第96話「山崎玲奈:漂着の夜に」
時は遡り、5月12日、午後11時58分。
小豆島のホテルの一室に、私たちは集まっていた。
空気はどんよりとしていて、重い。
出張の成果は上々だったが、佐藤の異動というのが大きな衝撃だった。
横峯の親御さんの計らいで、部屋にはいくつかのツマミと酒が届けられていた。
皆、神妙な顔つきで空きっ腹に酒を流し込む。
後藤はイライラとした表情を浮かべ、森下と横峯は周りの様子を伺い、水越はパソコンの画面に顔を向けていた。
こう言う時に口火を切るのが上司の役目とは分かりつつも、あまりに衝撃的な出来事でなんと言って良いか分からなかった。
私は、右手に持った缶ビールを思い切り流し込み、意を決して皆に明るく声をかけた。
「みんな!今日はお疲れ様!良い成果だった!」
そう笑って言ったつもりだったが、声はどこか空回りした。
私が労いの声かけをしても、部屋の空気は成功の浮つきとはほど遠い。
こういう沈黙は現場では珍しくないのだが、休息の飲み会では訳が違う。
しばらくして、横峯がぽつりと呟いた。
「……本当に、いなくなっちゃうんですかね。」
その声はとてもか細かったが、静かな部屋にはよく響いた。
後藤が勢いよく缶を置き、口元から少し泡が飛び出した。
「防犯って何よ!ふっざけてんじゃないの!?こんな大事な局面であいつ飛ばすとか!誰の判断よ!?」
誰の判断かは分からないが、間違いなく刑事部以外の者の仕業だ。
錦部長始め、刑事部の者が佐藤を外すなどあり得ない。
だが私は、あえてその言葉を飲み込んだ。
「異動の辞令は、私達程度がどう頑張ろうがひっくり返らん。……だが、あまりにも唐突だったな。」
森下が、ビールの缶を両手で包んだまま呟く。
「さっきの異動の話を聞いた時、正直、耳を疑いました。佐藤主任がいないこの捜査本部なんて……想像できません。」
「……私もだよ。」
ぽつりと言った瞬間、皆の視線が私に集まった。
私は、一度息を吸い、腹を括った。
「皆の気持ちは、痛いほど分かる。だが、我々も佐藤主任も『一警察官』だ。組織の命には従う義務がある。」
私の言葉を聞いた後藤が眉を寄せる。
「従うしかないって……そんな簡単に言わないでよ。あいつがどれだけ……!」
後藤の声が少し震えたが、森下が視線で制す。
「後藤部長……落ち着いて。」
「落ち着けるわけないでしょ……!」
だが後藤はそれ以上何も言わず、口を閉ざした。
私は缶ビールを机に置き、周りを見渡す。
「佐藤主任が居なくなるということは、彼の仕事を皆で全うする必要があるということだ。」
横峯がゆっくりと頷いた。
「……はい。分かってます。」
私は、皆の表情を順に見る。
不安、苛立ち、戸惑い、そしてなんとも言えない喪失感。
誰も口には出さなかったが、佐藤という『芯』が抜けた時の不安定さが、空気の隙間という隙間から漏れていた。
「……ただな。」
私は少しだけ声を落とした。
「佐藤主任はさっき、異動先は池袋って言ってたんだよ。」
後藤が顔を上げる。
「……それって……甘南備が管内にあるってこと?」
「あぁ。これはあくまで私の所見だが…」
このタイミングで、佐藤を防犯係長に飛ばす理由など、まともなものがあるはずがない。
「誰かがこの事件捜査を止めたくて、中心人物を排除しようと警察庁当たりに圧をかけた。佐藤の本籍は警察庁だしな。」
私は酒で口を潤し、話を続けた。
「だが、今の佐藤は警視庁の身分だからな。ウチの上層部が国への言い訳が立ちつつ、意味がありそうな立場へ異動させた。というのが筋だと思うんだ。」
後藤が悔しそうに拳を握った。
「……なんだよ、あいつは真っ当な仕事をしてただけじゃないか!痛い腹探られたくないから飛ばすなんて、卑怯だろ!あいつに捜査させないなんて!」
後藤の言葉を私は即座に遮った。
「逆だよ。これで佐藤主任は自由に動ける。池袋のどこを歩いても不審じゃ無い。それに、防犯なら防犯協会とのコネクションに、許認可事務と立入、泊まりの扱いで得られる情報量を考えたらこれ以上無い異動先だ。」
「そんなの、捜査本部に戻れるかも分からないのに、やるか分からないでしょ!」
後藤の反論に、横峯と森下も頷いた。
「佐藤主任は、あいつは根っからの刑事だって皆分かってるでしょ。刑事っていうのは、警察官の中でも取り分け諦めの悪い奴の集まりなんだよ。」
静かに、皆の視線が私へ集中する。
「異動したところで、佐藤は佐藤のまま。それなら私達は、自分の持ち場でやるべきことをやるだけでしょう。」
水越が控えめに口を開いた。
「……佐藤君は……戻ってこれるんでしょうか。」
その不安は、皆の腹の底に溜まっていた。
「戻ってくるだろ。佐藤主任なら間違いなく。」
私が断言すると、横峯が私の言葉に続く。
「……プログラムの受講を拒否してまで刑事になった気骨の有る奴ですから、間違い無いですね。」
横峯の言葉に、森下も小さく息をつき、肩の力を抜いた。
「……そうですね。佐藤主任は、完璧超人で、実在する都市伝説ですもんね!すぐ戻ってきますよね!顔もカッコいいですし!」
「顔って、あんた色ボケかよ。」と、後藤が小さく笑う。
「後藤部長だってLUXEの張り込みしてる時、ずーっと佐藤主任のこと話してたじゃないですか!それに、いつも当たり強いのに、佐藤主任のこと誰より観察してるじゃないですか!」
森下の指摘に、後藤は途端に顔を赤くした。
「は!?森下何言ってんの!別にあいつの顔なんか……!」
「顔なんか、ですか?顔も、じゃないですかー?あいたっ!」
酔った勢いなのか、珍しく森下が後藤を煽った。
それに腹を立てた後藤が、頭を小突いた。
「この!森下!何言ってんの!」
後藤が真っ赤になって抗議するのを見て、部屋の空気がほんの少しだけ軽くなった。
それを確認してから、私は口を開いた。
「……話を戻すぞ。」
全員の視線が再び集まる。
「佐藤主任は、間違いなく31日には動く。これまでも私達の想像を超えて来た男だ。今回もきっと超えてくる。」
私は一拍置いた。
「本部に戻れようが戻れまいが、31日だけは絶対に外さない。そこに賭けたプランを作る。」
水越がそっと膝の上で手を握った。
「……じゃあ、私達は何を?」
「やるべき事をやる。佐藤を信じられないなんて、女が廃るだろ?」
私は断言した。
「だから、佐藤がどんな動きをしても大丈夫な体制、環境を作るんだ。『また、よろしくな』って胸張って言えるように、全員で。私達の捜査本部が佐藤主任の帰る場所だ。」
後藤が意外そうに、しかしどこか嬉しそうに笑った。
「……係長って、こういう時だけ妙にカッコつけるね。」
「だけは余計だ。」
皆の顔に笑顔が戻ってきた。
「ただ、佐藤主任も一人の男性だ。後藤部長は前任の伝手を思いっきり使って佐藤の様子を聞いておいてくれ。もし、不調があれば、順番に連絡するようにしよう。」
「そうだね!任せときな!」
重苦しい空気が晴れ、皆の心に火が灯ったのが分かる。
その火は、誰かひとりのものではない。
私達全員が、それぞれ胸の奥に抱いた小さな火種だった。
私は、「じゃあ、仕切り直しだ。」と言いながら、缶を持ち上げた。
「おつかれ!そして、31日に向けて頑張ろう!乾杯!」
「「「「乾杯!!」」」」
乾杯の音がホテルの部屋に響き、佐藤《芯》を欠いた捜査本部が、静かに動き始めた。




