第121話「海の上で」
5月31日、午後8時32分。
俺の目の前には灰色に濁った水面が、どこまでも続いている。
「……そろそろか。」
御厨が、短く言った。
俺の視線の先には暗い海が広がり、うっすらと島影が浮かんでいるように見えた。
地図上と写真では見ていたものの、存外小さい島に、なぜか無機質な建屋がある。
その佇まいには違和感があふれていた。
「ったく、船の準備までしてるなら、もっと早く連絡してくれよ。」
隣にいた関が不満ありありとぼやいた。
「すみません、こちらもバタついてましたので。でも、関統括がきっちり大原と倉橋が船に乗ったところまで追尾してくれたおかげで、今ここまで来たわけですから。」
「ふん。」
俺は鼻を鳴らす関から目を外し、島の周囲を見回した。
近くに船影はなく、桟橋も最低限のものしかない。
「それで? このまま突っ込むわけじゃねぇんだろ。」
「もちろんです。」
俺は双眼鏡を下ろし、御厨の方を見た。
「弁天島内は資源庁の非公表の管理施設と思われます。しかし、正式に立ち入る申し入れ等受け付けられないでしょう。それに、その過程で私が拘束される可能性は高いと思います。」
「んなこと分かってるよ。逃亡係長。」
「…逃亡係長って……。」
俺は思わず苦笑いをしてしまった。
「まぁ、それで今、島にいるのは確認できている限りで、倉橋、大原麻子、そして望月。他にも職員が数名は居るでしょうが、ここからだと警備要員の動きが見えないのが気になりますね。」
「警備がいない、なんてことは無いでしょう。居る前提で常に行動しなさい。」
俺の不安に対して、御厨が吐き捨てるように言う。
「見えないだけだ。見せない方が都合がいい連中なんだろ。」
徐々に船は減速し、エンジン音が落とされた。
代わりに、波が船体を叩く音が、やけに大きく響く。
島の建屋は、近づくにつれて、ますます異様さを増していった。
船の上で、俺はふいに、胸に痛みを感じ、その場にうずくまってしまった。
「……おい、逃亡者?………んっ…佐藤、お前大丈夫か?」
関の声が、少し遠く聞こえる。
「いえ……大丈夫です。」
そう答えたが、大丈夫なはずがなかった。
心臓の鼓動が、一定のリズムを失い、速く打っている。
島を見ていただけなのに、頭の奥が、じわじわと痺れていく。
ピ、ピ、ピ、と、どこかで聞いたことのある電子音が、脳内で鳴った気がした。
「……おかしい。」
呟いた瞬間、あの日刺された背中が鋭く疼いた。
内側から、直接触れられている感覚と、どこか既視感が、押し寄せる。
白い天井、規則的な光、低く響く機械音。
「佐藤主任、顔色が悪いな。」
御厨の声で、急に身体は落ち着き、俺は現実に引き戻される。
俺は、島影を見ながら言った。
「……この島…初めて来たはずなのに……来たことがある気がします。」
「どうした、上陸前に記憶障害とかやめてくれよ!」
関が明るい声で俺に声をかけてきた。
しかし、御厨は、俺の言葉に何も言わなかった。
「……まるで、もう役目を終えた施設みたいだな。」
少しの静寂の後、関がぽつりとこぼした。
「違うな。恐らく役目を終えたんじゃない。役目を終えさせる準備をしているんだろう。」
御厨の言葉に、俺は背筋が冷えた感じがした。
「どういう意味ですか。」
「資源庁の職員が今から、証拠隠滅、研究データの処分、を実施し、それが終われば、この島は穏やかな釣り場に戻るんだろう。」
俺は、無意識に拳を握った。
「……住田も、その対象に含まれている可能性がある、ということですか。」
御厨は、即答しなかった。
「もし本当に住田がここにいるなら、可能性は高いだろう。」
それだけ言ったとき、船が島の沖合で完全に停止する。
「これ以上近づけば、向こうに気づかれる。どうする、佐藤。」
関の低い声に対し、俺は島を見据えたまま答えた。
「……まだ、入れません。」
「は?」
関があっけにとられた顔をした。
「倉橋と大原がここに来た理由は分かりません。しかし、今突っ込めば、俺たちは違法侵入者です。大義名分が必要です。」
御厨が、わずかに口角を上げた。
「そうだ。もう少し風向きが変わるまで、待つ必要がある。」
御厨の言葉を聞きながら、俺は無意識に背中へ手を伸ばしていた。
刺された傷は、現世では存在しないはずだ。
それでも、そこに何かが残っている気がしてならなかった。
「佐藤主任。」
御厨が、俺の方を見た。
「君が感じている違和感はきっと、気のせいじゃないだろう。」
「……。」
「君ならきっと大丈夫だと信じているよ。」
俺は、ゆっくりと息を吐き、御厨への質問を堪えた。
その様子を見て、御厨は島の方へ視線を移す。
時間にして数分か、数十分か分からないが、俺の思考がめぐっていた最中、スマホが震えた。
中身を開くと、山崎からの写真が、一言のメッセージと共にグループチャットに送信されていた。
<大原のお札、無事発付。>
それを確認した御厨が俺たちに声をかけた。
「さて、大義名分が出来たな。」
俺は、スマホを仕舞うと、もう一度だけ島を見た。




