすみません。戻りました。」


それだけ言うのが、精一杯だった。


中村は一歩近づき、俺の前で立ち止まった。


「正直に言いますね。」


いつもの穏やかな口調だったが、少しだけ震えていた。


「佐藤主任が戻ってくるまで、この一日だけじゃなく、池袋署に異動された時も含めてですけど……物凄く大変でした。」


中村の意外な話に、俺は顔を上げた。


「自分の努力不足や能力不足を嫌というほど痛感させられました。そして気がつけばいつも佐藤主任だったら、どうするかなって考えてたんです。」


中村は、ゆっくり息を吐いた。


「LUXEの時、土壇場で作戦変更して、御厨理事官の指示の前から廃処理法の準備していて、その後の証拠品の押さえ方まで刑訴法で詰めていて…」


そこで中村は一拍置き、さらに続ける。


「『これで同じ警部補か』って、その差に愕然としてました。」


「…もうご存知とは思いますが、それは御厨理事官の記憶があるだけで…」


「違います!」


俺の弱弱しい声に、中村が即答した。


そのまま、俺のデスクに置いてあった刑事訴訟法の逐条解説を手に取り、俺の目の前に突き出した。


「記憶は関係ないです!こんなに、こんなに、努力している人が、自分の力じゃないなんて言わないで下さい!」


小口に見える夥しい量の付箋と、汗で掠れた表紙。


間違いなく、警察大学時代から使っている俺のバイブルだ。


「誰かの記憶をなぞっただけの人は、社会正義のためにここまでの努力は出来ません。これは、佐藤主任が佐藤主任である事の証明です。」


中村の言葉を受けてもなお、俺の心には少しの疑念が生じた。


「倉橋から言われました。正義感も、刑事としての強い矜持で捜査してきた記憶から生まれたんだろうと。」


「たとえそこから生まれたモノでも、それを大切に持ち続けたのは佐藤主任です!そして、目覚めてから今までの全てを経験したのは佐藤主任です!」


中村が声を張り上げながら、涙を流した。


「その時点で佐藤主任は、1人の人間なんです!佐藤主任としての記憶もしっかりあるじゃないですか!かけがえのない特務捜査係の一員として、私達と事件を追いかけてきた記憶が!」


涙ながらに叫ぶ中村のその言葉が、胸に落ちた。


不思議と重くはなく、ただただ、確かだった。


それでもまだ、答えは出ていない。


俺は、深く息を吸い、ゆっくり吐いた。


自身の熱が上がってくるのが分かる。


モニターを見ると、文字は記号から位置のある文章に変わった。


「……正直まだ、確たる自信はないです。」


俺はそう言ってから、続けた。

「でも、皆さんと一緒に最後までやり遂げたい。それは自分の中から湧き出る本当の気持ちです。」


俺の手の震えは、まだ少しだけ残っている。


「ありがとうございます。皆さんが居てくれたから、空っぽの自分に崩されず、踏みとどまれた気がします。」


山崎が微笑み、後藤は冗談でも言いたげに肩をすくめる。


中村は、ほっとしたように真っ赤な目を伏せた。


俺は、自分の頬が濡れてるのを感じ、気恥ずかしくなった。



慌てて拭おうとした時、またも扉が勢いよく開いた。


涙を拭った指の隙間から、赤みを帯びたショートボブが揺れたのが見えた。


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