第128話「崩れかかるモノ」
6月1日、午前0時39分。
俺たちは、大原麻子を小豆警察署に一旦引致するため、署の護送口から署内に入った。
僅か50名ばかりの警察署内は、深夜で照明が薄暗く感じたが、人に溢れていた。
男性の監禁という一大事の被疑者である大原麻子のせいなのか、物珍しい俺を見に来たのかは分からない。
いずれにしても、全署員が揃っているらしいというのは、到着までに御厨から聞いていた。
すれ違う人の視線を感じながらも、俺は先ほど船上で聞いた倉橋の話に頭の中が支配されていた。
大原麻子は、腰縄を持った捜査員とともに、無言のまま廊下を進んでいく。
背筋は伸び、表情は崩れていないが、その歩幅は、わずかに乱れていた。
「……佐藤。」
後ろから、低い声で呼ばれて振り返ると、関からの呼びかけだった。
「小豆署が気を利かせて布団の準備をしてくれたそうだ。顔色悪いからちょっと寝とけ。誰も入らないよう、俺が外で見張っといてやるよ。」
関にしてはやけに親切な物言いに違和感を覚えた。
「大丈夫です。」
反射的に否定していた。
「まだ、やることがありますし。それに、報告関係も山崎係長に上げなければいけません。」
そう答えた自分の声が、思ったよりも平坦で、どこか他人事のように聞こえる。
関は一瞬、俺の顔をじっと見たあと、何も言わずに頷いた。
「……そんなら、これ飲んどけ。…無理すんなよ。」
関はそれだけ言って、ロイヤルミルクティの缶を俺に投げ、踵を返した。
直明けの朝、初めて関から褒められた時に手渡されたものと同じメーカーの物だった。
その背中を見送りながら、俺は初めて、自分が無理をしている状態なのかどうか、判断できていないことに気づいた。
頭の中では、倉橋の声が、まだ反響している。
『犯罪者です。』
『あなたの記憶は。』
『母親です。』
言葉だけが切り取られ、意味を持たないまま浮遊している感覚に襲われながら、取調室の前で立ち止まった。
「佐藤主任…大原麻子の弁録……やるつもりじゃないだろうな?」
近くにいた御厨が、俺を静止した。
「調べを男性にはさせられないというのは無しにして下さい。ここには、元立ちは私しかいません。」
俺は、そう言いながらも前世の記憶と思っていた調べの記憶を思い出す。
白い扉に、素っ気ない取っ手、それに小さな覗き窓。
何度も取り調べで通ってきたはずの場所なのに、本当はそんな経験など無かったということに、恐怖が襲いかかる。
被疑者と一対一で対峙する場所が、自分が何者なのかを問われる場所に見えた。
「そんなことは言わん。しかし、そんな真っ青な顔した取調官にやらせるくらいなら、情の知らない署の人間にやらせた方がマシだ。」
御厨の言葉を受け、俺はゆっくりと息を吐く。
自分では少しだけ、整理が追いついていないと思っていた。
記憶の中の俺も、真っ青な顔した取調官が居たならすぐ別の人間に変えると指示を出すだろうと考えた。
しかし、これが御厨の記憶からの判断だと、思うとそれに抗わなければいけない気持ちになる。
「刑事である以上、立ち止まりません。公判請求させるだけの捜査の成果を、検察官に届けるのが私の仕事ですから。」
そう御厨に言いながら、同時に自分に言い聞かせて、扉に手を掛けた。
その時、後ろからよく知った声が聞こえた。
「佐藤!待った!」
横峯が小走りで近づいてきて、俺と取調室の扉の間に立った。
肩で息をしているところを見ると、廊下の向こうから走ってきたらしい。
「……何だ。住田の方はどうした?」
自分でも驚くほど、声は低く、感情が抜け落ちていた。
「そっちは速攻ドクターヘリだよ!…ってか何だじゃないだろ。その顔で調べする気か!」
横峯は俺の顔を見て声を荒げた。
「弁録も新件調べも俺がやる。元立ちとしての責任があるしな。」
「…佐藤……それは辞めた方が…」
「何でだよ。刑事手続き的には何も問題はないだろ。」
横峯の言葉を遮る形になったが、止められなかった。
「今の佐藤から…自信が欠片も見えないからだよ。」
横峯が諭すように続ける。
「桜木の調べで参ってた私に言ったよな。『一番自分が自信持てるよう、自分を作れ』って。そっくりそのまま佐藤に返すよ。鏡で今の顔見て見ろ。」
そう言って横峯が部屋の隅にあった鏡を指差した。
その方向を向くと、生気のない追い詰められた顔の俺が居た。
「私は佐藤が何でそんな顔なのか知らない。でも、間違いなく言えるのは、今の佐藤より私の方が取調官としてはマシ。だから少し休みなよ。」
横峯の言葉を聞きながらも、鏡に映る自分から、視線を外せなかった。
目の下には濃い影が落ち、唇は乾き、肩の力が抜けている。
それは、取調室に入る人間の顔ではなかった。
俺は何か言い返そうとしたが、言葉が見つからない。
横峯は、それ以上何も言わず、俺の前から一歩退いた。
その時、「佐藤主任。」と静かな声が、耳に響いた。
「御厨理事官……何でしょうか。」
「今日は、横峯に弁録を取らせる。明日、大原の身柄を警視庁内に移してから新件調べだ。良いな?」
俺が何も言えずにいると、御厨はそのまま言葉を続ける。
「とりあえず今日は寝るんだ。前にメールで送っただろ。『精神的に参った時は、全て忘れて休め』と。現に私だって全て忘れて休んだ時期がある。知ってるだろう?」
そう言いながら、御厨が少し笑った気がした。
「刑事は、死ぬ気で働く仕事なのは間違いない。でも、一流は手を抜くのがうまいんだ。張り詰めてばかりの刑事なんて、すぐプツッといってしまうものさ。」
否定でも、責めてもいない、その言葉が単純に胸に染みた。
動けずに居た俺を見た横峯が、小さく息を吐く。
「佐藤に教えてもらった取調官の矜持を見せるよ。任せてくれるよね。」
そう言って、横峯は俺の横を抜け調べ室へと入っていった。
それを合図にしたかのように、御厨が立ち上がった。
「報告連絡は私がしておく。それに、明日、佐藤主任が東京に戻っても大丈夫なように調整もな。」
そう言って御厨は部屋から立ち去った。
俺は、手の中でまだ温度が残っているロイヤルミルクティを見た。
ゆっくりと、息を吐き心の中で「……分かりました。」と呟いた。
俺は、取調室から離れて廊下に出ると、署に着いた時よりも少しだけ、照明が明るく見えた。




