第126話「揺蕩」
船が桟橋を離れると、エンジン音が低く響き始めた。
闇に溶けるように弁天島が遠ざかっていく。
甲板に出ると、春も半ばを過ぎたというのに、冷たい潮風が顔を打つ。
ストレッチャーは船内に固定され、簡易の医療機器が接続されている。
住田のモニタは、不安定ながらも一定のリズムを刻んでいた。
「このまま持てば、本土の病院で繋げます。」
倉橋が小さく掠れた声で言ったが、その声には安堵が混じっていた。
「そうですか。」
それだけ答えて、俺は隣に立ったが、しばらく互いに何も言わなかった。
波が船腹を叩く音と、機械の作動音だけが、一定の間隔で耳に入る。
「……佐藤さん。」
倉橋が、ようやく口を開いた。
「あなたは、自分の記憶について……不思議に思ったことはありませんか。」
唐突な問いだったが、不思議と驚きはしなかった。
「あります。」
俺は即答していた。
「私には18歳以前のエピソード記憶が無いんです。それに、どうやら前世…警視庁の刑事として勤務していた記憶があります……。」
倉橋は、わずかに頷いた。
「それは、異常なことではありません。」
そう言ってから、一度言葉を切る。
「……少なくとも、あなたのせいではありません。」
俺が、月明かりに照らされた倉橋の横顔を見ると、いつもの雰囲気とは違い、どこか喪失感を感じる表情だった。
「弁天島でやっていた研究は…」
そう言いかけた倉橋は、住田の方へ視線を向けた。
「安定した男性脳波パターンを人為的に再現し、効率のいい男性資源確保……を実現するためものでした。」
その言葉を理解する前に、胃の奥が冷たくなった。
「……それは、人格を移植するというようなことですか。」
「いいえ。」
俺の言葉に、即座に否定が返ってくる。
「人格ではありません。外部刺激に対する反応……恐怖耐性や精神安定性といった方が伝わりやすいかもしれません。」
嫌な感覚が、背中を這い上がった。
「脳波が非常に安定していた住田さんは、その恰好のモデルでした。」
倉橋の声が、ほんの少しだけ低くなる。
「4月メンタル検診を受けた時にお話しに出た『私に良く似た脳の波形』が、住田さんということですか?」
「ええ。」
俺の言葉に、倉橋は否定しなかった。
「住田さんは性格も穏やかで、協力依頼をすると『それに協力して明るい未来が来るならぜひ』と、快く承諾してくれました。」
その言葉が、やけに重く胸に残った。
協力という言葉を、俺は何度使ってきただろう。
捜査のため、真実のため、正義のため、そう言って、人に何かを差し出させてきた。
俺は、断れない人間ほど『いい人』なのだと知っている。
住田も善良で、何かを疑わずに差し出してしまう側の人間だったのかもしれない。
そのまま、倉橋が俯き「……だから、資源庁から廃人になるまで使われてしまった。」と、ぼそりと呟いた。
「それは、倉橋さん。あなたが途中で止められたはずでは無いんですかっ?」
声が、思ったよりも強くなっていたことに、言い終えてから気づいた。
問いというより、感情をぶつけた発言に近い響きだった。
そう自覚した瞬間、胸の奥がひりついた。
警察官としてではなく、一人の人間として、感情で口を開いている。
ストレッチャーの上で、住田の胸が浅く上下する。
その姿が視界に入った途端、言葉の先が喉に詰まった。
「それは、私が弱かったから……弱かったから、資源庁に抵抗出来ず、研究を続けるしかありませんでした。」
困ったような顔をする倉橋に、俺はすぐに言葉を返せなかった。
逆らえない、という一言には、組織の問題であることが感じ取れたからだった。
しかし、その組織というものに縛られなければ、方法があったのだろうとも思った。
「……別に医師であれば資源庁の研究でなくても稼げるでしょう。なぜそうしなかったんですか。」
徐々に語気が強まる俺の言葉を受けた倉橋は、すぐには答えなかった。
その代わりに、倉橋は船内に響くモニタ音を一つ確認し、深く息を吸った。
「私が……」
言いかけて数秒止まり、その沈黙が重さを感じた。
倉橋が腹を決めたのか、俺の目を見てゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……ただの………犯罪者です。」
意外なその言葉は、投げ捨てるようでも、逃げるようでもなかった。
船のエンジン音と、モニタの電子音だけが、静かに続く。
沈黙は数秒だったはずだが、俺にはやけに長く感じられた。
「…………それは、どういう…」
俺が面を喰らいながら言うと、ぽつりぽつりと、倉橋は話を始めた。
「私は昔、この国における重大な罪を犯しました。そして、それは資源庁にずっと弱みとして掴まれていたんです。」
倉橋の言葉を受け、思わず疑問が口を突く。
「何を……したのか、教えてくれませんか?」
俺の疑問に答えるかのように頷き、倉橋は話し始めた。




