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夏の墟城  作者: 水鳴諒
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【三】アリスなんかじゃない。





 葵の部屋に、昨日と同様に招き入れられる。

 すると、葵が嘆息しながら救急箱を手にした。


「ごめんね、痛かったよね」

「……水に濡れても、もう傷は痛まない。分厚い包帯とガーゼのおかげかもな」


 俺が答えながら座ると、隣に座った俺の左の袖を捲った。


「そうじゃないよ。あの空間が」

「空間?」

「ゆづは悪い子じゃないけど、悪意みたいなものを吐くのが上手」

「別に気にしてない」

「晴臣は良い子だけど、触れられたくない言い方をするから」

「……そうだな。慰められるというのは、フォローを入れられるというのは、あしざまに言われるよりも、反応に困るな」


 苦笑した俺の手首の濡れた包帯を外しながら、チラリと葵が俺を見た。


「そこに誘った白兎みたいな僕のことも、もう嫌い?」

「白兎?」


 瞬いた俺は、包帯が外れたところで、カーゼに滲む血を見ながら考える。


「不思議の國に誘うのは白兎と決まっているでしょう?」

「それはアリスの話か? それ以前に安心していい。俺は『もう嫌い』かもなにも、お前を好きだったことがない」


 ガーゼが剥がされる時、痛みがあった。俺が片眉を顰めると、はぁっと息を吐いた葵は、片手で消毒液をたぐり寄せ、乱暴に俺の腕にかける。


「考成とアリスは似たり寄ったりだ。すやすや眠っているだけだもの。現実が上手く見られないんだ。馬鹿みたい」

「お前が何を言いたいのか、上手く意図が掴めない」

「狭く小さな世界で呼吸するのは、きっと楽なんだろうね」


 そう言いながら、葵は俺の手首を治療した。その間、俺はなにも言わなかった。

 横たわった沈黙は、手当が終わるまで続いた。


「はい。もう大丈夫だよ」

「悪いな、助かった」

「ううん」

「帰る」

「またね――あ」

「ん?」

「パン、どうだった?」


 苦笑するように笑った葵の問いかけに、少し逡巡してから俺は答えた。


「最悪に不味かった。もう呼ばないでくれ。少なくとも俺の好みではない。そもそも俺は、パンが嫌いなんだ」


 立ち上がった俺は、意地悪く笑ってみた。下ろしていた右手が、震えてしまう。人に悪意ある言葉を放つというのは、とても怖い。


「そう。ごめんね」


 悪くもないのに謝る葵。なのにその表情は、果てしなく優しく見えた。

 ばつが悪くなった俺は、逃げるように葵の部屋を後にした。


 ――本当は、美味しかった。

 ――本当は、誘ってもらえて嬉しかった。

 ――本当は、楽しくなかったわけじゃない。一瞬の、みんなとの空間が。


 けれど。

 俺はもう、耐えられない。俺を害する世界の全てが、ただでさえおぞましい様相で迫り来るというのに、唯一許された小さなこの下宿という城まで、踏み入られ荒らされてしまったならば、もう何処にも居場所はなくなるのだから。友達という火に焼かれるくらいならば、孤独が齎す帷の方が、どんなに優しいことか。


「ありがとうな、葵」


 ぽつりと呟き、俺は自室へと戻った。




 ――週が明けた。

 睡魔を振り払いながら、自習時間とは名ばかりの学校規定の小テストを受ける。隣の席の相手と用紙を交換しての採点だ。俺は採点をしながら、記憶していた自分の答えの正否を考える。


 それが、月曜日から金曜日まで続く。

 土曜日は、少し変則的な午前授業がある。週休二日制度は、俺の学校には適応されていない。土曜日は午前中が自習という名の授業で、午後もまた自習という名の授業だ。特進コースのみが、勉強漬けで、日曜日だけが『在宅での自習日』とされる。予習復習は毎日当たり前に課されている。


 そんな時間編成であるから、俺は基本的に、他の下宿生と食事の時間やお弁当を受け取る時間が重なることはない。俺も意識的に、葵や晴臣、弓弦のことを忘れようとした。


 そうして、日曜日が訪れた。


 コン。

 俺はベッドの上で瞬きをした。眠い。だが、音がした気がした。

 コンコン。

 今度は、少し強く。確かに音がした。けれどまだ、眠い。俺は寝返りを打ち、毛布を抱きしめる。

 コンコンコン。

 苛立つように変わった音。さすがに俺も、ノックをされているようだと気づいた。


「はい」

『今日はピザにしたよ。自信作なんだ』


 葵の声がした。


 二度と来ないだろうと思っていたから驚いて、俺は一気に覚醒した。

 慌てて眼鏡を手に取る。

 そして手首にリストバンドを着けてから、俺はドアの前に立った。


「……葵?」

『うん?』

「……また来たのか」


 俺の口からは、呆れたような声が出た。本当は、胸騒ぎがしていた。もう、来ないと思っていたからだ。葵に嫌われた、葵に嫌わせた、そんな現実は、この一週間、俺の胸に傷を遺していた。不可解だった。たった二度しか会っていないというのに。でも、それもそうかとは思う。俺はこれまで、誰にも嫌われないように極力気を遣って生きてきたからだ。


 それこそ例えば、いじめられっ子にも優しい模範生、いじめっ子ともいじめられっ子ともつかず離れず――ただ、その代償として、『あの子は特別に優秀な人間であるから』という溝。俺は壁の上に座っている。そう、アリスなんかじゃない。いつ落ちてもおかしくないハンプティ・ダンプティがお似合いだろう。少女が好むようなモティーフとして挙げるのであれば。その対象年齢は、きっと低い。


 でも。

 ぐちゃりと。

 潰れて黄身をまき散らし、硬い外郭が割れて粉々になった後、透明な白身が広がっていく卵は、果たして不幸なのか? Nobody Knows、そんな言葉が過っては消えるのは、まだ寝起きだからなのかもしれない。


『そうだよ、冷めちゃう。さぁ、開けて?』


 かろやかな、柔らかく優しい笑みを含んだ葵の声。

 俺は深呼吸をしてから俯いて目を閉じる。開けるのが怖い。ぬるま湯に囚われる気がした。陽だまりに襲われる気がした。断るべきだと理性が嗤う。俺がすべきは勉強だ。


「ああ」


 だが、俺はドアを開けた。そこには真正面で微笑する葵の顔があった。


「さぁ、行こう」


 銀髪を揺らした葵が踵を返す。俺はその後に続いて二階に降りた。

 そこにはピザの良い匂いが漂っていて、晴臣と弓弦の姿もあった。


「寝穢いんだね、遅いよ」


 弓弦が半眼で俺を見ながら笑った。八重歯が印象的だ。

 既にピザを食べている晴臣は、にこやかに笑っている。


「よ、考成」

「……顔、洗ってくる」


 俺はそう告げて洗面所へと向かった。







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