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1/96〜男女比1:96の貞操逆転世界で生きる男刑事〜  作者: Pyayume
第八章「包 囲」

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第117話「中村英子:墨汁」

扉の向こうに入った瞬間、空気の質が変わった。


湿っていて、鉄と土が混じったような臭いがする。


さっきまでの部屋とは、明らかに別物だ。


蛍光灯は一つだけ点いていて、光は弱く、壁の影が歪んで見える。


床はコンクリートむき出しで、水気を含んで黒く変色していた。


真っ先に目に入ったのは、部屋の中央に置かれたバスタブだった。


家庭用の、どこにでもある白い浴槽なのに、その中身は真っ黒だった。


私は、さっき感じた臭いから、墨汁だと理解した。


表面には、紙片が浮かんでは沈み、角だけが時折、白く覗いていた。


「……っ」


そのバスタブの前に、さっきまで私たちを乗せた車を運転していた女が居た。


帽子もマスクも外し、素顔を晒したまま、焦った手つきで書類を次々と墨汁の中に叩き込んでいる。


「やめろ!」


後藤の声が、低く大きく部屋に響いた。


女がびくりと肩を震わせ、こちらを振り返る。


その目は、恐怖というより、追い詰められた焦りの色が浮かんでいた。


「何してる!離れなさい!」


私の声とともに、後藤部長が一気に距離を詰める。


女は反射的に手に持っていた資料を墨汁に投げ込もうとしたが、その手首を、後藤が掴んだ。


「……証拠隠滅は、もう終わりよ。」


女は抵抗する間もなく床に押さえつけられ、手錠の音が乾いた部屋に響く。


私は、視線をバスタブに戻した。


墨汁の中に沈みきらず、縁に引っかかっていた数枚の紙を見つけ、直ぐに手元に引き上げた。


文字が滲みかけているが、まだ読める。


<資源庁>、<指示事項>、<投薬後、特定脳波パターン(Sumida.edf)を電極で入力>等の文字が並んでいる。


無意識化で私の喉が、ひくりと鳴ったのが分かる。


「……後藤部長。」


私の声は、自分でも驚くほど低かった。


「これ、資源庁の名前が入ってる。オークションと資源庁と繋がりが見える資料…」


後藤部長が、女を制圧した状態で短く頷く。


「見ればわかるよ!とりあえず資料は引き上げないと!」


私は膝をつき、作業着の袖を捲ると、墨汁の中から残った資料を慎重に引き上げた。


紙は水を吸って重く、指先にぬめりが伝わる。


一枚ずつ、破れないように持ち上げ、床に並べていく。


完全に文字が潰れているものも多いが、沈みきらなかった何枚かは、まだ判読できた。


「……指示書というより…手順書…?」


私は無意識に、声が漏れた。


<投薬後30分以内に、被験者を安静状態で固定した上で、後頭部・側頭部に電極装着すること。稀にせん妄状態になるため、脳波モニタリングを怠らないこと。>


軽く目で内容を追った時、LUXEでせん妄状態で発見された男性がいた事を思い出した。


私を接客していた橋本もどこか作られたもの感が拭えなかったのは、これが原因だったんだろうか。


私がふと壁を見ると、そこにも資料が貼り付けられていたことに気づいた。


<Sumida.edfとの脳波同調を確認後、再教育フェーズへ移行>


「……再教育?」


思わず眉をひそめると同時に、紙の隅に小さい走り書きを見つけた。


<被験者が女性への忌避感が減少し、女性相手に敬語になった場合は反応良好>


「……後藤部長、これ、男性への洗脳手順に見えない?」


私は顔を上げずに言った。


後藤は、押さえつけた女を捜査員に引き渡し、私の横にしゃがみ込んだ。


壁の資料を一瞥し、後藤の表情がさらに険しく変わる。


「……こっちには、ご丁寧に効果的な投薬方法もかいてあるよ。加熱して水通しすることで薬効変えてるみたい。」


「……シーシャなら、それが自然にできるってことね。」


後藤の声に相槌を打ちながら私は、机上に残った別の紙を拾い上げた。


そこには、この方法の作成者の名前が記されていた。



<作成責任者 倉橋和美>と。


「……倉橋。」


口に出した途端、その名前が、これまでの点と線を一気に結び始める。


佐藤の担当。


資源庁と研究協定を結んでいた医師。


PMDAの審査センター長が元第二母親。


男性の脳波パターンの研究。


佐藤が見たという住の文字。


そしてSumida.edf。


全部、ここに繋がる。


「こんなの、もう、甘南備だけの話じゃない。」


そのとき、背後から捜査員の声が飛んできた。


「中村主任!すみません!大原麻子が見当たりません!」


その報告を聞いた瞬間、胃の奥が冷たくなり、私は反射的に立ち上がった。


「……え!?上の班は何してんの!?」


「それが、ほとんどの人員が下に来てしまって、上が応援要員ばかりになって、目を切ってしまったとかで…」


「わかった。事実の報告だけあればいいの。言い訳は必要無い。」


自分の声が、妙に冷静であることが怖かった。


「私が一旦上に行くから、無線貸して。」


私がそう言うと、報告してきた捜査員が無線機を差し出した。


「……中村から佐藤。中村から佐藤。」


一瞬のノイズのあと、落ち着いた声が返ってくる。


『こちら佐藤。』


私は言葉を選ぶ時間が惜しく、直ぐに事実だけを告げた。


「大原麻子が逃亡。こちらはガサ中で追尾要員出せず。」


一拍の沈黙の後、『……了解。こちらで対処します。』と、短く淡白な返事がきた。


しかし、私にとってはそれが頼もしく、そして嬉しく感じた。


「了解。」


そう言って無線を切った時、さっきの感情は、佐藤とともに捜査しているからだと気づいた。


そして、何か助けになればと、先ほど見つけた資料の要点をチャットで送信した。


佐藤なら上手く使ってくれると信じて。

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