第98話「後藤由紀:覚醒の前に」
5月26日、午後1時52分。
捜査本部では、昨晩に水越が送信してきたデータを元に、山崎と中村が激論を交わしていた。
そのデータは『男性DB更新ワークフローの是正検討』と題された資料と、改ざんをした後にみのりが祖母井にそれを報告したメールデータだった。
「だから、佐藤主任はこの『男性DB更新に関しての書類』を名指ししたんですよ!みのりが報告した脆弱性を祖母井が放置した!この事実から取り締まることがあるはずです。祖母井を何か遣り込める方法が!」
中村が大きな声で山崎に食ってかかっていた。
「そうはいっても、『電子計算機損壊等業務妨害罪』に不作為犯は想定されていない!」
刑事畑で歩んできた山崎の方が刑法犯に詳しく、不作為では構成要件を満たさないと声を荒げている。
「実際にみのりによる改ざんが行われたことを知りつつ放置した場合も、不作為犯も成立しない!事後認知であるから幇助犯も成立しない!祖母井はこれで取り締まることなど不可能だ!!」
不作為犯、つまり『やるべきことをやらなかった』ことで発生した犯罪のことだ。
これが成立するためには、法益侵害の程度が『やったこと』と同程度でなければならない。
例えば、『出てけと言われたのに玄関に居座る』だとか、『乳幼児にご飯を与えない』等ということだ。
システムの修正がそれにあたるか、という議論は必要であるものの、あたしの肌感覚でも当たらないだろうと思っていた。
「……でも、じゃあどうするんですか!?何か、何かあるはずなんですよ!佐藤主任が示したんですから!」
中村が苛立ちを押し殺しきれない声で言った。
いつもは冷静なあの中村が、机を挟んで前のめりになっている。
「そう言ってもこれじゃ無理だろ!刑事出身なら誰でもわかる!」
山崎は、眼鏡の奥で目を細め、資料を指で叩きながらさらに続けた。
「祖母井を取り締まる材料はここでは無い!それなら31日のオークションでの踏み込む方法を考えるのが先だろ!佐藤は謹慎になったんだぞ!」
言葉に熱を帯びてきているが、山崎も大分参っているのが伺えた。
生活安全部門を歩んできた私は、二人の激論をそばで眺めることしかできなかった。
心の中では佐藤がいれば、別の視点が出ただろうなとは思うが、謹慎になってしまっては連絡もつかない。
池袋時代の同僚から定期的に佐藤の様子を聞いているが、署員の対応に参っているのか元気がないことは知っていた。
正直、あの自信家が参っているというのは信じがたいが、その話を聞いてからあたしの心の中はもやもやしていた。
二人のやり取りを横目に、椅子の背にもたれながら佐藤の席に目をやると、未だに空いている席が寂しげに見えた。
毎朝、私は無意識にその卓上を布巾で拭いてしまう。
いつか、戻ってきた日のために。
二人の諍いが終わらずにヒートアップしたところで、突如激しく扉が開いた。
私を含めた在室メンバーが扉に目を向けると、そこには御厨理事官が居た。
「ずいぶん騒がしいが、電話くらい出てくれないか?」
そういいながら、御厨の鋭い目が山崎をじろりと射抜いた。
「あ、は、はい!すみません!気づきませんでした!」
「まぁいい、それより誰か佐藤の家にすぐに行ってほしい。」
御厨の言葉を受けて、全員の頭に疑問符が沸いた。
「それは、構いませんが。どうしてでしょうか?謹慎中ですよね?」
山崎が当然の疑問を口にした。
「人事の監察から連絡があった。謹慎の報道機関への発表は終わったため、対外への処理は決了。当該事案では全く当庁に非は無いことが判明したため、謹慎解除だそうだ。今回の謹慎は広報課要請であり、当庁職員に対する炎上対策ということだったようだ。」
それを聞いて開いた口がふさがらなかった。
「さらにな、今回の件で佐藤がLUXE事件の中核であったことを警視総監が認知した。そして人事二課に辞令交付の下命をしたそうだ。」
警視庁の人事第二課とは、警部補以下の人事を統括する部署だ。
「そ、その辞令の内容って何ですか!!??」
御厨に向かって、中村が大きな声を出した。
「私も聞いていない。我々にとって捜査第一課異動なのか、昇給等なのかも分からない。」
そう言いながら御厨は肩をすくめながらため息をついた。
「……とにかく急いで佐藤の家へ向かって、迎えに行ってほしい。人事第二課は、特務捜査係から迎えを出すのが佐藤のメンタル的に一番いいだろうという判断だ。頼んだぞ。」
そう言って、御厨が退室したのを見て、山崎がゆっくりと立ち上がった。
「どうする。誰が行く?」
自然と皆の視線が、あたしに向いた。
中村も、山崎も、他の捜査員も。
「行くなら後藤部長ですね。本当は私が行きたいですけど、佐藤しゅ…係長が一番気兼ねなく冗談言えるのは後藤部長だと思いますので。」
「そうだな、私もそう思う。毎日机も吹いているしな。」
山崎はそういって、少しニヤけた。
あたしは、胸の奥がざわざわするのを感じた。
それは『どんな辞令なのか』というよりは、元気を失った佐藤を元気づけたいという気持ちなのかもしれない。
「あたし行きますよ。」
言った時には、既に車のカギを手に取っていた。
「頼むぞ、安全運転でな!」
あたしは、山崎の指示にうなずくと、上着と鞄を持って部屋を出た。
心なしか、私の足取りは軽かった。




