第123話「脳波」
ドアが閉まると、外の音は完全に遮断された。
代わりに、低く唸るような振動が床から伝わり、空気が違うことが分かった。
湿り気を帯びているが、海の匂いではない。
消毒薬と、金属と、どこか甘ったるい臭いが混じっている。
「……こちらです。」
倉橋は振り返らず、進む道を指し示すと、そこには最低限の照明、壁に沿って這う太いケーブル、古い配管が並ぶ狭い通路だった。
俺たちが無言でついていくと、十数メートル進んだところで、エレベーターが現れた。
業務用の扉横の操作パネルを倉橋が操作すると、ゆっくりと扉が開いた。
促されるまま乗車し、扉が閉まった瞬間、胃がわずかに浮く感覚があった。
エレベーターの中で、俺の背中がじわじわと熱を持ち始め、声が出る前に歯を食いしばる。
刺されたはずの傷が、また、内側から疼いている。
あの電子音が、今度ははっきりと、頭の奥で鳴っていた。
「佐藤さん。」
倉橋が、初めてこちらを振り返った。
「……気分が悪いようですが、戻りますか?」
「……いいえ。大丈夫です。」
そう言って再び奥歯を噛みしめると、やがてエレベーターが停止した。
扉が開いた瞬間、冷たい空気が流れ込んできた。
目の前に広がっていたのは、病院にも、研究所にも似ていない、無機質な空間だった。
並ぶガラス越しの区画、規則的な機械音、そして、その一つに、横たわる人影があった。
「……っ。」
俺は、思わず一歩踏み出していた。
ベッドの上にあるのは、人の形をしている。
だが、管が繋がれ、電極が貼られ、呼吸は機械任せだということが分かった。
顔をのぞき込むと、生きているのか、そうでないのか、即座には判断できないほど衰弱しているような表情だった。
「……住田、……?」
俺の口から勝手にその名前が零れると、倉橋の肩がわずかに揺れた。
「……やはり、分かるんですね。」
倉橋はそう言いながら、無意識に白衣の袖を掴んでいた。
「これは、モデルです。明るい未来を目指すための…」
倉橋がそこで言葉を切り、それ以上を語るつもりは無いことが分かった。
ガラス越しに見えるその身体は、微かに上下し、規則的な電子音が、空間を満たしている。
その音に合わせるように、俺の背中の痛みが再び脈打ち、思わず壁に手をつく。
「佐藤主任?」
御厨の声が、遠くに聞こえたが、俺の意識は、ガラスの向こうから離れなかった。
「住田は……生きているのですか…?」
倉橋は、視線を外さずに言った。
「医学的な死は迎えていません。ただ…このままでは資源庁によって、人としての機能が停止させられるでしょう。」
その言葉が落ちた瞬間、俺の頭の奥で、あの電子音が、鋭く跳ね上がった。
「時間がありません。」
倉橋は、初めてこちらを見た。
「資源庁の正式な処理が始まれば、あなた方が、ここに有る者、この存在を知る者、全てを消すでしょう。そうなれば、ここから無事に出られる保証はない。」
関が、低く唸る。
「……つまり、俺たちは今、見てはいけないものを見てるってことか。」
「そうです。」
倉橋は否定せずに、静かに付け加えた。
「だから私は、あなたを……ここに連れて来たことを今でも、間違いだったと思っています。」
ガラス越しの区画から視線を外した倉橋が、わずかに歩みを進め、俺の隣で立ち止まった。
近すぎるわけでも、遠すぎるわけでもないが、不思議と、他の音が遠のいた気がした。
「……佐藤さん。」
倉橋は、俺だけに聞こえる程度の声量で言った。
「あなたは、自分の記憶に、違和感を覚えたことはありませんか。」
「……違和感というと?」
「例えば…」
倉橋は、少しだけ言葉を探すように間を置いた。
「自分が経験したはずのない場面を、あまりにも鮮明に思い出してしまう、とか。」
背中の奥が、ひくりと震えた。
「……あります。」
俺は、正直に答えていた。
「でも、それは……夢とか、錯覚とか……前世の記憶の断片……とか。」
「ええ。そう思うのが、普通です。」
倉橋は静かに頷くと、俺を見ずに続ける。
「御厨さんが、十数年前に重体で搬送されたことは、ご存じですか?」
「……えっ。」
「その時、彼女は深刻な記憶障害を負っていました。」
倉橋の声は、感情を削ぎ落として事実だけを並べる医師の様な声色に変わっていた。
「自分が誰で、何をしてきたのかだけではありません。どういう人間だったかすら、分からない状態でした。」
俺は、思わず御厨の方を見た。
少し離れた場所で、関と低い声で何かを話していたため、こちらの会話には気づいていない。
「治療には、いくつかの方法がありました。」
そう言いながら倉橋は、ガラス越しのベッドを一瞥した。
「薬物療法、行動再学習、ショック療法……ですが、どれも決定打にはならなかったので……記憶そのものに、触れる必要があったんです。」
倉橋は、そこで初めて俺を見た。
「御厨さんの記憶の型は、とても強かった。正義感が強く、判断が早く、誰が相手にも過度な恐怖や萎縮を示さない。」
倉橋の言葉が、俺の胸の奥に落ちる。
「佐藤さん、あなたと御厨さんって、思考パターンがとても良く似ていますよね。……それは、偶然ではありません。」
倉橋は、淡々と言った。
「最終的な彼女の治療は私が担当したんです。」
その瞬間、俺は自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。
息を吸っているはずなのに、胸の奥まで空気が届かない。
「海馬に眠っている記憶を無理やり刺激し、周辺皮質と神経細胞からシータ波を外部に出力。そして、それをまた彼女の脳に戻しました。」
「……記憶を取り出して、戻したってことですか?」
「ええ。御厨さんのご家族に許可を取って、このまま廃人になるなら、試してほしいと言われましてね。その際に、一つの副産物が出来ました。そう、脳に流し込むことが出来る、正義感に溢れた記憶です。」
倉橋は、小さく息を吐いた。
「彼女の記憶はあまりにも強く、とても安定していました。それを受け取った脳は、それを自分のものだと誤認するほどに。」
倉橋は、淡々と続けた。
「だから、人格ではなく、価値観。思考の癖。判断の速度。そういった個人の個性になる部分が、最初から、あなたの脳に刻まれたものではない可能性があります。」
俺が何かを言おうとしたその時、警告音が一つ、短く響いた。
倉橋が、はっと顔を上げる。
「……気づかれたようですね。」
「何がだ!」
倉橋の声に、関が身構える。
「この建物内の人間に、私があなた方を招いたことがですよ。」
倉橋は、俺から視線を外し、制御盤の方を見る。
「もう、猶予はありませんか。……佐藤さん。」
「……はい。」
「あなたが何者かを知るのも、資源庁の非人道的な行為を明らかにするのも、ここを出てからにしてください。」
遠くで、重い扉が閉まる音がして、何人かの足音が、こちらへ向かってくる。
「今は……せん……の…か……です。」




